


アリゾナ・カージナルス (Arizona Cardinals) は、アリゾナ州フェニックス近郊のグレンデールに本拠地を置くNFLチームである。かつてはNFC東地区に所属していたが、2002年よりNFC西地区に所属している。NFLを含め、現存するプロのアメリカンフットボールチームの中で最古の歴史を持つ。スーパーボウルが始まる前の1925年、1947年にNFLチャンピオンとなっている。第43回スーパーボウルに出場している。チームは1898年にクリス・オブライエンにより、モーガン・アスレティック・クラブとしてシカゴで創設された。1899年にチームはホームスタジアムをノーマル・パークに移しラシーン・ノーマルズと改称、1901年にシカゴ大学からマルーンのユニフォームを購入した。この時オーナーはこれはマルーンではなくカージナルレッドだと述べて、それがチームの愛称となりラシーン・カージナルスと改称した。1906年にいったんチームは解散したが1913年にプロチームとして再建された。1918年に第1次世界大戦、スペインかぜの影響で活動を一時停止したが年内に活動を再開した。1920年にNFL(当初は、American Professional Football Association、1922年からNational Football League)のオリジナルメンバーとなった。NFL発足当時から現在まで存続しているチームは他にシカゴ・ベアーズ(当初はデカター・ステイリーズ)だけであり1921年にグリーンベイ・パッカーズが加入した。1922年にウィスコンシン州ラシーンからシカゴに移転しシカゴ・カージナルスとなり本拠地もコミスキー・パークに移した。1925年に11勝2敗1分の成績でチームは初めてNFLチャンピオンとなった。1929年、オブライエンオーナーはデビッド・ジョーンズへ2万5000ドルでチームを売却した。その後1932年にジョーンズからチャールズ・ビドウィルへチームの売却について合意がなされたがシカゴ・ベアーズの株式を持っていたビドウィルがこれを売却する1933年まで合意が公表されることはなかった。その後1930年代には10年間で2回しか勝ち越しできなかった。1933年よりリーグは東西2つに分かれることとなったが、カージナルスはウェスタン・ディビジョンに所属することとなった。1936年から1945年までは10シーズン連続で負け越した。第二次世界大戦の影響で1944年に1シーズンのみピッツバーグ・スティーラーズと合同チームを結成し「Card-Pitt」となったが10連敗に終わった。1945年は1勝に終わったものの1946年には6勝5敗と勝ち越し、1947年に9勝3敗の成績を上げたチームはその年のNFLチャンピオンシップゲームでフィラデルフィア・イーグルスを28-21で破り2度目のNFLチャンピオンとなった。しかし優勝の8ヶ月前にビドウィルオーナーは肺炎のために亡くなっており未亡人のバイオレット・ビドウィルがオーナーに就任していた。この時のスター選手はQBポール・クリストマン、HBチャーリー・トリッピ、エルマー・アングズマン、FBのパット・ハーダーらであった。1948年チームは11勝1敗で2年連続NFLチャンピオンシップゲームに出場したがこの年は0-7でフィラデルフィア・イーグルスに敗れた。1949年バイオレットオーナーはミズーリ州セントルイスの実業家、ウォルター・ウォルフナーと結婚した。チームは6勝5敗1分でシーズンを終えた。1950年、NFLにオール・アメリカ・フットボール・カンファレンス(AAFC)から4チームが加入した際、アメリカン・カンファレンス(1953年からイースタン・カンファレンス)に所属することとなった。チームは1950年代の10年でわずか33勝しかあげることができず観客はまばらとなりチームは倒産寸前となった。1959年シーズン終了後、フランチャイズをセントルイスに移転し、セントルイス・カージナルス(MLB球団のセントルイス・カージナルスと同じ愛称)と改称した。この移転には1960年からNFLに対抗するAFLが誕生する際にセントルイスに球団が設立されるのを阻止する目的も含まれたものであった。セントルイスへの移転はNFLのオーナー会議にかけられて12人のオーナーによる全会一致で移転は承認された。この時代のスター選手はラリー・ウィルソン、チャーリー・ジョンソン、ジム・バッケン、ソニー・ランドル、ジム・ハートらである。1962年にバイオレットは亡くなり息子のチャールズ・ビドウィル・ジュニア、ビル・ビドウィルがチームを運営するようになった。1964年、ビドウィルオーナーはアトランタにチームを移転することを検討したが新スタジアムを建設するので留まるようセントルイス市当局の訴えを受け、移転は白紙となりアトランタにはアトランタ・ファルコンズが新フランチャイズとして誕生することとなった。1965年チームは4勝1敗と好スタートを切ったが5勝9敗でシーズンを終えた。1966年も一時8勝2敗1分でイースタン・カンファレンストップを走ったがそこから3連敗して8勝5敗1分となりプレーオフ出場は果たせなかった。1967年チームはイースタン・カンファレンスのセンチュリー・ディビジョンに所属することとなった。この年は6勝7敗1分で終えた。1968年、9勝4敗1分の好成績を残したがプレーオフ出場は叶わなかった。1969年は4勝9敗1分に終わったがこの年から14シーズン、カージナルスでプレーし後にプロフットボール殿堂入りを果たしたロジャー・ウェールリがミズーリ大学から入団し先発セイフティとして活躍した。1970年のNFLとAFLの統合した際にNFCの東地区に所属することとなった。1970年11月、チームはヒューストン・ロケッツ、ニューイングランド・ペイトリオッツ、ダラス・カウボーイズに3試合連続で完封勝利を果たした。コットン・ボウルで行われたマンデーナイトフットボールのカウボーイズ戦では38-0の大勝であった。しかしシーズン最後3試合のニューヨーク・ジャイアンツ、デトロイト・ライオンズ、ワシントン・レッドスキンズ戦に3連敗し8勝5敗1分に終わりプレーオフを逃した。1971年から1973年までは3年連続4勝9敗1分に終わった。なお1972年からビル・ビドウィルが単独オーナーとなり現在までチームを所有している。1つのファミリーがNFLチームを所有している期間としてこれより長いのはニューヨーク・ジャイアンツ、シカゴ・ベアーズだけである。1972年シーズン終了後、ラリー・ウィルソンが現役を引退、1973年チームにサンディエゴ州立大学からドン・コリエルがヘッドコーチに就任した。1974年、チームは開幕から7連勝を果たしNFC東地区優勝を果たした。チームがプレーオフに出場するのは1948年以来のことであった。プレーオフ、敵地メトロポリタン・スタジアムで行われたミネソタ・バイキングス戦でチームは7-0と先制したがハーフタイム前にFGに失敗するとモメンタムを失い後半開始7分で16失点するなど14-30で敗れた。1975年もチームは地区優勝を果たしたがロサンゼルス・メモリアル・コロシアムで行われたロサンゼルス・ラムズ戦でローレンス・マッカチオンにNFLのプレーオフ記録となる202ヤードを走られジャック・ヤングブラッド、ビル・シンプソンにインターセプトリターンTDを許すなど23-35で敗れた。この時代チームはダン・ディアードルフ、コンラッド・ドブラー、トム・バンクスといった優れたオフェンスラインに支えられた。この時代のチームは接戦が多くメディアやファンはCardic Cardinals とチームを呼んだ。この時代のスターはウェールリ、メル・グレイ、テリー・メトカーフ、ジム・オーティスであった。1976年、チームは10勝4敗の好成績を残したが、同じ10勝4敗となった同地区のワシントン・レッドスキンズに2敗しており、NFCのチームとして10勝しながら初めてプレーオフ出場を逃したチームとなった。1977年チームはシーズン途中6連勝を果たしたがその後翌1978年にまたがり12連敗した。この連敗の中には1976年創設されてから26連敗し、ホームではまだ勝ち星をあげていいなかったタンパベイ・バッカニアーズにタンパ・スタジアムで敗れた試合も含まれた。1977年シーズン終了とともにコリエルヘッドコーチ、メトカーフ、ドブラーはチームを去った。1978年チームはオクラホマ大学を17年間指揮した名将、バド・ウィルキンソンを新ヘッドコーチに迎えた。しかしウィルキンソンは1963年を最後にコーチを引退しており、1978年、チームは開幕から8連敗し6勝10敗、1979年も3勝10敗の成績で解任され最後の3試合はラリー・ウィルソンが暫定ヘッドコーチに就任し5勝11敗で終えた。この時代チームはドラフトの失敗や不幸な出来事が重なった。1978年のドラフト1巡で指名されたスティーブ・リトルは1980年に交通事故で選手生命を失い、1979年のトレーニングキャンプ中にJ・V・ケインが心臓発作で死去した。カージナルスは28シーズンをセントルイスで戦ったがその間プレーオフに出場したのは1974年、1975年、1982年のわずか3回であり187勝202敗13分、勝率.481に終わった。1982年から1984年までチームは3年連続で勝ち越した。この時代のスターはQBニール・ロマックス、WRロイ・グリーン、RBオーティス・アンダーソンである。1982年ストライキで短縮されたシーズンを5勝4敗で終えたチームは16チームが出場することとなったプレーオフに出場したがグリーンベイ・パッカーズに16-41で敗れた。1983年、チームはこの年第18回スーパーボウルを制するオークランド・レイダーズを破るなど8勝7敗1分の成績を残した。1984年、チームは最終週のワシントン・レッドスキンズに勝利すればプレーオフ出場を果たせるところであったが逆転を狙ったFGが失敗し27-29で敗れた。1985年、チームは3勝1敗と好スタートを切ったが5勝11敗に終わり、6シーズンチームの指揮を執ったジム・ハニファンはチームを去った。彼の後任となったのがトム・ランドリーのもとでアシスタントコーチを務めたこともあるテキサス農工大学の元ヘッドコーチ、ジーン・スターリングである。1986年、4勝11敗1分、1987年、7勝8敗とチーム成績は改善された。この年のタンパベイ・バッカニアーズ戦では3-28と25点差リードされた状況から第4Qに28点を取り、31-28と逆転勝利をおさめた。これは第4Q最大得点差からの逆転勝利としてNFL記録となっている。1988年にアリゾナ州フェニックス都市圏に移転し、フェニックス・カージナルスと改称した。しかし貯蓄貸付組合からの資金調達ができず新スタジアム建設は果たせず、テンピにあるアリゾナ州立大学が所有するサン・デビル・スタジアムを本拠地とした。アリゾナ州に移転してからもチームはNFC東地区に所属した。そのためロードゲームにおける移動距離はNFL一であることが多かった。また73,000人収容可能なスタジアムに観客は平均35,000人しか入らずチケットが完売するのは平均して年に8試合中2試合ほどであった。1994年3月にアリゾナ・カージナルスと改称した。老朽化したブッシュ・メモリアル・スタジアムやチーム成績の影響で観客数は伸び悩み、ビドウィルオーナーはボルチモア、フェニックス、ジャクソンビルなどへの移転を検討した。いったんは地元ファンの反対もあり計画は中止されたが1987年ホーム最後のゲームとなったニューヨーク・ジャイアンツ戦は29,623人の観客しか入らなかった。2002年にヒューストン・テキサンズが加入した際の地区再編でそれまで所属していたNFC東地区からNFC西地区に移った。2008年シーズン地区優勝を決めた後調子を落としたもののプレーオフに入ってからQBのカート・ワーナーやWRラリー・フィッツジェラルドらの活躍、レギュラーシーズン不振だったディフェンスのがんばりでアトランタ・ファルコンズ、カロライナ・パンサーズ、フィラデルフィア・イーグルスを破りピッツバーグ・スティーラーズと第43回スーパーボウルで対戦した。前半終了間際、カート・ワーナーのパスがエンドゾーンでインターセプトされ100ヤードリターンタッチダウンをされるなど大きくリードされたがその後フィッツジェラルドへのTDパス2本が決まり逆転を果たした。しかし終了1分を切ったところでスティーラーズの逆転タッチダウンが決まりスーパーボウル初制覇はならなかった。2009年もチームは地区優勝を果たしたがニューオーリンズ・セインツにプレーオフで14-45と敗れ、シーズン終了と共にカート・ワーナーは引退した。2010年のシーズンオフにデレック・アンダーソンを獲得、ワーナーの後継として期待がかかったマット・ライナートはシーズン開幕前に解雇された。シーズン開幕後、不安定なアンダーソンに代わりドラフト外で入団した新人QBマックス・ホールが先発を務めることとなった。2011年、フィラデルフィア・イーグルスからQBケビン・コルブを獲得した。コルブは故障がちでジョン・スケルトンと併用された。ドラフト1巡で獲得したパトリック・ピーターソンがパントリターンで4タッチダウンをあげる活躍を見せた。オーバータイムでの勝利も何度かあり、8勝8敗でシーズンを終えた。2012年、開幕直前までケビン・コルブとジョン・スケルトンが先発QB争いを行ったが、両者ともにプレシーズンゲームでは結果を残せないまま、スケルトンが開幕戦のエースQBに指名された。その後、スケルトンが負傷退場、コルブがQBを務める中、1974年以来となる開幕からの4連勝をあげたが、その後9連敗するなど、残り12試合で11敗し、5勝11敗でシーズンを終えた。シーズン終了後、ワイゼンハントヘッドコーチ、ロッド・グレイブズGMは解任された。後任のヘッドコーチにはインディアナポリス・コルツで病気のためチームを離脱したチャック・パガーノの代わりに2012年シーズン途中指揮を執っていたブルース・アリアンズが就任した。アリアンズ指揮下の2013年以降はスーパーボウル進出こそ果たせていないが、レギュラーシーズンは3年連続で勝ち越している。アリアンズはコルツでペイトン・マニングやアンドリュー・ラック、ピッツバーグ・スティーラーズでベン・ロスリスバーガーを指導するなどQB育成の実績を残してきたが、ここでもハイズマン賞受賞者でありながら安定した成績を残せずにいたカーソン・パーマーを正QBとして成長させ、手腕を示した。2015年シーズンは2008年以来のNFCチャンピオンシップゲーム進出を果たした。1920年以降
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