海上自衛隊の航空母艦建造構想(かいじょうじえいたいのこうくうぼかんけんぞうこうそう)では、海上自衛隊の航空母艦等の類似艦艇建造構想について述べる。保安庁警備隊は、その創設期より、航空母艦の取得(旧帝国海軍との連続性を重視するなら"再取得")を志向していた。海上保安庁海上警備隊から改編された直後の1952年(昭和27年)、Y委員会においてまとめられた新日本海軍再建案では、アメリカ海軍からの供与により護衛空母4隻の整備が盛り込まれていた。このときには、要求過大であったことから新日本海軍再建案そのものがアメリカ側に受け入れられなかったものの、1953年(昭和28年)3月ごろには、対潜掃討群()の編成という具体的な運用構想のもと、その中核艦として護衛空母(CVE)ないし対潜空母(CVS)の貸与を受けることが構想された。また同時期、アメリカ海軍も警備隊において航空母艦の必要性を認めており、1953年(昭和28年)12月21日付でアメリカ統合参謀本部事務局が作成した「日本の防衛力」および別紙資料で示された当時の警備隊の兵力整備目標のなかに、軽空母4隻と防空巡洋艦3隻の保有が盛り込まれていた。ただしこれらについては、この時点では日本政府に対して提案されないこととされていた。これらの流れを受けて、1954年(昭和29年)には、保安庁の昭和29年度防衛力増強計画において、警備隊用として駆逐航空母艦(原文ママ)1隻が駆逐艦4隻、護衛艦3隻ともにアメリカ側に要求された。同年4月には、米軍事援助顧問団から第二幕僚監部に対して、HUK部隊の中核となる空母2隻を貸与するとの意向が示された。これを受けて、1955年(昭和30年)9月には長澤浩海幕長が横須賀で米海軍の護衛空母を視察した。しかしその後、1956年(昭和31年)にかけておこなわれた防衛庁部内での検討において、当時の経済情勢等を勘案して「空母の受け入れは時期尚早」と結論されて、これらの構想は一応放棄された。しかし対潜掃討群(HUKグループ)の編成という運用構想は放棄されず、1957年(昭和32年)〜1958年(昭和33年)頃より再び取り上げられるようになった。当初はアメリカからの空母入手が想定されており、1957年(昭和32年)より供与が開始されたS2Fの初号機受領時には、受領要員として派遣された海自のP2V-7操縦資格者と整備士がアメリカ海軍の対潜空母「プリンストン」に乗艦し、洋上で発着艦体験と航空機整備の研修を受けている。当時、派遣に参加した元隊員は、この時の派米部隊は将来の空母運用を見越して派遣されたと語っている。アメリカ海軍より正規空母のエセックス級供与を受けることも検討されたものの、予算上困難と判断され見送られた。その後、対潜哨戒ヘリコプター(HS)という新技術の発達とともに、ヘリ空母として独自の運用思想が構築されることとなった。この当時、原子力潜水艦の登場に伴って、敵潜の避退時速力の高速化が予想されたことから、水上艦艇による掃討列の前・側方にヘリコプターを配することで捕捉率を向上させることが構想されており、世界的にもまだあまり例のない運用思想であった。この運用思想のもと、基準排水量23,000トンのCVH-a(対潜ヘリコプター18機及びS2F対潜哨戒機を6機搭載)と、基準排水量11,000トンのCVH-b(対潜ヘリコプター18機搭載)の2案が構想されたが、検討の結果、総合的にCVH-b案が優れると判断された。1959年(昭和34年)には海幕内で「ヘリ空母CVH」として計画が具体化され、同年8月には技術研究本部において検討資料として、左記のような諸元を備えた配置図草案が作成された。主機関は「あまつかぜ」(35DDG)に準じたものとされた。飛行甲板は全長155m×最大有効幅26.5mで、中部から後部にかけて3ヶ所のヘリコプター発着スポットが設定されていた。エレベータは17m×8m大のものが2基、前部エレベータは甲板内式、後部エレベータは舷側式に設置される。ハンガーは長さ112.5m×最大幅22mで、HSS-2ヘリコプター18機を格納できるものとされた。ダメージコントロールのため、船体中心より後方4mの位置でスライディング・ドアが設置されており、非常時にはこれを封鎖してハンガーを前後に分割することができるものとされた。建造費は100億円と見積もられ、日本側負担が80.5%、アメリカ側が19.5% HSS-2ヘリコプター27機の予算は日本側負担が47.8%、アメリカ側負担が52.2% 経費全体では日本側負担が62.8%、アメリカ側負担が37.2%だという事まで話が決まっていた。また対潜掃討群の編成としては、CVH×1隻、DDG×1隻、DDA×2隻、DDK×3隻と計画されていた。赤城宗徳防衛庁長官が積極的に推進していたこともあって、CVHに関してはこのように具体的な検討がなされ、1960年(昭和35年)7月の防衛庁(当時)庁議において建造が決定された。しかし同年は、いわゆる60年安保の年で政局が混乱していたことから、2次防の国防会議への上程そのものが見送られることとなった。また外洋に出ていきたい海上自衛隊と専守防衛にこだわる防衛庁(当時)内局とのせめぎ合いが起こったこともあり、昭和36年度予算および2次防へのCVH計上は行なわれず、以後、CVH計画が正式に取り上げられることはなかった。防衛庁防衛局長を務めていた海原治は、2次防CVHに関して「(海上自衛隊は)日本の四つの島が生きてくために何が出来るか、何をするかということじゃないんですよ。やはり軍艦マーチに乗って太平洋に出ていく、これが夢なんですね。それは(旧海軍から)今でも生きているんです。」「私がヘリ空母を沈めたことはアメリカの方にとっても衝撃だったんですね。(中略)海上自衛隊とアメリカ海軍との間で決まっているものを私がご破算にしちゃったわけです。だから、これは大変な問題になるわけです、彼らにとっては。」と述べている。また、後に自衛艦隊司令官となった香田洋二海将は、海原防衛局長の防衛論の限界を指摘する一方、CVH計画についても下記のような問題点を指摘している。第3次防衛力整備計画(3次防:昭和42年~46年(1967年~1971年)度)において、艦隊構成として8艦6機体制の構想が採択され、これに基づき、ヘリコプター3機搭載の4,700トン型DDH2隻(43年度計画艦、45年度計画艦)が建造された。続く第4次防衛力整備計画(4次防:昭和47年~51年(1972年~1976年)度)では、オペレーションズ・リサーチの手法によって、計画はさらに具体化された。この結果、護衛隊群の基本構成としての8艦6機体制が踏襲されるとともに、艦隊防空火力として、ターター・システム搭載のミサイル護衛艦(DDG)1隻が編成に含まれることとされた。そしてこれらの航空運用能力と艦隊防空ミサイル運用能力を1隻で充足しうる艦として、8,700トン級DLHが構想されることとなった。このDLHは、護衛隊群2群目の近代化用と対潜掃討群用として計画されており、当初案では基準排水量8,700トン~10,000トン程度、主機関は蒸気タービン12万馬力、ヘリコプター6機搭載とスタンダードSAM装備として、2隻建造する事を計画するも、オイルショックの影響を受け、基準排水量8,300トン程度、蒸気タービン10万馬力、対潜ヘリコプター6機搭載、対空ミサイル装備なし(後付けする予定だった)の縮小型に変更し、隻数も4次防期間中の建造数を一隻に減らした。DLHは将来的にハリアー垂直離着陸戦闘機を搭載・運用する事を考慮して全通飛行甲板を備えていた。1971年の名古屋国際航空宇宙ショーでは海自幹部がハリアーに体験搭乗したり、4次防では「VTOL機に関する調査研究費」が計上され大蔵省に認められ、調査団が渡英している。しかし国防会議事務局長の海原治の反発とオイルショックの影響で対潜掃討群の新編が断念されたこともあって見送られ、かわって、4,700トン型DDHの拡大改良型である5,200トン型DDH2隻(50年度計画艦、51年度計画艦)が建造された。なお、のちに洋防研に伴う諸検討が行なわれていた1987年(昭和62年)5月19日の参議院予算委員会において、西広整輝防衛局長(当時)は、対潜ヘリコプター搭載の空母について「空母がやられてしまいますと非常にダメージが大き過ぎるというようなことで、分散して護衛艦に1機か2機ずつ積んだ方がよろしいということで別の選択になったわけであります」と答弁している。その後、海上自衛隊では8艦6機体制にかわって8艦8機体制を策定したが、この体制下においても、これらのDDHは航空中枢艦として活躍した。なおこの時期、社会党の大出俊により防衛庁防衛局が作成した日米安保解消と日米安保条約の相互防衛条約への改定の2つのケースを想定した自前防衛の長期構想が明らかにされ、長期構想に「攻撃型空母や原子力潜水艦の保有」や、「日本の核保有には2兆8,000億必要になる」との見通しが書かれている事が政治問題化したが、防衛庁(当時)はあくまで安全保障に関する研究の一環であり、問題はないとした。また北村謙一自衛艦隊司令官が「将来、攻撃型空母も持ちたい」と発言した事が社会党から問題視されて国会で政治問題化した事により石田捨雄海上幕僚長が記者会見で謝罪する事態となった。その後、北村司令官は退任に追い込まれ、責任を問われた石田海幕長もその後退任を余儀なくされた。1970年代後半ごろより、シーレーン防衛という新たな概念が重視されるようになってきた。1976年(昭和51年)に海上幕僚長に就任した中村悌次海将は、防衛すべき範囲として東京とグアムおよびバシー海峡をそれぞれ結ぶ2本のライン("中村ライン")を提示した。1981年(昭和56年)5月、この概念を元にワシントンD.C.訪問中の鈴木善幸内閣総理大臣が「シーレーン1,000海里防衛」を提唱し、続く中曽根康弘内閣でさらに具体化された。中村ラインを提唱した中村海幕長は、1977年(昭和52年)9月に同職を離任する際の『離任にあたり講話』で、「洋上防空にはミサイルだけでなくV/STOL機のような戦闘機が必要だがこれには手を付けられなかった。誠に無念である。」と述べた。またこの前後より、ソビエト連邦軍において、射程400km、超音速を発揮できるKh-22 (AS-4 キッチン) 空対艦ミサイルと、その発射母機として、やはり超音速を発揮できるTu-22M爆撃機、そして電子攻撃用に改造されたTu-16電子戦機の開発・配備が進められるようになっており、経空脅威は大幅に増大していた。この情勢を受け、1986年(昭和61年)5月、防衛庁(当時)内に設置されていた業務・運営自主監査委員会を発展拡大させて防衛改革委員会が設置され、その傘下の4つの委員会および小委員会の一つとして洋上防空体制研究会(洋防研)が発足した。洋防研においては、OTHレーダーや早期警戒機、要撃戦闘機等による洋上防空体制の強化・効率化が模索されており、護衛艦隊においては、ミサイル護衛艦の艦対空ミサイル・システムのイージスシステムへの更新とともに、航空機搭載型護衛艦(DDV)が検討された。イージス艦が空対艦ミサイルに直接対処する施策であるのに対し、DDVは、ASM発射以前の爆撃機に対処することにより、より根本的な"母機対処"を担う構想であった。イージスシステムは在来型DDGのターター-D・システムよりもはるかに強力な防空能力を備えるであろうが、それでも、数次にわたる空襲を受けた場合は艦隊の防空網をすり抜けたASMによる損害が蓄積され、最終的に艦隊は失われるとの予測がなされたことから、母機対処の能力は非常に重要であった。1985年(昭和60年)8月17日、読売新聞はジェーン年鑑1985-1986年版の記載において、「日本は1988~1992年の五ヶ年の防衛力整備の最も野心的な計画として、16,000トン級の大型ヘリ空母の建造を計画している。この空母には、14機の対潜ヘリを搭載するほか、垂直発射ミサイル装置を持ち、対潜作戦能力は飛躍的に増強される」との記載があることを報じ、併せて防衛庁が「ジェーン年鑑が指摘する防衛力整備は62中業(64~68年度)を指すものと見られるが、59中業(61~65年度)すらまだ決定しておらず、大型空母建造など根も葉もないことだ。ジェーン年鑑に対して、訂正を申し入れる」としたことも報じた。その後、同年10月20日付けの日本経済新聞にて計画が部外に明らかになった当初、軍事評論家の藤木平八郎は深縦洋上防空には理解を示すも、シーハリアーの能力不足を指摘していた。統合幕僚会議議長を務めた佐久間一は、こうした構想について、「DDVが絶対とは私は今でも思っていません。しかし、いちばん現実的なオプションではあるだろうな」との見解を示している。また、ほぼ同時期に自衛隊高級幹部OB及び自民党防衛族議員で構成されていた日本戦略研究センター(現在は解散し、日本戦略研究フォーラムに継承されている)が政府・自民党に対して提出した「防衛力整備に関する提言」の中で「護衛水上部隊は、七個護衛隊群とする。そのうちの五個護衛隊群は、それぞれ各出撃二~三週間の連続作戦に必要な対潜ヘリコプターのほかに、対象勢力の新型基地爆撃機を要撃する要撃機などを積載できる対潜ヘリコプター等搭載、大型護衛艦(DLH)一隻を中核として編成する」とされていた。他にも洋上防空の手段として、P-3C対潜哨戒機を母体として、早期警戒能力やフェニックス空対空ミサイル12発およびAN/AWG-9火器管制システムを搭載したEP-3C改を、厚木の第4航空群に10機、那覇の第5航空群に10機の各一個飛行隊を編成し、那覇基地と硫黄島基地、父島基地に配備して洋上防空を行う"空中巡洋艦構想"も検討されていたが、空中巡洋艦構想はEP-3C改の行動半径が沖縄周辺空域と硫黄島周辺空域に限定され、DDVやイージス艦と比較して作戦柔軟性や迅速性に乏しく、護衛艦隊の都合に合わせて一体運用出来ないことを理由に早々に検討対象から除外されていた。以上のような検討を経て、DDVはおおむね、排水量15,000〜20,000トン前後、全通甲板を有し、シーハリアー級の戦闘機を10機前後、早期警戒(AEW)ヘリコプターおよび対潜哨戒ヘリコプターを数機搭載する構想となった。しかし、洋防研において母機対処の必要性は理解されたものの、肝心のシーハリアーの能力が限定的であり、超音速のTu-22M爆撃機への対処に不安が残ったほか、「空母」という言葉のもつ政治的インパクトへの配慮、更にアメリカ海軍の反対(アメリカ海軍空母の護衛に加わるためのイージス艦の優先をリコメンド)もあったことから、海幕はDDV計画を取り下げ、イージス艦導入に重点を形成することとされた。イージス艦については、吉田學海将が当時のアメリカ海軍作戦部長ジェームズ・ワトキンス大将を説得したことにより、当初予定されていた一世代前のものではなく、最新のイージスシステムの提供が実現した。またのちの2003年(平成15年)10月2日、衆議院安全保障委員会において、03中期防中にAV-8B ハリアー II 4機、及びAV-8B+ハリアー IIプラス 13機、合計で17機調達し、8年度以降の次々期防ではそれぞれを32機以上と4機以上の計36機以上を購入する計画を含む「海自次期防計画 海幕素案」と称する海自内部資料についての質問がなされたが、石破茂防衛庁長官(当時)により否定されている。また、同時期にAV-8B+ハリアー IIプラスを搭載した艦艇の構想があったが、政治的理由で頓挫したほか、複座型ハリアーを訓練支援機(研究機)として3機導入する案が検討された。このほか、1990年(平成2年)12月に閣議決定した03中期防の策定過程で、海自は中期防に直接盛り込む装備とは別に「将来構想」としてV-22の救難機としての導入を提案している。洋防研で提言されたDDVは断念されたものの、平成10年台中期において、はるな型(43DDH)がおおむね運用寿命を迎え、後継艦が必要となることは自明であった。従来の駆逐艦艦型では、ヘリコプターの同時運用能力や夜間・荒天時整備能力に大きな制限があったことから、飛行甲板の全通飛行甲板化が志向されることとなった。はるな型よりも先に更新時期を迎えたあつみ型(45LST)の後継艦において、まずこの志向が試されることとなった。03中期防で検討された、この平成5年度計画輸送艦では、LCAC-1級エア・クッション型揚陸艇の母艦機能を備えることにより揚陸能力の大幅向上を実現するとともに、輸送ヘリコプターによる空中機動輸送能力も検討された。ただし当時は空母艦型に対して依然として微妙な空気が残っており、慎重な対応が求められた。この結果、実際に建造された8,900トン型輸送艦(おおすみ型)では、航空機の収容・整備能力は極めて限定的なものとされ、運用コンセプトとしても、航行しながらヘリコプターを発着艦させる機動揚陸戦ではなく、漂泊ないし錨泊状態での運用による海上作戦輸送方式が前提とされた。しかしそれでも、同型は、自衛艦として初めて全通飛行甲板船型を採用して完成された。諸外国の場合、この規模のドック型揚陸艦では船体前部に大型の上部構造物を作り、ここにヘリコプター格納庫を設置する例がほとんどであり、全通飛行甲板にしたことでかえって航空機運用能力を損なっているとして専門家の批判を受けたが、本型における全通甲板の採用は、来るべきDDH後継艦を強く意識したものであった。なお本型は、ヘリコプターの発着艦は可能であるが、VTOL機の発着は考慮されておらず、おおすみ型の甲板で多くの航空機を運用するのは無理だとされているが、担当者レベルではおおすみ型にVSTOL機を搭載出来るように真剣に検討したと言われている。その後の日米共同演習「」において、アメリカ海兵隊のMV-22Bオスプレイが2番艦「しもきた」に着艦している。また平成26年(2014年)度以降、オスプレイの運用に対応した改修が計画されている。はるな型(43DDH)の後継艦は13中期防において建造されることとされ、2000年1月、瓦力防衛庁長官はカリフォルニア州サンディエゴ海軍基地で「次期中期防に、高度な情報通信機器を装備し、指揮統制能力を強化した『ハイテク指揮艦』の取得を盛り込みたい」と発言した。2000年12月に閣議決定され、この際には下記の3つの船型案が提示された。3つの案のうち、当初は第2案が、予想図では無く「イメージ図」という用語を伴って発表されたが、閣議決定の対象ではなく以後の作業を束縛しないものとされた。この図の段階でマストや煙突は右舷側に寄せられており、左舷側には前後の発着甲板をつなぐ大型のシャッターや大きな艦橋が置かれているだけだった。このため、実際の船型は全通甲板の第3案に内定しており、航空母艦に近い形状で世論の反発を買うことがないように作った図であるとも言われた。また全通甲板のほうがあらゆる点で性能的に優れることもあり、最終的に、複数の水中目標対処等の状況を想定して、第3案に変更され、2003年には第3案に基づく予想図が発表された。この設計による13,500トン型DDHは、1番艦が2009年3月18日、「ひゅうが」(DDH-181)として就役した。続く2番艦は平成17年度予算で要求される予定であったが、海自のC4Iシステム整備とミサイル防衛関連に防衛予算全体が圧迫された為この要求は先送りとなり、平成18年度予算で要求が行われ、その建造が認められた。2011年3月16日、「いせ」(DDH-182)として就役した。はるな型(43/45DDH)の後継艦としての13,500トン型(16/18DDH)に続き、しらね型(50/51DDH)の後継艦が22中期防(予定)での建造を予定された。ただし第45回衆議院議員総選挙に伴う政権交代で中期防策定が遅延したため、1番艦は単年度の平成22年度予算で建造されることとなった。2009年8月31日、2010年度予算の概算要求に基準排水量19,500トン、全長248メートル、最大14機のヘリコプターを搭載し5機の同時発着艦、他艦への洋上給油が可能、車輌・人員の輸送力が強化された19,500トン型DDHを配備する方針が発表された。初期の完成予想図には、固定翼機を離陸させるための傾斜構造(スキージャンプ台)が描かれていたが、最終版の設計図ではこの部分は姿を消している。2015年3月25日、1番艦が「いずも」(DDH-183)として就役した。続いて2番艦は2013年10月7日に起工し、2015年8月27日「かが」(DDH-184)と命名され進水した。固定翼機運用に関しては、2008年の横浜国際航空宇宙展での講演において海幕防衛部装備体系課長の内嶋修一等海佐(当時)が将来多目的空母でF-35Bを運用する構想に言及しており、講演中に使用された参考図には「輸送能力(艦隊補給)」「脱滑走路(着艦可能)」「艦上整備可能」などと書かれていた。また元自衛艦隊司令官である勝山拓退役海将は、無改造でもF-35Bの発着艦・格納が可能であるとし、搭載機数としては、SAR用ヘリコプターおよびAEW機を加えて10機プラスアルファ程度と見積もる一方、艦首に大重量のソナーを備えることから、艦のバランスの問題上、スキージャンプ台の後付は困難であるため、戦闘行動半径や搭載量には相当な制約を伴うであろうと指摘している。防衛省幹部は、STOVL機の搭載について「改修は可能だが、航空機の取得や要員養成など膨大な時間と経費がかかり現実的に不可能」と否定している。海上自衛隊では艦艇の建造を計画するに当たって必ずアメリカ海軍から意見を聞く事になっており、その過程でアメリカ側から注文を付けられる事があるという。冷戦終結によってソビエト連邦という共通の敵が消滅した事によって、アメリカ海軍のパールハーバーの記憶を持つ世代は海上自衛隊の装備が不必要に強くなる事を警戒しており、戦前の帝国海軍のように海上自衛隊が変貌しないように「芽のうちから摘んでおきたい」という思惑があったという。また、日本が空母を中核とした艦隊整備に動き出せば、中国や韓国との間に深刻な政治的問題を生み、地域の安全保障環境を不安定にさせる危険性があるとして、日本が空母をシーレーン防衛だけでなく、周辺国や小国に対する恫喝に利用するのではないかという懸念も出ていた。つまり、今は軽空母であっても将来的にその後継艦ともなれば正規空母になる可能性があり、あくまで海上自衛隊を第7艦隊の補助部隊として運用したいアメリカ海軍としては気に入らなかったのである。 同様の理由でおおすみ型輸送艦建造の際も海上自衛隊はアメリカ側に対する説明に苦慮したという。しかしながらアメリカ海軍は、海上自衛隊がひゅうが型護衛艦を導入するにあたっては、全く異論を挟んでいないという。理由としては緊迫の度合いを見せる近年の極東軍事情勢の変化と、パールハーバー世代からの世代交代により、極東地域に於ける安全保障任務に関して日本に負担を求める意見が主流になっている事が挙げられている。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。