堂上 直倫(どのうえ なおみち、1988年9月23日 - )は、中日ドラゴンズに所属するプロ野球選手(内野手)。高校時代は超高校級スラッガー、尾張のプリンスとも呼ばれた。愛称は「ナオリン」(直倫の“倫”を音読みに変えている。)父の堂上照は元中日ドラゴンズ投手。兄の堂上剛裕は読売ジャイアンツ所属の外野手。小学校時代に、「名古屋北リトル」で野球を始めた。そこでは、投手以外にも遊撃手の守備に就いた。春日井市立知多中学校在学時にも、「名古屋北シニア」で遊撃手の守備に就いたとのこと。2003年ナゴヤドームで行われたドラゴンズのファン感謝デーで「リトルシニア東海選抜」の4番・遊撃手で出場し、投手を務めた福留孝介から左翼席へ本塁打を放った。。中学卒業後は、愛工大名電高校に入学。1年生からレギュラーを獲得し、2005年春の第77回選抜高等学校野球大会では、4番に座り2本塁打を記録し優勝に貢献した。同年9月には全日本高校選抜として、韓国で行われた第6回AAAアジア野球選手権大会に参加し、2本塁打で最多本塁打のタイトルを獲得。ポジションは遊撃手、選抜優勝時には三塁手として出場した。高校通算55本塁打で、。2005年夏の甲子園に向けた愛知県大会では、豊田大谷高校とのナゴヤドームでの決勝戦で本塁打を放った。2006年夏の甲子園に向けた愛知県大会では、10四球と勝負を避けられる場面が多かったが、14打数7安打と打率5割を記録し、県大会優勝の原動力として活躍。しかし、本大会では初戦敗退を喫した。高校時代の甲子園3大会(2005年春、2005年夏、2006年夏)の通算打率は.480。2006年ドラフト会議にて、中日、阪神、巨人の3球団から1巡目指名を受け、中日が抽選で交渉権を獲得したため、父・兄と同じチームに入ることになった。親子3人がプロ野球選手かつ同一球団に所属することは史上初であった。ちなみにこの時の阪神外れ1位は野原将志、巨人外れ1位は坂本勇人である。背番号は24。プロ1年目のは一軍出場はなかったが、ウエスタン・リーグでは出場試合数の8割近くを4番・三塁手で先発出場した。打率は低迷したが、本塁打はチーム3位、打点はチーム2位と、長打力と勝負強さはあった。また、シーズン終了後、福留孝介がシカゴ・カブスへ移籍したことにより、背番号を24から1に変更した。も二軍で開幕を迎えるが、北京オリンピックで荒木雅博、森野将彦が抜けた中、8月3日に初の一軍昇格を果たす。しかし、3試合に出場し、1打数無安打で7日後に二軍に降格。以後一軍に昇格することはなかった。、3月1日の北海道日本ハムファイターズとのオープン戦で金森敬之からオープン戦初本塁打となる2点本塁打を放つ。また、この2打席前には兄・剛裕も本塁打を放っており、オープン戦で同一イニングのアベック弾は史上初であったが、開幕一軍を果たすことはできなかった。、6月16日に一軍昇格。その日の対日本ハム戦から先発出場、6月18日の対読売ジャイアンツ戦でプロ入り初安打、6月27日の対広島東洋カープ戦でプロ入り初本塁打を記録するなど、82試合出場で打率.263、5本塁打、30打点を記録。、62試合出場、打率.209、2本塁打、10打点に終わる。3月、2歳年上の元会社員の女性と結婚。開幕も初めて一軍で迎え、自己最多となる116試合に出場した。、74試合に出場、2年ぶりに本塁打を記録。オフに選手会副会長に就任した。、オフに自身の背番号をこれまで兄の剛裕がつけていた63に変更(剛裕はこの年戦力外通告を受け、巨人に入団した)。これは球団から背番号の変更を宣告された際に自ら申し出たと述べている。、この年も打撃の調子が上がらず、守備固めでの起用が中心となり、42試合の出場にとどまった。オフ(11月30日)には名古屋市内のホテルで行われた選手納会にて、来季以降も引き続き選手会副会長を務めることが発表された。
出典:wikipedia
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