古谷 敏(ふるや びん/さとし、1943年7月5日 - )は、東京都港区西麻布出身の俳優、スーツアクター、株式会社ビンプロモーション元・代表取締役社長。エスプレイング所属。旧東京市麻布区(現・東京都港区西麻布)生まれ。東宝演劇学校卒業後、東宝第15期ニューフェースとして東宝に入社(同期には二瓶正也など)。仕出しとして幾つかの作品に端役で出演。1962年(昭和37年)、『吼えろ脱獄囚』(東宝、福田純監督)で正式に役者デビューする。1965年(昭和40年)、東宝本社の指示で業務提携下の円谷プロダクションへ出向、『ウルトラQ』(TBS)にゲスト出演して円谷プロ作品、またテレビ作品デビュー。1966年(昭和41年)7月から放送開始した円谷プロの次回作『ウルトラマン』(TBS)で、ウルトラマンの「ぬいぐるみ役者(スーツアクター)」として出演。1967年(昭和42年)、円谷プロの次回作『ウルトラセブン』(TBS)では、視聴者からの要望と前作の労苦を労う形で「顔の見える役」としてアマギ隊員役に抜擢される。1968年(昭和43年)10月、『ウルトラセブン』終了から暫くの後、俳優業を引退し、怪獣アトラクションショーの主催会社「ビンプロモーション」を設立。自らの怪獣ショーで「アマギ隊員」役で司会をこなし、全国を興行する。1971年(昭和46年)、「ビンプロモーション」を法人化。「株式会社ビンプロモーション」とし、代表取締役社長に就任(従兄弟も勤務するが、後に『ウルトラファイト』などに出演した姫野昭二が経営する関連他社へ移籍)。1972年(昭和47年)、毒蝮三太夫夫妻に仲人を依頼、結婚。一男一女をもうける。第二次怪獣ブームのなか、各地で怪獣ショーを催し、舞台中継番組『突撃! ヒューマン!!』(日本テレビ、ユニオン映画)では劇中アクションを担当。番組終了後も同作品のキャラクター興行を行う。1991年(平成3年)、バブル経済後の不況を受け「ビンプロモーション」を解散。それに伴い負債を抱える。ビル清掃業などにアルバイト従事。自ら関係者との連絡を断ち、表舞台から姿を消した為、一時は「消息不明」扱いで、「死亡説」等も伝えられた。2007年(平成19年)、ふと眼をとめた成田亨の展覧会の新聞記事をもとに、会場に顔を出した事がきっかけで、ひし美ゆり子や桜井浩子ら円谷プロ時代の関係者との連絡を再び取り合うようになる。それまで「ウルトラシリーズ」など出演作の再映を除き、本人があえて距離を置いていたため、長らくマスコミへの露出は無かったが、11月にひし美のブログで元気な姿が紹介された。2008年(平成20年)、CS局ファミリー劇場で放送された『ウルトラセブン超百科』に、ナビゲーターとして出演。また同年には劇場映画『ギララの逆襲/洞爺湖サミット危機一発』(松竹)で俳優復帰。2009年(平成21年)12月21日、初の自叙伝『ウルトラマンになった男』(小学館)を上梓。これまで語られなかった『ウルトラマン』での苦労や思い、撮影の裏話等を初めて明かす。2013年(平成23年)10月18日、『ウルトラマン』HD Remaster2.0 Blu-ray BOX II発売記念として六本木ヒルズで行われたイベントに黒部進、桜井浩子、現・円谷プロ社長の大岡新一と共に出席し、47年ぶりにウルトラマンのスーツを着て登場した。テレビ特撮番組『ウルトラQ』で「ケムール人」と「ラゴン」、『ウルトラマン』で主役ヒーロー「ウルトラマン」、『ウルトラセブン』でウルトラ警備隊の「アマギ隊員」を演じたことで知られる。古谷の「ぬいぐるみ役者」としての初の仕事は、テレビドラマ『ウルトラQ』(円谷プロ、TBS)で演じた宇宙人「ケムール人」と「海底原人ラゴン」だった。両者は円谷特技プロの美術デザイナー(当時)である成田亨によってデザインされたものだが、長身の古谷が入ったことで成田の求めるイメージ通りのスマートなキャラクターとなり成田を喜ばせた。続く円谷プロのテレビドラマ『ウルトラマン』(TBS)での主役ヒーロー「ウルトラマン」役の抜擢は、この「ケムール人」役で見せた古谷の長身痩躯に惚れ込んだ成田の、「ビンさんしかいない」との強い要望によるもので、成田はこの「ウルトラマン」役を演じてもらう為に、何週間も直接、古谷と交渉し続けた末に口説き落としている。当初断っていた古谷の側にも、当時は映画が斜陽になっていた時期なので、「テレビ出演はチャンスである」との考えがあった。このウルトラマンのマスクは、古谷のライフマスクから採った石膏型を基に製作された。しかし古谷としては当初、俳優としての「顔の見えない役」に対する複雑な感情があり、途中、何度か降板を考えたという。しかし番組開始後、徐々に高まっていく子供たちのウルトラマンに対する反響に感動し、やがて全力で取り組んでいった。古谷が演じた初代ウルトラマンの戦闘態勢は、上体を前屈させた独特の構えが大きな特徴である。この姿勢の理由については、満田かずほによる「ぬいぐるみ演技に不慣れな古谷が、火薬を使った撮影に腰がひけた姿勢になり、これが逆に“腰を落とし怪獣との間合いを取る”姿に見えて、結果的に定着した」との解釈がこれまでの定説であった。しかし古谷本人によれば、火薬を使った撮影に恐怖感もあったが、実際にはこの姿勢は、演技上意図されたものである他、少年時代に見た映画『理由なき反抗』のジェームス・ディーンの、ナイフを持った決闘シーンでの前傾姿勢を参考にしたもので、これに古谷の長身を画面に収める為に、高野宏一特技監督からより前屈みになるよう指示されたことが加わり、古谷自身の演技意図によって最終的に完成したものであるという。成田は次作『ウルトラセブン』でも主役ヒーローのウルトラセブン役を古谷に求めたが、俳優としてのこだわりから古谷はこれを固辞。成田を残念がらせた。ウルトラマンのぬいぐるみ役者時代の思い出と苦労話で「特に一番怖かったこと」として、「水中撮影でマスクの中に入ってきた水が、密着しているスーツとマスクから抜けず、本番中におぼれた」というエピソードがある。「撮影は過酷だった。特に怖いのが水と火。米国製ウェットスーツに手を加えたゴム製スーツに、大きな電池を内蔵した重い仮面を身につけていたが、水のシーンで頭まで沈んだら、仮面の中にどんどん水が入ってきて息ができなくなり、死ぬかと思った。今とは違って本物の火も撮影に使っていて、熱風がスーツの隙間から入ってきた。苦しくてもがいていたのに、『いい演技だね』と褒められたり、当時はスポーツドリンクもなかったから、脱水を防ぐために水道水とレモン、塩を用意していた。救急車を呼ばなかったのが奇跡と思えるほど過酷だった」ウルトラマンには武器の設定がなく、飯島敏宏監督と高野宏一カメラマンと3人でスペシウム光線を考えた。「スペシウム光線のこのポーズ、体に型を覚えさせるため1日300回、練習していた。誰にもできない型をやる、という俳優としての意地もあった。実は駅やホテルなど鏡があると今でもポーズを取ってしまう。昨年、米国のイベントに呼ばれて行ったら、サインを求める大行列が出来た」『ウルトラマン』放送当時は何人もの女性からモテモテだったという。2009年(平成21年)12月21日に、初の自叙伝『ウルトラマンになった男』(小学館)が出版された。これまで語られなかった苦労や思い、撮影の裏話等が初めて明かされている。1月29日に行なわれた出版記念サイン会では『ウルトラマン』『ウルトラセブン』当時を知るファンが駆けつけ、「アマギ隊員に会えるなんて!」、「もう光の国に帰らないで下さい」などと激励・握手攻めとなった 。2013年(平成25年)7月6日に予定していた70歳を祝う会が200人の枠に応募者が殺到。予想以上の反響の為、大きな混乱を避けるために中止する事態となりブログで中止の報告と謝罪をおこなった。※はノンクレジット出演※いずれも、スターワルツ作品 清水マリ、西塔紅美、水垣洋子、土屋嘉男と共演
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