LINEスタンプ制作代行サービス・LINEスタンプの作り方!

お電話でのお問い合わせ:03-6869-8600

stampfactory大百科事典

太祖 (高麗王)

太祖(たいそ、新羅憲康王3年1月14日(877年1月31日) - 天授26年5月29日(943年7月4日))は、初代高麗王(在位:918年 - 943年)。名は王建(おう・けん、ワン・ゴン)。字は若天。諡号は応運元明光烈大定睿徳章孝威穆神聖大王。『高麗史』と『』によると王建の最初の先祖は虎景という人物だった。虎景の孫に損乎述あり、損乎述は宝育と改名した。宝育は姪(兄の娘)の徳周を娶り娘の辰義をもうけた。辰義は中国唐の皇族(『』と『高麗史節要』では粛宗。『編年綱目』では、それは誤りであり粛宗ではなく宣宗)が新羅に来たときに、作帝建を生んだ。作帝建は、父を探しに行く旅の途上で、西海の龍王の娘の龍女(後の元昌王后、ただし『聖源録』によると、西海龍王の娘の龍女というのは、中国平州出身の頭恩坫角干の娘のことである)と結婚して息子の龍建を生む。龍建は松岳(現在の開城)を拠点に半島西南の海岸部で貿易で財をなす豪族となる。王建は新羅憲康王3年(877年)1月31日に龍建と威粛王后(一説に智異山聖母)とのあいだに生まれた。中国の吉林省中国社会科学院歴史研究所の史長楽は、吉林省中国社会科学院が隔月刊で発行する歴史雑誌『東北史地』2007年第3号において、933年に後唐の明宗が王建に送った冊封詔書などを根拠に、王建は中国・淮河流域から来た漢人の末裔との説を唱えている。冊封詔書の「卿(王建)は長淮の茂族」という一節があり、史長楽は「長淮は淮河流域を意味する言葉で、太祖・王建の本籍地が中国であるため、高麗は中国人が建国した国」と述べている。また、冊封詔書のうち「朱蒙が開国した地のよい縁起を追ってその軍将になり、箕子が作った蕃国の形跡を踏んで幸福と和楽を得る」という一節を、史長楽は「この言葉は、高麗は中国出身統治者が建てた国という意味」と述べている。その理由に「王建の建国を朱蒙の開国と箕子の立国に直接比喩したのは、朝鮮半島の歴史で二人に続いてもう一人の中国出身統治者が生まれたという意味であるから」と述べている。上記とは別に、中国の歴史学者の楊保隆は「高麗を建国した王建は中国の名字」等の根拠から中国人であると主張している。ただし、王建の第2后妃荘和王后呉氏は、三国時代に中国から帰化した貴族の後裔である事は韓国の学界でも認められており、したがってその子の第2代高麗王恵宗が中国人の血を引いている事は議論の余地がない。鮎貝房之進の『朝鮮姓氏・族制考』によると、中国式の姓がすべての朝鮮人に徹底したのは李氏朝鮮になってからであり、新羅では、上流階級を除けばいまだ中国式の姓が十分に普及してはおらず、土豪出身の王建も、先祖の虎景以下、父の龍建まで『編年通録』によると姓がなく名だけだった。このことから王氏という姓は王建が自分の名を姓名に分割してつくったものという。また「王建」という文字はキビ(黍・稷)を意味する土着固有語に漢字を当て字したものという。また、王建の家系をみると、途中から女系で辿ったり、父の名と同じ文字(この場合は「建」)を息子に付けたり、姪を嫁にしたりなど、宗族制に真っ向から反するような風習をもっていたが、これはまだ儒教が浸透していなかった新羅では普通のことであるとした。王建の家系の説話で、外家と女性の役割が強調されるのは、王建自身が外家の強力な影響下で育ったこと、高麗を親家と外家の権限などで均衡感のある社会を造ろうとしたことと関係する。鮎貝説のように、王建の一族は中国人とは隔絶した風習をもっており、当時の朝鮮人の一族とみるほかなく、中国人説は一見成り立たないかにみえる。しかし伝承を尊重する限り、作帝建の父は中国唐の皇族であるから、男系では途中から中国人の血が入っていることになる。作帝建は、父を探しに行く旅の途上で西海龍王の娘龍女と結婚して息子の龍建を生んだが、龍の源流は中国大陸北方の稲作・牧畜文明にあり、例えば、中国の国章や清の国旗に使われるなど、中国の宇宙的世界観のシンボルであり、中国皇帝のシンボルであり、中華文明のシンボルである。延世大学教授の高雲基は、「『龍』が中国系の何らかの象徴として見るなら、王建の家系はほとんど中国系のはずで、曽祖父から調べても王建は間違いなく中国系3世」と述べている。したがって、王建の活躍を描いた韓流ドラマ『太祖王建』には、王建の父王隆が「先祖は彼(張保皐)とともに唐から新羅に渡ってきた」と王建に語るシーンがある。倉山満は、高麗は満州族・韓族・漢族のどの民族になるのかを完全に区切ることはできず、そもそもどの民族なのかは本人の意識次第であることから政治的な結論にならざる負えず、今さら王建のDNA鑑定は不可能であるために、「王建ですが、出自が不明」とする。そして、「大韓民国公式見解では、もちろん自分たちの先祖としてのKorea民族として扱っていますが、これに対して中華人民共和国は、『高句麗は、我が東北部(つまり満州)の出身なのだから、漢民族である』と主張して」おり、あえて言うなら、王建は満州人であり、高麗は満州人が朝鮮半島に建国したというのが正解である旨述べている。唐の力を借りて高句麗、百済を滅ぼした新羅も9世紀末になると国力が衰退し、各地で反乱が起こっていた。北方での新羅への反乱軍の指導者であり後高句麗を建国した泰封王である弓裔のに従い、松岳城主、鉄原太守を歴任し、西南海域の水軍を統率して活躍していた。後高句麗は、新羅や後百済に対して優勢を占めており、王の弓裔は自らを弥勒菩薩と自称し仏教の神秘性を利用して権威を高めようとした。しかし弓裔が部下に対して傲慢で乱暴になるなど暴君になったため、918年に弓裔の部下である洪儒、裴玄慶、申崇謙、卜智謙らは、弓裔を追放し易姓革命を起こして王位を奪い王建を新たな指導者として擁立した。918年、王建は松岳郡に遷都し、郡を開州に昇格させ、高麗の後継者を自称して国号を高麗と定め、年号を天授と定めた。920年に後百済に圧迫されていた新羅の景明王に信書を送り同盟を結ぶことにした。926年10月、後百済は新羅の首都である金城(慶州市)を占領し、景哀王は自殺した。後百済は手強く、一進一退の攻防を繰り広げていた。930年から高麗は反撃に転じ、古昌郡において後百済を大敗させた。933年、後唐に朝貢し、王建は高麗国王に任じられた。934年、後百済は休戦を申し入れ、王建もその気になったが、老将の痩黔弼一人が反対した。王建は痩黔弼の意見を採用し、後百済軍を打ち破り、熊津(公州市)以北の地を手中に収めた。935年、後百済で王位継承による内紛が発生し翌936年に初代王である甄萱が高麗に投降した。また935年、新羅最後の王敬順王(金傅)が高麗に帰順した。後百済の内紛に巧みに介入した王建は、936年、遂に朝鮮半島の統一を成し遂げたのである。統一後は、国内の基盤固めに尽力する。王建は、前王朝・新羅の貴族や豪族の多くを家臣として加えることで国内の混乱を最小限に抑え、それらを府・州・郡・県に分けて地方をそれぞれ治めさせた。中央は三省六官、九寺にして中央集権化を確立した。対外的には、遼に滅ぼされた渤海の遺民受け入れや植民に尽力し、国内の復興と発展に努めた。また、中国の王朝に対してはこの頃、五代の王朝に相次いで朝貢を行なって冊封されることで友好関係を保った。日本の朝廷に対しても2度にわたって使者を送り、友好と通商を求めたが、これは日本側に拒絶されている。943年、67歳で死去。死の1ヶ月の前に4月、高麗の後代王たちが必ず守らなければならない教訓として「訓要十条」を作り、側臣だった大匡の官職の朴述熙に伝えた。その内容をまとめると、この十戒は皆「心の中に深くおさめること(中心蔵之)」という君の字で結ばれており、後代の王たちは後継者から後継者へと伝えて宝物にした。旧百済の地域の者の登用を忌避したのは、後百済の内紛で父子が対立したためであり、儒教道徳的には許されないものであったからである。この偏見は後まで継承され、全羅道差別という地域差別問題となって残った。『高麗史』は王建の死の様子を次のように描いている。太祖は天受26年(943年)5月29日、病が重くなると神徳殿に挙動して遺言を作るようにしたが、その文が作成された時に左右の臣下たちがむせぶ音を聞いて、王が「これは何の音か」と尋ねた。臣下たちが「聖上は民の親なのに、今日、臣下たちを捨てようとなさるので、私どもは悲しみに耐えられません。」と言うと、王建は笑いながら「浮生と言うのは、昔からすべてそうだ」と笑って答え、しばらくの後に死んだ。御陵は顯陵である。高麗王朝が400年以上の長きにわたって続いた基礎を築き上げた偉大なる王として、高く評価されている。『高麗史』の記録から、太祖は即位した後、当時新羅や後百済の征服が完了しておらず南方の備えが不安定だった状況下で、あえて西京(平壌)も越えて直接北の国境地帯を巡察した。その意図は、ただ新羅を滅ぼすだけではなく、高麗王朝を高句麗の継承王朝とし、将来に高句麗の旧領を取り戻す北進政策のための拠点や財政源の確保であった。訓要十条でも見えるように、太祖自身は契丹(遼)に対して大変敵対的な立場を表明している。実際に敵対的な行動をした代表的な事例として、契丹が渤海を滅ぼした事に激怒した太祖が、契丹から送られてきた駱駝50匹を飢え死にするまで開京の万夫橋にぶら下げ、その使臣30人を島に流して幽閉してしまった事件がある。25人の男子と9人の女子が記録上で確認される。これらの関係は近親婚のために複雑であり、詳細な記述は省略する。『太祖王建』(2000年、演:チェ・スジョン)『王建』 大韓民国海軍の李舜臣級駆逐艦の4番艦。

出典:wikipedia

LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。