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山下亀三郎

山下 亀三郎(やました かめさぶろう、1867年5月12日(慶応3年4月9日) - 1944年(昭和19年)12月13日)は日本の実業家。勲一等。山下汽船(現・商船三井)・山下財閥の創業者。勝田銀次郎、内田信也と並ぶ三大船成金の一人。1867年(慶応3年)、伊予国宇和郡河内村(現: 宇和島市吉田町)の庄屋・山下家の7人兄弟の末子として生まれた。山下は庄屋の家に生まれたことを心の糧とし、同時に庄屋の子として厳しく躾けられた。宇和島の旧制南予中学校(現: 愛媛県立宇和島東高等学校)に入学したが、1882年(明治15年)に同校を中退し、出奔した。しかし、家出したその日の宇和島は暴風雨に襲われやむなく知人の家に厄介になっていた。すると、母からの使いの者が現われ「男子がいったん村を逃げて出て、おめおめ村へ帰ってくるようなことがあってはならない。大手を振って村の道が歩いて帰れるようになるまで帰ってくるな」と伝言を告げた。この言葉を背に山下は四国を後にする。大阪に出たが、家出少年を雇ってくれるところはなく、京都の友人を頼って祇園清井町の下宿宿に世話になり、小学校の助教員を務める。京都の生活で、新島襄を助けて同志社を設立した山本覚馬と出会い、山本が主宰する私塾にも足を運ぶようになる。山本の勧めで東京に出て、明治法律学校(現: 明治大学)に入学する。ここには、明治民法の起草者であった法学者の穂積陳重が出講していたので、彼から個人的に法律学の教授を受けていた。「ドロ亀」というあだ名を持ち、後に自ら無学であるかのように記している山下だが実際はこのようにして勉強にも精励したという一面もあった。22歳の時に、明治法律学校を退学して、富士製紙会社に入るが長続きせず、次に大倉孫兵衛紙店の店員となった。その後、横浜貿易商会の支配人、池田文次郎店などを転々とする。1892年(明治25年)、横浜出身の朝倉カメ子と結婚するが、翌年に池田商店が倒産してしまう。山下は1894年(明治27年)、横浜太田町に洋紙売買の山下商店を始めた。山下が独立した第一歩である。しかし事業はうまくいかず、とうとう店をたたむことになる。その直後、竹内兄弟商会の石炭部に入る。日清戦争の時期にあたり、石炭業界は好景気に沸いていた。ここで山下は石炭輸送の必要から初めて海運業と接する。1897年(明治30年)、竹内兄弟商会の石炭部を譲り受け、個人商店として独立し、名称を横浜石炭商会と変えた。山下が船主になったのは、1903年(明治36年)のことである。まず手付けの1万円を払い、残りの11万円の金策に山下は奔走する。保険会社や取引先から8万円借りるが、残り3万円足りない。当時第一銀行横浜支店長心得の石井健吾(後の第一銀行頭取)に相談すると、山下の意気を感じた石井は、自ら3万円の借金をして、それを貸した。山下は恩義を終生忘れず、石井が昭和初年に退任するまで第一銀行をメインバンクとした。こうして手に入れた英国船ベンベニニー号(2,373トン)を喜佐方丸と命名し、海運業に乗り出す。喜佐方丸の名は生まれ故郷の村の名前であり、山下は村を出てから20年にして「大手を振って村の道が歩ける」船主になったのである。しかし、船舶経営の経験に乏しい山下は、さしあたりブローカーの力を借りて横浜・上海航路の事業に着手するが燃料代にも事欠く有様であった。山下は、同じ愛媛県出身の海軍軍人・秋山真之とも親しい間柄であった。喜佐方丸購入直前、山下は秋山から、「日露開戦近し」の情報を入手していた。戦争になると民間船舶も徴用される。また徴用船の傭船価格は一般の価格よりも有利であることは、日清戦争時の経験から知っていた。山下は喜佐方丸を購入すると早速、近親の古谷久綱(元伊藤博文首相秘書官)を通じて、1903年(明治36年)12月、徴用船の指定を受ける。しかし、この時の喜佐方丸は、三井物産依頼の積荷の石炭を載せて、上海に出航する直前に長崎県佐々港にいた。上海を往復している間に徴用船指定を解除されたら大変だと、三井の大阪支店長・福井菊三郎に事情を話して了解を求めておき、横浜に帰って石炭を陸揚げして処置をつけ、喜佐方丸は海軍に引き渡した。こうして、無事、喜佐方丸は納期までに海軍に届けられた。これに勢いを得て、1904年(明治37年)第二喜佐方丸を購入、直ちに海軍に徴用船として提供する。さらに他社の貨物を手配し、他社船でこれを運送する海運オペレーションの分野にも進出する。日露戦争後、1907年(明治40年)に入ると日本は深刻な戦後不況に突入する。海軍の徴用船を主として経営を行っていた山下は、この影響をもろにうけ、さらに北海道の木材事業にも失敗し数百万円の負債を背負う。ここで山下は、奇想天外な方法を考案する。「菱形償却法」と呼ばれる返済方式で、返済に元利均等、元金均等などの一定の枠組みを設けず、最初は少しずつ利益が出るようになったら多く返済するというものである。山下はこの方式で債権者を説得し、20年分の菱形償却法による返済を認めさせた。その後の好況の波に乗り、わずか7年で完済している。1909年(明治42年)以降、外航海運は好転し、山下も着実に海運業を発展させる。1911年(明治44年)6月には資本金10万円で組織を合名会社に変更して山下汽船合名会社を発足し、本店は東京市日本橋区北島町(現: 東京都中央区日本橋茅場町)に移転し、支店も神戸に開設した。1914年(大正3年)に第一次世界大戦が勃発すると、海運業は空前の好景気となった。大戦前のトン当たりチャーター料3円、船価50円程度であったが、1917年(大正6年)にはチャーター料が国内で30円、ヨーロッパで45円、船価6,700円と十数倍になった。山下は勝田銀次郎・内田信也とともに三大船成金と称せられ、この船成金競争のトップを走ることになる。この間、1915年(大正4年)6月には、満州の大連に山下汽船合名会社を設立、次いで11月に石炭部を分離独立させて山下石炭株式会社とし、翌1916年(大正5年)8月には渋沢栄一らと扶桑海上保険(現: 三井住友海上)を創立。さらに1917年(大正6年)5月には山下汽船合名会社を資本金1,000万円の株式会社に改組拡充して別会社の山下合名会社をつくり、8月には浦賀船渠株式会社(現: 住友重機械工業)を創立するなど、矢継ぎ早に事業を拡大していった。1917年5月、山下汽船株式会社と改め、社長となったとき山下は50歳であった。海運業開始以来、船腹拡充に積極的に取り組み、不定期船事業の雄として山下汽船の名を高めた。大戦中、山下の上げた利益は実に年間2,900万円にのぼる。1919年(大正8年)当時の総理大臣の年俸は12,000円、各省大臣や東大総長の年俸は8,000円であったので山下がいかに巨額の利益をあげたかがうかがい知れる。その後、海運業だけでなく、広く財界、官界さらに軍部の要人と交際し、1943年(昭和18年)3月には、時の東條内閣によって創設された内閣顧問に任命され、大正昭和期の代表的政商とさえ称された。政府関係の委員にも就任し、第二次世界大戦末期には行政査察使に就任し北海道視察に行くことになるが、この視察によって病を得た山下は、1944年(昭和19年)12月13日死去した。山下の功績は、主宰した山下汽船を世界有数のトランプ(不定期船)オペレーターにし、日本海運の伸展と船権拡張に寄与しただけでなく、山下汽船から多くの人材が輩出され、いわゆる山下学校と称された。また郷里を始め各地に学校を設立するなど社会事業にも力を尽くした。山下汽船の最盛時ともいうべき1941年(昭和16年)当時の日本の総船腹量は1,962隻で、内訳は日本郵船133隻、大阪商船109隻、山下汽船55隻、大連汽船54隻、川崎汽船35隻、三井物産(商船部門)32隻であった。明治から昭和初期にかけて日本郵船と大阪商船の2社が飛びぬけていたが、太平洋戦争開戦時において、山下汽船はこの2社に迫る会社となっていた。しかし敗戦により、1947年(昭和22年)、山下株式会社は財閥解体で第五次持株会社指定をうけることになった。山下太郎の娘婿・松方峰雄の伯父・正作は三菱財閥の2代目総帥・岩崎弥之助の娘婿である。一方太郎の後妻・茂子の大叔父・郷昌作は数え2歳で三菱の創業者で初代総帥・岩崎弥太郎の養子となり岩崎豊弥と改名した。故に山下家は松方家を通じて岩崎弥之助家の係累となる一方、河合家・川崎家・郷家を通じて岩崎弥太郎家の係累にもなっており、山下家は三菱の創業者一族・岩崎家と二重の姻戚関係にあるといえる。

出典:wikipedia

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