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鎖塚

鎖塚(くさりづか)は、北海道で行われた苛酷な囚人労働を物語る遺跡である。明治時代の北海道では南下政策をとるロシアとの対抗上軍用道路が急ピッチで建設された。札幌から大雪を越え網走市に達する中央横断道路(北見道路。端野まではほぼ、後に開通した石北本線に沿っている)もその一つである。この道路は釧路集治監網走分監(現:網走刑務所)と空知集治監の囚人約1000人を使役して建設され囚人道路と呼ばれた。明治政府は年内に160kmを完成させよと典獄に厳命し、石狩北見間が1891年5月着工、12月には完成した。一方、劣悪な環境と深夜に及ぶ苛酷な労働によって、212名に上る囚人が死亡した。逃亡しようとしたものは「タガネ」を用いて罰した(耳に穴を開け、足と耳とを鎖で結ぶ)。鎖塚はこのようにして死んだ囚人工夫の上に土をかぶせてできた土まんじゅうで、かつては多く見られたが、開拓と共に減少した。それでもなお北見市端野町緋牛内では、囚人道路が国道39号に出る手前に三基が残っている。囚人は二人ひと組で足を鎖に結ばれ、場合によっては死ぬ時も鎖を付けたままであった。従って、これらの土まんじゅうからは人骨と同時に鎖が出土する。鎖塚の名はここに由来する。なお、囚人道路の経路は、上川~北見峠~遠軽~佐呂間町栄~丸山峠~留辺蘂~北見~緋牛内~卯原内~網走である。国道および道道として改良・現存している(国道333号~道道103号~国道39号~道道104号)。開道100周年に当たる1968年、当時の端野町長であった中澤廣は同地に鎖塚の由来を記した立札を設置、5年後に地蔵尊を建立し囚人達の供養に努めた。1976年10月17日、鎖塚慰霊奉賛会によって鎖塚供養碑が建立され、鎖塚保存会も結成された。囚人労働は北海道各所で行われ、命を落とした中には思想犯とされた自由民権派の思想家もいた。また、後のタコ部屋労働の母体ともなった。鎖塚、常紋トンネルやイトムカ鉱山でのタコ労働を題材に、小池喜孝は第29回青少年読書感想文全国コンクールの課題図書ともなった児童生徒向けの本である、『北海道の夜明け-常紋トンネルを掘る』(1982年、国土社)を著わした。

出典:wikipedia

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