日本におけるゲーム機戦争(にほんにおけるゲームきせんそう、コンシューマ機戦争、コンソール・ウォーズ)とは、日本国内における家庭用ゲーム機の販売競争のことである。「ゲーム機戦争」という言葉は、ゲーム雑誌等の専門誌やメディアによって、販売競争を端的に表現した言葉として用いられる事が多いものである。21世紀初頭現在の主なハードメーカーは、任天堂とソニー・インタラクティブエンタテインメント(旧称:ソニー・コンピュータエンタテインメント)、マイクロソフトの3社である。セガ(後のセガゲームス)も長年独自のハードを販売してきたが、ドリームキャストを最後にゲーム機事業から撤退した。NECホームエレクトロニクスも独自のハードで一時はセガをも凌ぐ勢力を市場で見せていたが、PC-FXを最後に撤退し、会社も解散の憂き目にあっている。初期の数年間はエポック社も主要3社に名を連ねていたが、少なくともトップシェアだったカセットビジョンについては、ファミコン以降との直接的なゲーム機競争(競合)の関係を否定している。初期の日本市場では、日本国内外の玩具メーカーや電機メーカーが各社各様のゲームマシンを発売していた。日本初の家庭用テレビゲーム機という意味では1975年にエポック社からテレビテニスという二人プレイのポンテニスゲームが発売されている。また後に市場を席巻することになる任天堂は1977年に発売したカラーテレビゲーム15で参入している。しかしこれらはソフトウエアを交換できない機種であり、その後のハードウエア・ソフトウエア分離の販売競争とは異なるものだった。ソフト交換式の家庭用テレビゲームも当初は日本国外の技術が幅を利かせていた。アメリカで1977年に登場したアタリVCSは同じ年に日本で東洋物産など数社から約9万円程度で輸入販売されたが、高価な品であり、当時はまだキラータイトルも無かった。VCSは1979年にもエポック社から「カセットTVゲーム」として輸入販売されており、この時はエポック社の要請でインベーダーゲームが手配され、事実上キラータイトルの役割を担った。しかし本体価格は5万円前後まで値下げされたものの依然として高価な品だった。1977年にハードウエアを初めて日本国内メーカーが生産したビデオカセッティ・ロック(タカトク)や同じく1978年のTV JACK アドオン5000(バンダイ)が2万円を切る価格で登場しているが、肝心のゲームソフトはまだ輸入LSIだった。日本独自にハードとソフトが展開された例としては、1981年に発売されたエポック社のカセットビジョンが初と見られている。カセットビジョンは12000円(ACアダプタ別売、後に同梱で13500円)という低価格を実現しながらも既存の人気ゲームを移植するなどして、当時のコンシューマーゲームハードとしては群を抜く普及を見せた。当時の日本は電子ゲームの全盛期であり、まだ家庭用テレビゲームがコンシューマーゲームの主役といえる状況ではなかったが、カセットビジョンの成功は日本でのソフト交換式の家庭用テレビゲームという文化の開拓に繋がり、他社もこれに続く形となった。1983年にはカセットビジョン並みの低価格帯の家庭用ゲームハードが各社から本格的に出揃うようになったが、少なくともその頃まではカセットビジョンが日本で一番売れていると言われていた。その間、1982年にはバンダイがインテレビジョンを輸入販売したほか、ゲーム機というよりはパソコン(ゲームパソコン)のカテゴリではあるが関連機種としてトミーからぴゅう太が登場している。これらは5万円前後の高級機でありカセットビジョンの牙城を崩すことはできなかったが、3社とも翌年にこれらの後継機や廉価版に位置付けられるゲーム専用機を投入しており、1983年のゲーム機ラッシュに繋がった。この1983年は日本における(ある程度低価格な)家庭用ゲームハードの新機種ラッシュの年となり、当時の雑誌ではちょっとしたゲーム機競争の様相すら見せていた。月刊コロコロコミックでは同年9-12月号に4号連続で特集が組まれ、この年の3月から7月までの4か月間に相次いで発売されたファミリーコンピュータ・Atari 2800・SG-1000・アルカディア・ぴゅう太Jr.・カセットビジョンJr.の、実に6機種が紹介されている。秋以降もPV-1000・TVボーイ・オセロマルチビジョンなどの登場が続いた。この時点の比較記事では各社のハードにもそれなりの競争力は指摘されていたが、突出したハードウエア性能と個々のソフトの評価に優れる任天堂のファミリーコンピュータ(ファミコン)が群を抜く高い評価を受けていた。後に3大ハードメーカーに名を連ねるセガもこのときSG-1000でコンシューマ市場に参入しているが、アーケードでは当時すでに30年以上の実績があり、同誌ではそのゲーム作りのセンスが評価されていた。エポック社は当時すでにカセットビジョンの市場を持っていたが性能的には1970年代並みの時代遅れのもので、ファミコンとの直接的な競合は避けて機能を削減した廉価機カセットビジョンJr.を5000円という電子ゲーム並みの低価格で発売した。これは当時普及していた電子ゲームに代わって家庭用テレビゲームの普及が期待される入門機として注目され、一部のメディアではファミコンと共に「2大テレビゲーム」と称されることもあった。しかし翌年には後継機が登場したこともあり、商品展開期間という意味では短命に終わった。ゲーム機というよりはパソコン(ゲームパソコン)のカテゴリではあるが、関連機種として、この年にはSG-1000の上位機でキーボード搭載のSC-3000も発売された。ゲームとプログラミングという新たな手法として8bit統一規格パソコンのMSXも発売され一定の市場を築くも、後のファミコンの独占状態を崩すまでには至らなかった。翌1984年になるとファミコンはサードパーティーの参入が始まり、多数の良質ソフトを生み出し、ファミコンがブームの兆しを見せはじめていた。ファミコンが電子ゲームに代わってコンシューマーゲームの主役となり、前年に登場した他社のテレビゲーム機の多くが次第に駆逐されていった。しかし当時のROMカセットはまだ容量も少なく比較的簡素なゲームが多かった時代であり、ファミコンの品薄も手伝って、多少性能の劣るハードでも売上を伸ばしたメーカーもあった。この年にセガはSG-1000のコントローラーの操作性を向上させたマイナーチェンジモデルSG-1000IIを発売。一方、エポック社も同時期にファミコンをしのぐ128スプライトの性能を謳うスーパーカセットビジョンを発売。両社ともにファミコンブームに乗る形で一定のシェアを築いた。しかしファミコンは翌1985年9月に発売した『スーパーマリオブラザーズ』がキラータイトルとなって本格的なブームが到来。1985年末の年末商戦には品切れとなる売れ行きを見せて普及台数が600万台を突破、急激にシェアを拡大して他の競合機を突き放した。セガは直後の10月に画面表示機能を大幅に向上させたセガ・マークIIIを発売したが、ファミコンの勢いを止めることはできなかった。翌1986年、任天堂は低コストでソフトを供給可能な周辺機器ディスクシステムを発売させるが、ROMカートリッジの大容量化とセーブ機能の搭載、単価の安さが販売店に嫌われたことや著作権の任天堂との共有がサードパーティの支持を得られず、今後自社のソフトは全てディスクシステムでリリースするとの任天堂の公約も破棄されて、失敗に終わった。1987年になるとスーパーカセットビジョン用ソフトとSG-1000用ソフトが相次いで終息し、残存ハードはファミコンとマークIIIに絞られた。エポック社が事実上撤退して任天堂・セガの1強1弱状態のさなか、そのエポック社に代わって参入したのが8ビット機としては最後発となるNECホームエレクトロニクスのPCエンジンである。発売当初からナムコ等の有力サードパーティーがおり、開発元のハドソンの『R-TYPE』をキラータイトルとして用意していた。また、この年にセガはマークIIIのFM音源ユニットと連射装置を搭載させたマイナーチェンジモデルマスターシステムを発売した。1988年、セガはアーケードゲームの主流の16bitCPUだったMC68000搭載のメガドライブ (MD) で対抗。同年12月、NECホームエレクトロニクスは、世界初のCD-ROM周辺機器CD-ROMを発売。1989年にはAV出力を備えたモデルPCエンジンコアグラフィックス、上位機器PCエンジンスーパーグラフィックスを発売した。任天堂はスーパーファミコン (SFC) を発表するが延期を重ね、実際の発売は1990年と2機種の中では最後発となった。なお従来のファミコンも1993年には価格とデザインが一新され、AV出力を備えたモデル(AV仕様ファミコン)が登場した。1991年、NECホームエレクトロニクスは廉価版のコアグラフィックス2やCD-ROMを更に強化したCD-ROM周辺機器SUPER CD-ROMと一体型ゲーム機PCエンジンDuoを発売、旧CD-ROMでの欠点だった読み込み速度をある程度解消させた(1993年に廉価版の「Duo-R」、1994年にはさらに低価格させて上にCD-ROMのデータ読み取り速度を向上させた「Duo-RX」が発売させた)。これに対し、セガはSUPER CD-ROMやスーパーファミコンの性能を上回るCD-ROM周辺機器メガCDと一体型ゲーム機ワンダーメガを発売(1993年には廉価版のメガドライブ2とメガCD2を発売させた)。この間、NECホームエレクトロニクスは一定のシェアを保った。なお1991年にはSNKからネオジオも発売された。この8bit1機、16bit2機のトップシェア争いは、日本国内ではファミコンのブランドを活かした任天堂が他を大きく引き離し、2位にNECホームエレクトロニクス、3位にセガという結果に終わる。1991年、任天堂はソニーと共同でSFC用CD-ROMの開発を開始、同時にソニーもCD-ROM一体型SFC互換機の発売を発表した。その名称は「PlayStation」。しかし次第に両社の意見が合わなくなり、任天堂のフィリップスとの突然の提携発表という一方的な破棄によって共同開発は中止された。ソニー側はこのままゲーム機から引き上げずにソニーの関連会社としてSCEを発足、1994年に32bit機であるPlayStation (PS) を発売した。前述の任天堂との共同開発版と名称が同じだが、関連性はない。ほぼ同時期にセガも32bit機セガサターン (SS) と16bitゲーム機であったメガドライブを次世代機と同じ32bit機にパワーアップさせる周辺機器スーパー32Xを発売した。この頃には後述のように他にも多数のゲーム機が近い時期に相次いで登場しており、メディアなどで「次世代ゲーム機戦争」と騒がれた。中でも特にPSとSSの初期のシェア争いは熾烈を極め、当時の次世代機競争の代表的な存在となっていた。結果的に32XはSSとPSが普及していたのが要因となり、短期間で生産を中止した。PSとSSは共に32bitCPUでCD-ROMドライブを持っていたが、PSは3Dに特化したハード構成で、SSは2D性能に秀でていた。PSはこの大容量と3D性能の高さを併せ持っていたことが評価され、『鉄拳』、『バイオハザード』などのヒット作が続々とリリースされた。1996年にスクウェア(当時)がFFシリーズ初の3DRPGである『ファイナルファンタジーVII』 (FFVII) をPlayStation用ソフトとして発売することを発表すると販売台数が飛躍的に伸びていき、セガサターンに大差をつけた。SFCのカセットが当時10,000円前後と高価格化していた中、PSはソフトの価格を平均6,000円で発売していたことも支持された。メディアにCD-ROMを採用したことでROMカートリッジに比べてソフトの価格を大きく下げることに成功した。従来の初心会中心の任天堂主導のゲーム流通にも斬り込んで流通改革も試み、任天堂流通に不満を持ちコンビニエンスストアでゲーム流通を行うためデジキューブを設立したスクウェアの取り込みにも繋がった。セガも同様に任天堂流通に不満を持っており、SS発売の際に独自の流通体制を整備することでSSを扱う小売店の数を拡大させたが、親会社のCD-ROM生産設備を利用できたSCEと異なり、CD-ROMの特性を生かした柔軟な生産調整を行うことはできなかった。1997年からセガはSCEの流通改革を模倣して小売店への直販化・直送化を推し進めていった。一方、スクウェア以外の有力ソフトメーカー各社もこの時代にゲームソフトの自主流通を行い始め、任天堂をはじめとして流通機構における各プラットフォームホルダーの支配力を削いでいった。SFCで圧倒的シェアを持っていた任天堂は、PSやSSが登場した頃にはまだ後継機を出さず、1995年に据置き使用のゲーム玩具バーチャルボーイ(後述)を発売するにとどまった。これは「テレビゲーム機」ではなくゲームボーイと同様の「ゲーム玩具」類だったが、日本ではおおむねSFCの後継機までの「つなぎ」と受け止められ、当時の次世代ゲーム機競争の報道にしばしば名を連ねた。そしてSSやPSに遅れて2年後、1996年に64bit機(実質32bit機)であるNINTENDO64 (N64) を発売した。N64はPSやSSより高性能で4人対戦が可能だった。SFC同様に単価が高く容量の少ないROMカートリッジを採用し、少数精鋭主義のセカンドパーティー構想を標榜していたが、これは結果的に前述のコンビニ流通のためCD-ROMの採用を望むスクウェアの離反を招き、ファミコンやSFCでキラーソフトだったドラゴンクエストシリーズとファイナルファンタジーシリーズがPSへ流出し、日本国内では伸び悩んだ。しかし、欧米では好調に売り上げを伸ばした。1999年にはN64用の周辺機器64DDを発売させるが時すでに遅く、人気シリーズを移籍させた最終的にPSがトップシェアとなった。これらに先行してパナソニック、三洋電機等からは3DOが、SNKからネオジオCDが発売されていたほか、NECからはPCエンジンの流れを汲んだPC-FXも登場し、当時の次世代ゲーム機競争の話題を彩った。しかしPC-FXは動画再生に特化した性能のため当時のゲーム業界の流れだった3D化の流れから外れ、「1995年内に50万台以上普及させる」という目標も達成できなかった。3D対応機能は後にPC-FXGAに搭載されたが劣勢を覆すことはできず、PC-FXシリーズは3DOに次いで短命に終わった。1998年、NECグループは家庭用ゲーム機業界から撤退することになった。ブロードメディアから2013年6月20日に発売された、「クラウドゲーム」用ゲーム機。しかし2016年5月にはサービスを提供する「Gクラスタ・グローバル」が破産手続に入り解散。ブロードメディアの子会社「ブロードメディアGC」がサービスを引き継いだものの、一部のゲームは販売・配信が休止されるなど、展開は縮小傾向にある。1980年代初頭の日本では、任天堂の「ゲーム&ウオッチ」やバンダイの「LCDゲームシリーズ」、カシオ計算機の「ゲーム電卓」などのヒットにより、日本国内の携帯ゲーム市場は電子ゲームが全盛期を迎えていた。しかしこれらの多くはソフトウエアとハードウエアが一体化した、ゲーム内容を換装できない単発の製品だった。すなわちユーザーは毎回ハードごとソフトを買い換えねばならず、後年のようなハードウエアのシェア争いを意識する必要はほとんどなかった。強いて挙げるなら、同じメーカーの同じシリーズに揃えればACアダプタを共用できるケースがたまにあった程度である。そのような状況下には違いないが、参考として「カートリッジ交換式の電子ゲーム」も、この時点で全く見られなかったわけではない。ツクダオリジナルのアメリカ横断ウルトラクイズや、バンダイのクイズ面白ゼミナールは紙の問題冊子が用意されたクイズゲームで、単に問題冊子別に選択肢の正答データを切り替えるための手段としてカートリッジ交換が用いられた。前者では実際に交換データのユニットが新たな問題冊子と共に発売された。後者はクイズの分野別に3本のカートリッジが本体に付属していた。いずれの機種も数ある電子ゲームの一種でしかなく、大きな注目を集めることなく終わっている。1985年になるとエポック社からゲームポケコンが発売され、日本国内の本格的なカートリッジ式携帯型ゲーム機の草分的存在となる。しかし当時はまだサードパーティの制度は一般的ではなく、自社製作のゲームしか発売されなかった。ソフトの数もあまり増えず、結果的に短命に終わった。1989年に任天堂が携帯型ゲーム機のゲームボーイ (GB) を発売した。対抗して1990年にセガ(後のセガゲームス)がゲームギア (GG)、日本電気ホームエレクトロニクスがPCエンジンGTで参入した。GBは『テトリス』などの記録的ヒットなどに支えられ、携帯型ゲーム市場でトップに立った。PCエンジンGTは据え置き機のPCエンジンと互換性があるほか、当時としては高性能なカラー液晶を使用していた。任天堂が1994年6月に携帯機のゲームボーイソフトが据え置き機のスーパーファミコンでもプレイ出来る周辺機器スーパーゲームボーイを発売。1998年には通信端子を搭載したスーパーゲームボーイ2が発売された。GGはこの時期に販売を終了し、GBも新作ソフトが月に数本程度しか出ない状況が続いたが、1996年のGB用ソフト『ポケットモンスター 赤・緑』が登場。当初はあまり注目されなかったものの、携帯型ゲーム機ならではの特性を活かしたこのソフトは世界規模で大ヒットを記録した。同年に発売されたゲームボーイポケット (GBP) とそれに支えられる形で、携帯型ゲーム機市場は再活性化された。1998年にゲームボーイライト (GBL) が発売された。ゲームボーイの派生ハードとして、1995年に任天堂は史上初の完全3D映像のゲーム玩具バーチャルボーイも発売している。これは乾電池で駆動でき、表示装置を内蔵するなど携帯機の特徴を備えているが、コントローラが外付けであるなど使用時は据置きする場所が必要になるもので、結局、商業的失敗に終わった。1998年に任天堂がゲームボーイカラー (GBC) を、SNKがネオジオポケットを発売、1999年にバンダイがワンダースワンを発売した。ネオジオポケットは他機種を上回る処理性能を持った。ワンダースワンは軽量さと安さをセールスポイントとし、『ファイナルファンタジー』のリメイクを発売した。GBCでは1999年にポケモンシリーズ第2弾、『ポケットモンスター 金・銀』が発売され、大ヒットを記録した。この時期のヒットタイトルにはエニックス(後のスクウェア・エニックス)の『ドラゴンクエストモンスターズ テリーのワンダーランド』、コナミの『遊☆戯☆王』シリーズがある。SNKは1999年にネオジオポケットカラー、バンダイは2000年にワンダースワンカラーといったカラー版を発売したが、ソフトのヒットが続くGBの独占状態を崩すには至らなかった。任天堂は2001年にゲームボーイアドバンス (GBA) を、2003年にその改良型のゲームボーイアドバンスSP (GBASP) を発売した。1万円を切る価格が普及を促進した。2003年3月にはGCでGB・GBAのソフトができるゲームボーイプレーヤーも発売された。ワンダースワンの後継機種であるスワンクリスタルも登場したがGBAには対抗できず、ネオジオポケットと共に携帯型ゲーム市場より撤退した。この結果、携帯型ゲーム機市場からGBAの対抗機種が全て消え、任天堂が完全に市場を独占した。この時期のヒットタイトルとしてはカプコンのロックマンエグゼシリーズがある。この世代以降、携帯型ゲーム機も32ビット以上の高い性能と緻密なカラー液晶を備えたものが主流となった。ハード的な制約による携帯機で出来なかった事柄が減り、SFC時代の過去のハードのリメイク作品などが数多く発売された。携帯音楽プレーヤーとして使用する『プレイやん』のようなゲーム機にとどまらない周辺機器も公式に発売されたものとしては初登場した。これらの試みは次世代へと続いている。この世代になると、それまで据置機での製作が中心だったサードパーティーが携帯機向けのゲーム開発へシフトする様も多々見られた。また、違法ダウンロードのカジュアル化も深刻な問題となった。
出典:wikipedia
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