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恵那郡

恵那郡(えなぐん)は、岐阜県(美濃国)にあった郡。1879年(明治12年)に行政区画として発足した当時の郡域は、以下の区域にあたる。奈良時代には現在の長野県木曽郡の全域も含んでおり、美濃国内で最大の面積を有する郡であった。明治初期には岐阜県の第十二大区とされ、63ヶ村があったが、11の小区にまとめられた。702年(大宝2年)に「始めて美濃国の岐蘇山道を開く」と続日本紀に記されているのが岐蘇(木曽)の史料上の初見であるが、このとき木曽路を開通させたのは美濃国の役人たちであったため、木曾谷は美濃国に含まれた。はじめ美濃国恵那郡に属していたが、信濃国と所属がしばしば争われた。9世紀後半の、貞観年中の859~876年に天皇の貞観年間には勅命により、朝廷より藤原正範と靭負直継雄が派遣され、両国の国司と現地に臨み、このときの正範らの報告によると、「もともと吉蘇、小吉蘇の両村(木曾谷の村落)は美濃国恵奈郡絵上郷の地域にあり、和銅6年(713)に美濃守笠朝臣麻呂らが、ここに吉蘇路を開通させた。ここは美濃の国府(不破郡垂井町府中)から10日余りもかかる距離にあり、信濃国府のすぐ近くではあるが、もし信濃国ならば、美濃国司がこのような遠いところで工事をする理由がないという。それでこの報告にしたがって、木曾谷を美濃国と決めた。」という。すなわち古代には木曽は恵那郡に属していたのである。そして元慶3年(879年)9月に懸坂上岑(木祖村と旧奈川村との境界にある境峠)と鳥居峠を境界とし、岐蘇・小岐蘇の所属は美濃国恵那郡絵上郷と定められたが、平安時代中期になると、源義仲が信濃国木曾の住人とされたように「木曾谷は信濃」という認識が生まれた。平安時代中期の拾遺和歌集には、源頼光の『なかなかに いいもはなたで信濃なる木曽路の橋のかけたるやなぞ』という詩がある。懸坂上岑とは、木曽川の水源から北にある境峠のことであり、当時は、境峠を越えて飛騨から来た道と合流し信濃国府へ向かったのである。平安時代中期の和名類聚抄では恵奈郡六郷に淡気(たむけ)、安岐(あぎ)、絵上(えなのかみ)、絵下(えなのしも)、坂本(さかもと)、竹折(たけおり)が挙げられており、この頃の郡域は現在の恵那市(飯地を除く)、中津川市(加子母北部を除く)と瑞浪市の陶地区と現在の長野県木曽郡全域であったと考えられる。また延喜式には中川神社、坂本神社、恵那神社の三社が記されている。信濃地名考という文献には、木曽が信濃国に移管されたのは、平安時代の延喜年間(901年 - 923年)と記されている。天正年間に豊臣秀吉の命により、全国で太閤検地が実施された結果は、美濃国は54万石、恵那郡は34,310石2斗6升5合であった。太閤検正保書上帳による恵那郡の78ヶ村の石高については以下の通り。

出典:wikipedia

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