小野 鎮幸(おの しげゆき)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。立花氏、加藤氏の家臣。日本七槍・立花四天王の一人に数えられる。また和泉守であることから小野和泉とも呼ばれる。由布惟信に推挙されて立花道雪に仕えた。「剛勇にして智謀あり」と伝わる智勇兼備の武将で、生涯で二十二度の大戦、多数の小戦に参加して全身刀や槍、矢、鉄砲による六十七ヶ所の傷を受け、大友氏・立花両家から合計六十八枚の感状を受けた。家中に由布惟信と共に、立花道雪が孫子兵法の「奇正相生」を引用しての奇と正の両翼として立花双璧と称揚され、鎮幸は奇の将を任じた。筑後国柳川城の城主となった道雪の子宗茂からは家中で最高の5千石の禄高を賜り、次席家老を務め、蒲池城主となった。文禄・慶長の役にも参加し、数々の武功を立てている。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは西軍への参加を主張し、大津城を攻略した。そのため関ヶ原主戦場への参加は叶わなかった。西軍は関ヶ原に敗れた後、加藤清正や鍋島直茂、黒田孝高(如水)が柳川を攻める形勢となった。10月14日、鍋島勢32,000(『葉隠』聞書第六によると12,000、『太宰管内誌』は20,000余、『立斎旧聞記』は10,000余としている)は二手に分かれて佐賀を進発。これに対し、立花勢は迎撃のために出陣するが、家康への恭順を示すため宗茂は城に残った。立花勢13,000のうち、城を出て八院方面へ出陣したのは家老の鎮幸を総大将とする約3,000(一說2,000、うち鎮幸の直卒する中軍は1,000余騎)である。鍋島軍は、10月16日には筑後川を渡河し立花方の海津城を落城させ、続いて19日朝には先鋒の3,000兵は立花成家200兵の鉄砲奇襲を受け20余人が討たれたが城島城を攻略、翌20日には江上八院で立花勢本隊と激突した。立花勢先鋒の安東範久(五郎右衛門)、石松政之(安兵衛)らは軍法を破って独断で開戦し、次々と鍋島勢十三段の軍陣の中へ突入し、先鋒の第三隊立花統次(三太夫、森下釣雲の三男、立花統春の養子、鎮幸の養子・小野鎮矩とは兄弟)はその九段までも進んで奮戦した。鍋島勢の先鋒・鍋島茂忠は本陣の五反田へ撤退したといわれている。しかし、一騎駆で敵軍に突撃した立花統次の戦死を初め、先鋒の安東範久、石松政之はたちまち反撃を受けた。そのために救援出陣の第二陣立花鎮実(戸次右衛門大夫、藤北戸次氏の一族)と鎮実の若い次男立花親雄(善次郎‧17才)や新田鎮実(平右衛門、掃部助)は横合から攻めかけ、敵を三町ばかり突き崩したが、後を断たれて共に戦死した。後陣の矢島重成(勘兵衛、剛庵、宗茂の側室・八千子の弟)と千手喜雲(六之允、筑紫広門の与力)は戦を躊躇していたため、馬廻衆の安東幸貞、第三陣の若武者十時惟久(新五郎‧16才)、先鋒の安東範久、石松政之も次々と戦死した。総大将の鎮幸は本陣前の橋を堅守して鍋島勢の包囲を受け勇戦奮戦したが、鍋島軍の反撃を受け、供回りが14、5人になるまで討ち取られた。鎮幸自身も銃創と矢傷を負い、討死寸前となったが、水田方面の黒田如水軍を偵察していた立花成家(吉右衛門、薦野増時の嫡男)が別動隊300を率いて敢然と奇襲をかけ鍋島勢を混乱させた隙に無事撤退した。立花家が改易されて宗茂の身が加藤清正預かりになると、家臣達の多くは立花家臣団の勇猛を知る清正に召抱えられ、鎮幸はそのまとめ役として肥後国に残った。宗茂は僅かな家臣と共に各地を放浪する旅に出たが、鎮幸は少しずつ金を貯めて度々宗茂に送っている。慶長14年6月23日、肥後にて死去。享年64。数年後、宗茂が柳川城主に返り咲くと、鎮幸の子孫は呼び戻され代々大組組頭兼家老を世襲した。ジョン・レノンの妻、オノ・ヨーコ(小野洋子)は鎮幸の子孫であると言われるが詳細不明。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。