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元帝 (南朝梁)

元帝(げんてい)は、南朝梁の第4代皇帝。名は蕭繹(しょう えき)。武帝蕭衍の七男。天監13年(514年)に湘東王に封じられ、太清元年(547年)に鎮西将軍・都督・荊州刺史となる。侯景の乱で建康が陥落して武帝が崩御した後、簡文帝や蕭棟が相次いで侯景の手で擁立された。しかし蕭繹は彼らの即位を認めず、自らが梁の正当な後継者であると称して他の皇族たちとも対立した。蕭繹は王僧弁や陳霸先ら配下の武将の協力により、太始2年(552年)3月に皇帝を自称していた侯景を討ち滅ぼした。同年11月、根拠地の江陵で正式に皇帝に即位する。即位後も旧都である建康に入らず、江陵に留まり続けた。侯景を討ち果たして即位した元帝だが、梁は相変わらず戦乱の渦中にあった。元帝の即位の直前には、弟の武陵王蕭紀が蜀の地で皇帝を自称していたほか、すぐ北の襄陽には元帝の仇敵である甥の岳陽郡王蕭詧が西魏の力を背景に控え、また嶺南には宗族の蕭勃が割拠するなど、その地位は不安定なものであった。更に侯景と蕭紀に挟まれる事を恐れた元帝は、即位前の太始元年(551年)に西魏に対して大同元年(535年)に梁が魏から奪った漢川(漢中地方)を返還することを条件に侯景を攻めるように求め、西魏は梁の不安定な情勢を勢力を拡大する好機ととらえてこれに応じた。これに対して漢中を守っていた宜豊侯蕭循や蕭紀は反発して西魏軍に抵抗したが、太始2年5月に漢中は陥落した。西魏は侯景討伐の約束を果たさなかった一方で、蕭紀・蕭詧を牽制して元帝を侯景討伐に専念させた事実もあったため、元帝も抗議はできなかった。即位後、元帝はこれら皇族の討伐に乗りだし、承聖2年(553年)に蕭紀を討ち滅ぼしている。その際、元帝は一応は同盟国であった西魏に蕭紀の挟み撃ちを求める。西魏の実権を握る宇文泰はこれに応じ、尉遅迥を派遣して関中と蜀を結ぶ要所の潼州と蕭紀の本拠地である成都を占領した。元帝に敗北した蕭詧は西魏に救援を求めた。一方、蜀において西魏と対峙する事になってしまった元帝は領土割譲を後悔し、西魏に対して国境の原状回復を求め、一方で北斉に働きかけて西魏を攻撃させようとした。西魏は元帝の裏切りに反発するとともに、早くから西魏に臣従の姿勢をみせてきた蕭詧を庇護する名目から、承聖3年(554年)に蕭詧を梁の正統として擁立し、于謹を総大将として江陵に攻め込んだ。元帝は王琳・王僧弁に救援を求めたが都江陵を攻め落とされ、西魏軍に捕らえられた。同年12月に蕭詧によって土嚢を積まれて圧殺され、西魏は蕭詧を梁の皇帝として即位させた(後梁の宣帝)。一方、建康にいた王僧弁は元帝の九男蕭方智(敬帝)を皇帝に擁立した。歴代中国皇帝の中でも学問を愛した皇帝であった。幼少時に病気で片目を失明したが、書物を好み、自ら多くの著作を残し、蔵書は10数万巻に及んだという。また老荘の書を好んだ元帝は、西魏の軍が江陵に押し寄せる中も、『老子』の講義を行い、群臣たちは武装したままそれを聴講したと史書にある。元帝が集めた蔵書は、江陵が陥落する直前、自身の手によって全て焼き払われたという。荊州刺史を務めていた時代に職貢図を作成されたと伝えられる。蕭繹は、梁に朝貢する諸国の外国使節の風貌を荊州や都建康で調査し、また裴子野の方国使図を参考にしたといわれる。

出典:wikipedia

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