LINEスタンプ制作代行サービス・LINEスタンプの作り方!

お電話でのお問い合わせ:03-6869-8600

stampfactory大百科事典

赤穂鉄道

赤穂鉄道(あこうてつどう)は、かつて国鉄山陽本線の有年駅から播州赤穂駅(現在の播州赤穂駅とは別駅)間の鉄道路線を運営していた鉄道事業者である。本項では、主に運営していた鉄道路線について記述する。播磨国(兵庫県西部)の西端にあり、赤穂藩(赤穂事件などで著名)の城下町であった赤穂町(後に赤穂市)は、瀬戸内海に面し、塩田を擁する製塩地としても知られていた。しかし、1890年(明治23年)に山陽鉄道が路線(現在の山陽本線)を山間部に敷設すると鉄道ネットワークから取り残されたため、鉄道を同線の有年駅から町中心部まで敷設しようとする発案が幾度か挙がったが、いずれも予算問題で立ち消えとなっていた。しかし1910年(明治43年)に軽便鉄道法が公布されたことから、これを契機として軌間762mmの軽便鉄道の敷設が決定され1915年(大正4年)に会社創設、1921年(大正10年)に開業した。赤穂鉄道は塩の輸送のほか、観光誘致にも積極的で、赤穂周辺においてバス事業も展開した。戦後、山陽本線相生駅と接続する国鉄赤穂線が開業することになったため、1951年(昭和26年)に廃止となった。1950年(昭和25年)11月改正時播州赤穂に通じる鉄道としては、4つの構想があった。最初の構想は、1896年(明治29年)に出た播州鉄道の構想で、ほぼ赤穂鉄道のルートで有年に出て、さらに北の上郡を目指したものであったが、軌間の選択でもめて実現しなかった。続いて明治30年代に赤穂鉄道の構想が打ち出された。これはほぼ現在のJR赤穂線のルートに沿って岡山県側の西大寺まで結ぶものであったが、これも実現しなかった。また1907年(明治40年)には播備鉄道の構想が打ち出され、龍野から姫新線と赤穂線のルートに近い経路で播州赤穂まで結ぶものであったが、これも実現しなかった。1910年(明治43年)に4番目に打ち出された播美線の計画が、実際に建設された赤穂鉄道へ通じるものとなった。これは上郡からさらに岡山県北部の美作地方までを結ぶものであった。1913年(大正2年)2月8日に軽便鉄道の敷設申請を提出して、すぐに許可を取得した。実際には播美線の計画は縮小されたため、上郡までの建設になった。1915年(大正4年)5月7日に赤穂鉄道株式会社が発足したが資金的に苦しく、有年以北の上郡までの区間は見送り、また坂越支線も中止して播州赤穂 - 有年間のみを建設することになった。1921年(大正10年)4月14日に開業した。開業後は赤穂からの塩の輸送が行われ、赤穂の塩をさらに全国に広めて赤穂の産業発展に貢献した。また積極的に観光開発に努め、赤穂義士の史跡などを生かして京阪神方面からの観光客を輸送した。赤穂周辺の住民の生活は赤穂鉄道の開通により大幅に便利になったという。営業実績の方は当初はふるわず、赤字がしばらく続いた。昭和初期には蒸気機関車に代わってガソリンカーが導入され、列車の増発が行われると共に播州赤穂駅の移転・改築が行われた。業績は次第に上向き、1938年(昭和13年)頃からは配当も行えるようになった。第二次世界大戦後、年間輸送量が100万人を超えるピークを迎えた。その後は落ち着くが、特に経営に支障はない状態で安定していた。しかし国鉄赤穂線が建設されることになり、これに役割を引き継いで発展的に解消することになった。1951年(昭和26年)12月11日22時に最終列車が播州赤穂駅に到着、翌12月12日から国鉄赤穂線が開業して赤穂鉄道は廃止となった。開業から廃止までの間に、蒸気機関車6両、ディーゼル機関車2両、気動車6両、客車延べ30両、貨車延べ31両が在籍した。

出典:wikipedia

LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。