北陸トンネル火災事故(ほくりくトンネルかさいじこ)は、1972年11月6日未明に福井県敦賀市の北陸本線敦賀駅-南今庄駅間にある北陸トンネル(総延長13,870m)で発生した列車火災事故のことである。火災対策の不備により、乗客乗員に多数の死傷者を出す大惨事となった。午前1時13分頃、北陸トンネル内を走行中の大阪発青森行き501列車 急行「きたぐに」(EF70 62牽引、10系客車15両編成)の11号車食堂車(オシ17 2018)喫煙室椅子下から火災が発生。それに気付いた食堂車従業員からの通報を受けた車掌の非常ブレーキ操作と機関士の非常停止措置により、列車は運転規定に基づいて直ちに停車した(敦賀側入口から4.6km地点)。乗務員は列車防護の手配(対向の上り線に軌道短絡器を設置し、信号を赤にする)を行った上で消火器等で消火作業を開始したが、火勢が強まり鎮火は不可能と判断したため、車両の切り離し作業に取り掛かった。火勢の激しさとトンネル内の暗闇で作業は難航。1時24分頃、火災車両より後部を切り離し移動した後、1時29分頃、トンネル両端駅である今庄、敦賀両駅に救援を要請するとともに、引き続き火災車両より前部を切り離す作業に取り掛かった。しかし1時52分頃、熱でトンネル天井に設置されていた漏水誘導用樋が溶け落ち、架線に触れてショートを起こし停電したため、列車は身動きが取れない状態に陥った。深夜帯に発生した事故であり、列車編成前部に連結されていた寝台車では多くの乗客が就寝中であったこと、煙がひどかったことなども影響し、避難救助は難航を極めた。列車の停止した個所がトンネルのほぼ中央で乗客が徒歩で脱出するにはあまりにも遠かったこと、消火器以外に消火設備が全くなく、当時の消防は排煙車もなく、消火のためのホースをトンネル内に延展することもできず、消防ができる消火作業は何もなく、救助に行くことしかできなかったとされる。救助に向かうにしても、消火に向かうにしても厳しい条件下での事故だった。当時、国鉄は電化のトンネル内で火災は発生し得ないとしていた立場から、排煙設備や消火設備を一切設置せず、またトンネル照明も労働組合から「運転の妨げになる」という反対があったため消灯していた。事故の通報を受け、トンネル両側より救援列車が運転されるなどしたが、火災が深夜の食堂車で発生したため発見・通報が遅れたこと、火災車両から発生した猛烈な煙と有毒ガスが排煙装置のないトンネル内に充満したこと等の悪条件が重なり、結果として30人(内1人は指導機関士)が死亡し、714人にものぼる負傷者を出す事態となった。死者は全員が一酸化炭素中毒死と断定された。1時40分に上り線を506M列車 急行「立山3号」(475系電車)が走行していたが、軌道短絡器設置による赤信号により事故現場から約2km手前の木ノ芽信号場で停止した。その後、軌道短絡器が軌道から外れ(「きたぐに」から脱出した避難者が接触して外れたか蹴飛ばしたものと推定されているが、最終的に原因は不明)、21分後に信号が青になったが、運転士は異常を感じつつも徐行で出発させた。300mほど進んだところで「きたぐに」から逃げてきた乗客を発見したため、ドアを開放し225人を救助、「立山3号」は急遽この地点で運転を前途打ち切り、その後トンネルを今庄側に逆走して脱出に成功した。「立山3号」にとって幸運だったのは、事故現場との間に交・交セクションが存在していた事である。このため、「きたぐに」の停車区間では停電していたにもかかわらず、今庄方にわずか2kmほどの「立山3号」の位置では給電が継続されていた。なお、漏水誘導用樋が溶け架線に触れ停電した点については、その後の熱で再度架線から外れてショートが解消されたため、死亡した指導機関士が連絡をした時、送電を再開すれば自力脱出が可能であったのではという意見がある。しかし、事故発生時の状況から停電の発生原因の把握は困難と思われ、再送電による二次被害が起きる可能性を考慮すると、送電再開を断念する判断は止むを得なかったと考えられている。火災の原因は、オシ17形の喫煙室長椅子下にある電気暖房装置のショート(基準違反の配線と配線の緩みであったことが判明している)とされた。初期の段階ではオシ17形調理室の石炭レンジからの出火、あるいは、喫煙室でのタバコの火からの出火の説もあったが、断定はされなかった。北陸トンネルは着工時、国鉄の技術の粋を結集した交流長大トンネルであり、その安全性は極めて高いとされていた。しかし開通から5年目の1967年(昭和42年)、敦賀消防署が国鉄に対し、北陸トンネルの火災時の対応について申し入れを行っていた。内容は北陸トンネルを通過する列車に救命補助具や呼吸器を備える事だった。消防の方ではこの段階から北陸トンネルで大規模火災事故が発生することを予期していたのである。しかし、「電化トンネルで火災事故はあり得ない」とする国鉄の建前を守るために、国鉄はこれら消防からの要望、申し入れは一切封殺した。また、トンネル内の照明は普段消灯していただけではなく、一斉点灯させる回路が備わっておらず、火災発生時にも個々の回路(照明具680個に対しスイッチ500個)ごとにスイッチを入れていた。これら設備面での不備が被害拡大の要因になったとされている。この事故を教訓に、地下鉄や長大トンネルを走る車両の難燃化・不燃化の基準が改訂され、車両の火事対策が進められた。車両の構造上においての主な対策としては、などがある。従来、長大トンネル内の列車火災時にどのような措置をするのかは明確でなかったが、この事故の教訓から延長5km以上のトンネル(在来線13、新幹線7の計20箇所:当時)を長大トンネルと指定し、次の緊急対策を実施している。また、列車回数の多い準長大トンネルについても、情報連絡設備、避難誘導設備、照明設備等の整備を行うこととなり、他にも乗務員用無線の難聴対策、沿線電話機の改良等長大トンネルと同等の対策が実施された。本件事故を重く見た国鉄は、外部より学識経験者も招聘して「鉄道火災対策技術委員会」を設置、1972年12月の大船工場での定置車両燃焼実験や翌1973年8月の狩勝実験線における走行車両燃焼実験を経て、1974年10月に宮古線(現・三陸鉄道北リアス線)の猿峠トンネルにおいてトンネル内走行中の車両を使用した燃焼実験を世界で初めて実施し、その結果からこれまでの「いかなる場合でも直ちに停車する」よりも「トンネル内火災時には停止せず、火災車両の貫通扉・窓・通風器をすべて閉じた上でそのまま走行し、トンネルを脱出する」ほうが安全であることが証明されたため、運転規程を改めた。トンネル内のほか、橋梁上や高架橋上でも停止しないことになった。あわせて北陸トンネルのような長大トンネルであっても、トンネルを脱出するまで延焼を食い止められるよう、上述のような難燃化工事が進められていった。教訓が活かされた例としてサロンエクスプレスアルカディア火災事故がある。1988年3月30日、気動車(サロンエクスプレスアルカディア)が越後中里駅-岩原スキー場前駅間で火災を起こした際、トンネルの多い長い区間だったためトンネルを出て緊急停止した事例などがある。「きたぐに」事故の前の1969年にも北陸トンネル内を通過中の寝台特急「日本海」で列車火災が発生したが、この時は列車乗務員が機転を利かせて当時の規程を無視して列車をトンネルから脱出させ、速やかな消火作業を可能とした。このため死傷者を生じさせなかったが、国鉄上層部はこれを「規程違反」として乗務員を処分し、運転マニュアルの見直しを行っていなかった。そのため事故列車は、長大トンネルの中間で規程どおりに停止せざるを得ず、結果として大惨事を惹起した。多数の犠牲者を発生させた結果責任として、機関士と専務車掌の2人が業務上過失致死傷罪で起訴された。トンネル内で列車を停止したのが被害を大きくしたなどといった理由により長期裁判となって争われたが、1980年11月25日に金沢地方裁判所で下された判決では、事故当時乗務員のとった行為は「規程を遵守し最善を尽くした」とされ、また車両の切り離し作業におけるブレーキ管のホースの切り離し等、機関士にとって不慣れな作業による遅れは「許される範囲」として2人とも無罪が確定した。しかし、前述の寝台特急日本海火災事故後も運転マニュアルを改訂せず放置し、消防からの申し入れも無視し続けた国鉄幹部の責任が追及されることはなかった。なお本事故後、先述の「日本海」の乗務員に対する処分は撤回されている。この当時、事故車と同形のオシ17形は他に6両が在籍していたが、本事故の翌日には全ての列車(当時、「きたぐに」のほかには上野 - 青森間の急行「十和田」1往復のみで使用)の運用から外され、裁判の証拠物件として保全命令が出され、車籍が残された被災車両の2018号車を除いて全車が廃車あるいは教習車両への改造で1974年までに消滅した。なお、2018は裁判終結後の1981年に廃車。この他2051が裁判の実地検分用として1980年頃まで金沢運転所に保管されていた。この事故が発生する以前から、夜行急行列車の食堂車はすでに縮小が進められていたが、オシ17形の全廃によって夜行急行列車から食堂車が消滅することとなった。火災発生の原因となった電気暖房配線のショートは電気暖房を使用する限りどの車両でも起こりうる事態であり、オシ17形だけが特別な危険性を有しているというわけではなかったが、10系客車は軽量化のために新建材の合板やプラスチックの内装を多用しており、それが有毒ガスの発生を招いて人的被害を拡大することの一因になったのであった。さらに長大トンネルでは、この事故までトンネル壁部に取り付けられていた照明は、国鉄労働組合(国労)・国鉄動力車労働組合(動労)などの「乗務員の視界を妨げる」といった主張で平常時は消灯されていたが、この事故を契機に非常時に問題ありということで、常時点灯させるようになった。新型寝台車両として1971年から製造が開始されていた分散電源方式の14系客車も、床下にディーゼルエンジンを設けていることが安全上問題だとして、一時製造を中止した上で集中電源方式の24系の製造に切り替えた。後に分割が容易というメリットにより、防火安全対策を施した14系(15形)の製造を1978年から開始し、既存の14系(14形)にも自動消火装置の取付等14系(15形)と同等の火事対策が施されている。「きたぐに」やその他の夜行急行列車に使用されていた旧型客車のうち、座席車については、10系やスハ43系等在来の客車が老朽化したこともあって1973年から難燃性を高めた12系への代替が進められたが、当時の国鉄の内部事情などのため、完了したのは1982年11月の上越新幹線開業に伴うダイヤ改正時であった。寝台車に関しては、代替できる車両がないことから継続使用されたが、大部分は20系1000番台・2000番台に順次取り替えられた。これらも急行は1983年までに座席車や20系改造車共々14系客車へ置き換えられ、長距離普通列車での運用も1985年に全廃された。なお「きたぐに」は同年から583系電車での運行に変更されている。
出典:wikipedia
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