天地正教(てんちせいきょう)は、北海道帯広市に本部を置く仏教系の宗教法人(ただし、文化庁の区分では諸教とされている)。川瀬カヨが1970年代に「統一教会」(統一教会)の信仰を持ち、自ら率いていた「天運教」の組織をそのまま受け継いだもの。1988年に「天地正教」と改称してからは、弥勒信仰を中心とする。この世に下生するとされている弥勒が統一教会の教祖、文鮮明であると教えていたとされる。信者の大半は主婦層であり、批判者からは信者を「統一教会」(統一協会)に導くダミー教団という指摘がある。「霊感商法」で販売されていた壺や多宝塔を「霊石」として扱っていた。1998年の内紛により、 1999年に法人としては正式に解散していないが“和合”ということで統一教会(統一教会)に事実的には吸収された形になった。1956年11月12日、川瀬カヨが「汝、天運教の教主たれ」との啓示を受けたという。天地正教ではこれをもって創立とする。しかし、周囲の理解を得られず、精神科病院に入院させられる。退院後、教団で「百日日参」と呼ぶ修行を行い、そのころから徐々に信者が集まり始める。1957年3月4日 「おさしず」と称する啓示を受ける。宗教法人認証以前においてはこの日を立教の日としていた。1963年、信者会として「冨士会」が設立され、教団としての体裁を整える。当時は八大龍神・馬頭観音・弘法大師等を本尊とし、先祖供養を中心とした教えを説いていた。1973年、信者の一人が「幸福の壺」をもたらしたことを通し、「統一教会」(統一協会)の教えを受け入れる。1982年10月14日 川瀬カヨが数人の信者と共に「統一教会」の6000組合同結婚式に参加。川瀬は「独身祝福」を受ける。 1987年11月26日、「天運教」として宗教法人の認可を受け、川瀬カヨが初代教主となる。この時、本尊を弥勒慈尊(弥勒菩薩)に改める。翌1988年1月14日、法人の名称を「天地正教」と改める。同年3月3日、「統一教会」(統一協会)の霊感商法関連団体である「霊石愛好会」が天地正教に移行することを発表する。これにより、天地正教は実質的に統一教会系の幹部に牛耳られることとなり、旧天運教関係者はお飾りの立場におかれた。しかし、「統一教会」(統一協会)の幹部による霊感商法的運営によってさまざまな問題が噴出し、次第に川瀬カヨを中心とする旧・天運教系幹部が主導権を握るようになった。1994年2月4日 川瀬カヨが83歳で亡くなり、三女・新谷静江が二代教主となる。1995年2月3日、本山において文鮮明夫妻の写真を祭壇に掲げる儀式を行い、公式に弥勒慈尊が文鮮明夫妻であることを表明した。それまで、内々に文夫妻を弥勒として教えていたが、教団として文夫妻の写真を拝することはなかった(ただし、各地の道場が非公式に文夫妻の写真を拝することは少なからず行われていた)。またこの年、北海道清水町における本山の宿泊施設建設計画が地元の激しい反対を受けた。当時、天地正教の青年が作務衣を着ての訪問托鉢を行っていたが、その姿が折から問題になっていたオウム真理教を彷彿とさせ、地域住民の警戒感を招いたためである。1997年10月1日 信者一行が北朝鮮を訪問。「金日成主席永生祈願祭」、「朝日歴史総懺悔式」(民文化宮殿)に参加。1998年5月、新谷静江が教主の座を追われる。新谷教主や天地正教の幹部は、韓国の統一教会幹部らの献金の扱いに非常に不信を持ち、文鮮明教祖に韓国の「世界日報」の財務、送金した献金の監査請求をし、調査を求める12人の署名をした嘆願書を出したが、受け入れられなかった。これに対して韓国及び日本の「統一教会」(統一協会)幹部は、天地正教の完全支配を目論み、教団内の旧・天運教系幹部主導の体制に不満を持つ「統一教会」(統一協会)系幹部を扇動し、教主の追い落としを図った。文鮮明は、777双で、アメリカの統一神学校を出て、当時役職に就いていなかった松波孝幸(後に原理研究会会長)を天地正教の会長にさせ、教主制度を廃止。 12人の嘆願書を出した人たちは、皆、左遷された。しかし、この処置は信者の多くに不信感を抱かせ、信者数は激減した。その結果、天地正教は教団存続を断念。1999年 3月 天地正教は、松波会長の申し出(和合宣言文)という形をとって、事実上、「統一教会」(統一協会)によって、吸収合併される。ただし、法人としては現在も存続している。「統一教会」(統一協会)・天地正教側は法人の解散を望んで信者の署名活動まで行ったが、文化庁が乗っ取りによる教団の吸収合併という前例ができることを嫌ったためといわれている。
出典:wikipedia
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