


日代(にちだい、1294年(永仁2年)- 1394年5月18日(応永元年4月18日))は、鎌倉時代中期から後期にかけての日興門流の僧。駿河国河合の出身。伊予公・伊予房・伊予阿闍梨・蔵人阿闍梨と称する。日興の弟子「新六人」の筆頭。駿河国西山本門寺の開山。日興の外甥にあたり、弟に日善、甥に日助がいる。日興示寂後、重須談所(北山本門寺)の第2世となるも退出し、大石寺藤木坊に仮寓する。後に西山に移り法華堂(西山本門寺)を建立した。仙代問答(せんだいもんどう)とは、1334年(元弘4年(正慶3年))正月7日、上条大石寺上蓮坊にて、法華経の方便品を読むか読まないかについて応酬された、日代(読む)と本六・上蓮房日仙(読まない)の問答。重須の地頭石川実忠の提案により、大石寺第4世日道が裁定し収拾された(『大石記』)。その勝敗については、次節以降のとおり、複数説がある。先ず日仙が、迹門である方便品を読むということは本迹勝劣義に反するから、読んではいけない、と言う。それに対し日代は、宗祖日蓮の遺文を引用し、先師の「方便品を読むべし」の教えに反しているのに、読まないとなぜ言うのだ、と反駁する。これを聞き日仙は、それでは方便品に成仏の道が示されているのか、と返す。日代は、与・奪・破の三義に分け、浅い「与」では利益を得られるが、より深い「奪」・「破」では利益は得られない、と答える。この答えに対し日仙は、利益が得られないのならば読んでも意味がない、と問う。その時日代は、意味がないということは、日蓮や日興が我々に読ませて下さったのは誤りか・『大覚抄』にあるお言葉は誤りか、と責める。これに日仙閉口した。(日満記『方便品読不之問答記録』)日仙は、方便品は迹門であるから読まない、とする。日代は、日興以外の六老僧の主張と同じく、本門と迹門に差異はないから迹門で利益が得られるから読むべき、とした。これに対して日仙は、迹門・方便品は一切読まないという考え方は、門流から離反した人の考え方と同じであると断じたが、当日の問答は日仙が勝った。(日叡記『日仙日代問答記録』)『方便品読不之問答記録』『日仙日代問答記録』への指摘は次のとおり。後世の評価は、次のとおり。仙代問答の後、日代は重須を去ることとなるが、その理由は、以下のように諸説ある。
出典:wikipedia
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