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パルチザン (ユーゴスラビア)

ユーゴスラビアのパルティザン()は、正式名称をユーゴスラビア人民解放軍およびパルチザン部隊(スロベニア語:、セルビア・クロアチア語:、マケドニア語:、略称:)といい、第二次世界大戦時のユーゴスラビアにおける、枢軸国の支配に抵抗した共産主義者主体の勢力である。パルティザンは、ユーゴスラビア共産党率いる人民解放戦線の軍であり、その最高意思決定機関はユーゴスラビア人民解放反ファシスト会議(AVNOJ)であり、ヨシップ・ブロズ・ティトーを最高指導者とする。パルティザンはユーゴスラビアにおける共産主義国家の樹立を目指しており、ユーゴスラビア共産党はユーゴスラビアに住む全ての民族の権利を擁護し、全ての民族に対して支持を訴えた。パルティザンよりも数週間早く設立された、もう一つの反枢軸の抵抗組織にチェトニクがあったが、チェトニクはカラジョルジェヴィチ家による王政の維持と、セルビア人の保護を目的としており、チェトニクが正当で歴史的なセルビア人の土地と考える地域における他民族に対する民族浄化を通じて大セルビアを確立することを目指していた。パルティザンとチェトニクの関係は当初より険悪であったが、1941年10月以降は全面的な衝突へと発展した。ティトーの汎民族主義は、チェトニクのセルビア人民族主義に反するものであり、チェトニクの王党主義は共産主義者のパルティザンには受け入られるものではなかった。彼らは一般に「パルティザン」あるいは「パルチザン」と呼ばれており、この名前からはゲリラ勢力が想起されるが、彼らのゲリラ的な性質は最初の3年間でのことであった。1944年の終わりごろには、パルティザンの兵士の数は65万人におよび、4つの方面軍、52の師団を持つ軍隊組織となっていた。1945年4月にはパルティザンの兵士は80万人を数えるようになり、この時代のパルティザンは「人民解放軍」と呼ばれることが多い。1941年4月6日、ユーゴスラビア王国は四方より枢軸勢力の侵略を受けた。侵攻にはナチス・ドイツのほかに、イタリア王国、ハンガリー王国、ブルガリア王国が加わった。この時、ドイツ空軍によるベオグラード空爆()が行われた。侵略は10日前後で完了し、4月17日にユーゴスラビア王国軍は無条件降伏した。ユーゴスラビア王国軍はドイツ国防軍と比べて装備が貧弱であったことに加え、あらゆる方面からいっせいに侵入する枢軸勢力と戦うにはあまりに規模が小さすぎた。枢軸国によるユーゴスラビア支配は極めて過酷なものであり、ユーゴスラビアは領土をばらばらに解体された。ドイツはスロベニアの主要部を併合し、また傀儡政権として設立されたセルビア救国政府の領域を占領するとともに、クロアチア独立国などの傀儡国家に対しても影響力を及ぼした。クロアチア独立国はこんにちのクロアチアとボスニア・ヘルツェゴビナ、さらにセルビアのスレム地方を領土とした。ベニート・ムッソリーニ率いるイタリア王国はスロベニアの南部、コソボ、そしてダルマチアの沿岸部およびアドリア海の島々を手に入れた。またイタリアは傀儡国家・モンテネグロ独立国を設置して支配下に置き、またイタリア王家はクロアチア独立国の王位を手に入れた。ハンガリー王国はバラニャや、バチュカなどのヴォイヴォディナの一部、クロアチアのメジムリェ地方、スロベニアのプレクムリェ地方を併合した。ブルガリア王国は、こんにちのマケドニア共和国に相当する地域の大部分、およびセルビア東部とコソボの一部を併合した。ユーゴスラビア王国の解体とクロアチア独立国、モンテネグロ独立国、セルビア救国政府といった傀儡政権の樹立、枢軸国による占領と併合は、当時の国際法にも反するものであった。枢軸勢力による地域住民に対する過酷な支配により、パルティザンは住民の広範な支持を得ただけでなく、住民が生き残るための唯一の選択肢であった場合も多い。占領初期には、ドイツ軍は女性や子ども、老人を含む一般市民への無差別殺戮を各所で展開し、ドイツ兵1人の死亡につきセルビアの市民100人、ドイツ兵1人の負傷につき市民50人を殺害するという異常な方針を取った。この他にも枢軸勢力やその協力者による蛮行はユーゴスラビア全土で繰り広げられた。クロアチア独立国の領土ではウスタシャやドイツ軍による民族浄化などの蛮行が盛んに行われた。ユーゴスラビア全土を取り巻くこうした無法状態の中、ユーゴスラビア共産党は反ファシズムの抵抗勢力を糾合し、全国的な抵抗運動へと組織化していった。ヨシップ・ブロズ・ティトー率いるユーゴスラビア共産党は戦間期のユーゴスラビア王国で非合法化され、それ以降は地下活動を続けていた。1941年6月22日のバルバロッサ作戦によって枢軸勢力はソビエト連邦への侵略を始めた。ユーゴスラビアで初の共産主義者による抵抗者の軍事組織であるシサク人民解放パルティザン部隊()は、ドイツがソビエト連邦に侵攻を始めた1941年6月22日に組織された。ティトーが率いる抵抗運動が初めて武装抵抗を始めたのは、この2週間後、セルビアでのことであった。ユーゴスラビア共産党は7月4日、武装抵抗をはじめることを正式に決定し、この日は後のユーゴスラビア社会主義連邦共和国において「戦士の日」として国民の祝日となった。7月7日、ジキツァ・ヨヴァノヴィッチ・シュパナツ()が最初の一発の銃弾を放って、武装抵抗は始まった。この日付は後のセルビア社会主義共和国における国民の祝日・「蜂起の日」となった。8月10日、山中の村スタヌロヴィッチ()にて、パルティザン軍はコパオニク・パルティザン分隊総司令部を設置した。パルティザンによって解放された、スタヌロヴィッチと周辺の村々から成る領域は、「鉱夫共和国」と呼ばれ、42日間維持された。この地域の反乱軍は後にパルティザンの本隊に合流した。ヨシフ・スターリンの誕生日にあたる1941年12月21日、ユーゴスラヴィア・パルティザンは第1プロレタリアート急襲旅団(, 1st Proletarian Assault Brigade)を組織した。この旅団は、拠点となる地域を超えて活動する能力を持つ、パルティザン初の常設の軍事組織である。1942年、パルティザンの各組織は公式に、ユーゴスラビア人民解放軍およびパルチザン部隊へと統合され、1942年12月の時点で23万6千人の兵士を擁するまでになった。パルティザンが枢軸勢力に対するゲリラ戦を始めた当初は、パルティザンの組織は小規模で、軍事訓練もされておらず、また装備も貧弱であった。しかし、ユーゴスラヴィア域内で活動する他の抵抗組織とくらべて、2つの点で優れていた。1つめに挙がるのは、パルティザンには少数ながらも無視できない数のスペイン内戦の経験者がおり、ユーゴスラヴィアの置かれている状況に似た環境での現代戦争の経験があったことである。2つめは、パルティザンは民族に基づかずイデオロギーに基づく集団であったため、多民族国家であるユーゴスラヴィアのすべての民族集団から一定数の支持を得ることができたという点である。これによってパルティザンはより多くの人々を対象に兵士を募集することができ、また域内での可動性を高めることができた。この利点は後になるにつれて大きくなっていった。これに対してユーゴスラヴィアを占領する枢軸勢力やその協力者らはパルティザンの存在を大きな脅威と捉え、7回に及ぶ対パルティザン攻勢などにより抵抗組織の破壊を試みた。これらの対パルティザン攻勢は、ドイツ国防軍や親衛隊(SS)、イタリア軍、ウスタシャ、チェトニク、ブルガリア軍などによって行われた。連合国は当初、ドラジャ・ミハイロヴィッチのチェトニクを支援していたが、後期にはパルティザンが形式的な支持や、一部の物資支援を受けるようになった。1942年には物資支援は限定的ではあったものの、チェトニクと並んでパルティザンは連合国の支援対象となった。第5次反パルチザン攻勢の頃、イギリスの情報機関による報告では、パルティザンがドイツ軍に対して勇敢によく戦っていること、多くの負傷者が出ていること、支援が必要であることが述べられ、またドイツ国防軍第1山岳師団()がチェトニク支配下の領域を通行してロシアから移動してきていることが述べられている。また、ドイツ軍の通信を傍受した結果から、チェトニクがドイツに攻撃できない臆病者であると確信したとしている。この報告は連合国によるユーゴスラヴィア支援の方針を転換させるものとなった。1943年9月、ウィンストン・チャーチルの指示により、パルティザンと接触を図るために、イギリスの准将サー・フィッツロイ・マクリーン()がドルヴァル川近くに司令部を構えるティトーの元にパラシュート降下した。この頃、チェトニクは依然、連合国の支援を受けていたが、これ以降パルティザンもまた連合国の支援を受けられるようになった。テヘラン会談以降、パルティザンは公式にユーゴスラヴィアにおける解放軍として認められ、イギリス空軍はパルティザンへの物資支援および戦術的な航空支援を目的としてバルカン空挺部隊()を設立した。1943年11月24日のフランクリン・ルーズベルトと連合参謀本部の会談で、チャーチルは以下の点に言及した連合国による航空支援や赤軍による支援もあり、ウジツェ共和国の失敗以降目立って戦闘のなかったセルビアでも、1944年の後半にはパルティザンが支持を集めるようになった。1944年10月20日にはパルティザンと赤軍の共同によるベオグラード攻勢()によって、ベオグラードが解放された。1945年にはパルティザンの総数は80万人強に達しており、激戦となったスレム戦線を制し、4月初旬にはサラエヴォを解放、クロアチア独立国軍やドイツ国防軍を駆逐し、5月中旬にはクロアチア独立国の残りの領域とスロヴェニアを解放した。戦前はイタリア領であったリエカおよびイストラ半島を確保し、連合軍よりも2日早くトリエステを占領した。第二次世界大戦のヨーロッパ最後の戦いであったポリャナの戦い()は、1945年5月14日から15日にかけてスロヴェニアのコロシュカ地方・プレヴァリェにて発生し、パルティザンは退却中のドイツ国防軍やその協力者勢力と戦った。パルティザンには陸軍の他に海軍、空軍もあり、これはヨーロッパの非占領地域におけるレジスタンス運動では他に類を見ないことであった。1942年9月19日にダルマティア沿岸部のパルティザンが漁船を改造して海軍を設立したのが始まりで、その後規模を拡大しイタリア海軍およびドイツ海軍に対する勇敢な攻撃を遂行してきた。最大時には9隻から10隻の武装船、30の巡視船、200ちかくの支援船、6の砲台、多数の島嶼部のパルティザン分隊と3千人の兵力を擁した。1943年10月26日に4つの海軍管区(Pomorsko Obalni Sektor、Maritime Coastal Sector)が設置され、後に6つに拡張された。海軍の使命は制海権の確保、沿岸および島嶼部の防衛、敵の海上交通の破壊と島嶼部・沿岸部の敵への攻撃であった。かつてユーゴスラビア王国軍に属していたクロアチア独立国空軍のパイロット、フラニョ・クルズ()およびルディ・チャヤヴェツ()が、複葉機ポテーズ 25およびブレゲー 19を伴ってボスニアでパルティザンに投降したことにより、パルティザンは1942年5月に空軍力を獲得した。2人のパイロットはその後、これらの爆撃機を使って枢軸勢力と戦った。空軍を運用するインフラストラクチャが十分ではなかったためにパルティザン空軍は短命に終わったものの、これは対独レジスタンスが空軍力を持った初めての出来事であった。。その後、枢軸勢力から鹵獲した航空機などによってパルティザン空軍は再建され、後のユーゴスラビア空軍となる。パルティザン運動への支持の広がりは、地域や民族ごとの人々の存亡の危機の度合いによって、温度差があった。パルティザンによる最初の反乱は、1941年6月22日にクロアチアの、シサクとザグレブの間にあるブレゾヴィツァ(Brezovica)の森にて、40人のパルティザン兵士によって起こされた。セルビアではこの2週間後にティトーの指揮による初の反乱が引き起こされたが、枢軸勢力によって速やかに鎮圧され、セルビアにおけるパルティザンへの支持は低下した。1943年に枢軸勢力に対する武装抵抗が拡大されるまで、セルビアではパルティザンへの支持は低迷を続けた。セルビアやその他の地域におけるパルティザンの勢力拡大は、1944年8月17日にティトーが枢軸勢力の協力者に対する恩赦を決めたことによるところもあり、多くのチェトニクの兵士などがパルティザンに転向した。ドイツ軍がベオグラードから撤退した1944年11月21日、および1945年1月15日にも枢軸協力者に対する恩赦が実施されている。枢軸の傀儡政権であるクロアチア独立国占領下におけるセルビア人に関しては、セルビアとは状況は大きく異なっていた。王党派でセルビア民族主義のチェトニクは、ウスタシャがセルビア人に対してとる蛮行と同様の行為を非セルビア人に対して繰り返しており、クロアチア独立国占領下のセルビア人の間ではそうしたチェトニクよりも多民族混成のパルティザンへの支持が優勢であり、彼らはチェトニク対してセルビア人どうしで衝突することとなった。同様にパルティザンを支持するクロアチア人はウスタシャに対してクロアチア人どうしでの衝突が起こった。アメリカ合衆国ホロコースト記念博物館百科事典には、パルティザンの多民族性について以下のように記されている:分断されたユーゴスラビアにおけるパルティザンの抵抗運動は、ドイツ占領下のスロヴェニアではスロヴェニアによる小規模な破壊工作が主であった。セルビアではかつてユーゴスラビア王国軍の大佐であったドラジャ・ミハイロヴィッチ率いるチェトニク運動が広がった。しかし1941年6月の壊滅的な蜂起失敗のあと、チェトニクは枢軸勢力との衝突を避けるようになった。共産主義者が支配するパルティザンはヨシップ・ティトーが指揮する多民族の抵抗勢力であり、セルビア人、クロアチア人、ボシュニャク人(セルビア・クロアチア語を話すムスリム)、ユダヤ人、スロヴェニア人などによって構成されている。主にボスニア北部やセルビア北西部を拠点とし、ティトー率いるパルティザンは、最も継続的にドイツ軍やイタリア軍と戦い、1945年にドイツ軍をユーゴスラビアから駆逐する際に主要な役割を果たした。ティトーによると、1944年5月時点のパルティザンの民族別の内訳は、セルビア人が44%、クロアチア人が30%、スロヴェニア人が10%、モンテネグロ人が5%、ボシュニャク人が2.5%であった。1945年4月の時点で、パルティザンの兵力は80万人程度に及んでいた。1941年から1944年にかけての兵力の推移は以下のとおりである:パルティザンはユーゴスラヴィアの全ての人民による人民戦線を掲げ、共産主義を標榜する組織であった。例えばボスニアにおいては、パルティザンはセルビア人でもクロアチア人でもムスリムでもなく、すべての人々の平等のための自由と兄弟愛を訴えかけた。しかしなお、ユーゴスラヴィア・パルティザンにおいてセルビア人は最大の民族別比率を占めていた。他方で、ユーゴスラヴィアにおけるもうひとつの反独抵抗組織であったチェトニクは、セルビア人を主体とするセルビア人民族主義の組織であり、セルビア人以外への訴求力はなかった。チェトニクはボスニア東部においてムスリムに対する民族浄化作戦を行っており、ムスリムやクロアチア人の加入を排除した。また、ダルマティア北部では、ダルマティアを支配し同地に対する領土的野心を持っていたイタリアがチェトニクと協力したことがあり、これによってパルティザンを支持する多数のクロアチア人が殺害される蛮行が引き起こされた。一例として、スプリト近郊のガラ(Gala)をチェトニクが襲撃した際には、200人の市民が殺害された。ベニート・ムッソリーニによるダルマティアの強制的なイタリア化政策が取られた1941年後期には、クロアチア人パルティザンの数が大幅に増加している。この他の地域では、パルティザンを純粋にセルビア人のみの組織と考える一部のセルビア人パルティザンによって、クロアチア人などの加入が排除され、またクロアチア人の村が襲撃されることがあった。サラエヴォのユダヤ人の青年らがカリノヴニク(Kalinovnik)のパルティザン分隊に加入しようとした際、セルビア人パルティザンらがこれを排除して青年らをサラエヴォに差し戻し、その後彼らの多くが枢軸勢力に捕らえられ殺害された。クロアチア人ファシスト組織であるウスタシャによるセルビア人への蛮行は、セルビア人をゲリラ戦へと向わせる強い動機となり、多くのセルビア人がパルティザン兵士となった。連合国の勝利が明らかになった時には、ユーゴスラヴィアの非セルビア人の住民らは、セルビア人民族主義を志向するユーゴスラビア王国の王党派よりも、パルティザンのほうがより良い未来をもたらすもの考えていた。1942年初期までは、ボスニア・ヘルツェゴヴィナのパルティザンの大部分はセルビア人のみであり、チェトニクとも協力関係にあった。ヘルツェゴヴィナ東部およびボスニア西部のパルティザンの一部はボシュニャク人(ムスリム人)の加入を拒否していた。ボスニアのムスリムたちにとって、こうしたパルティザンの言動はチェトニクのそれと大きく変わらないと映っていた。しかし、ボスニア・ヘルツェゴヴィナの一部の地域では初期の段階からクロアチア人やムスリムがパルティザンに加わっており、ボスニア北西部のコザラ山()やサラエヴォ近くのロマニヤ地方ではこうした傾向が見られた。コザラでは、1941年末の時点で兵士の25%がクロアチア人やボシュニャク人であった。1943年後期の時点で、ボスニア・ヘルツェゴヴィナのパルティザンの70%はセルビア人、30%がクロアチア人およびボシュニャク人であった戦争の期間全体を通してのボスニア・ヘルツェゴヴィナのパルティザンのうち、64.1&はセルビア人、23%はボシュニャク人、8.8%はクロアチア人であった。1941年および1942年において、クロアチアのパルティザンの主流を占めているのはセルビア人であったが、1943年10月の時点ではクロアチア人が多数派となっている。クロアチア農民党()のボジダル・マゴヴェツ()が1943年6月にパルティザンに加入したことも、およびイタリアが降伏したこともこの一因と考えられる。クロアチアにおいて、パルティザン運動はクロアチア社会の主流にまで食い込み、1943年の時点でクロアチア出身のパルティザンの多数をクロアチア人が占めるようになった。1944年後期の統計によると、クロアチア出身のパルティザン兵士の61%はクロアチア人、28%はセルビア人であり、クロアチアの民族別人口比率に比べるとセルビア人の割合が多いものの、クロアチア人が多数を占めていたことがわかる。枢軸勢力への協力を止めてパルティザンに加われば敵通の罪を免除するとする恩赦が1944年9月15日に発令され、これによってクロアチア人のパルティザン参加が拡大した。1941年末の時点でクロアチアのパルティザンの77%はセルビア人、21.5%はクロアチア人やその他の民族であった。クロアチアのパルティザンにおけるクロアチア人の比率は1942年8月には32%、1943年9月には34%にまで上昇した。イタリアの降伏後にはクロアチア人の兵士数は急増し、1944年末には60.4%がクロアチア人、セルビア人が28.6%、ボシュニャク人が2.8、その他が8.2%となった1941年から1945年の全体を通して、クロアチアのパルティザンの61%はクロアチア人であり、その他にはスロヴェニア人、ボシュニャク人、モンテネグロ人、イタリア人、ハンガリー人、チェコ人、ユダヤ人、ドイツ人などがいた。クロアチアのパルティザンはユーゴスラヴィアのパルティザン全体の中で重要な比率を占めていた。クロアチアの人口はユーゴスラヴィア全体の24%であったが、クロアチア出身のパルティザン兵士の数はセルビア、モンテネグロ、スロヴェニア、マケドニア(4地域合計でユーゴスラヴィアの人口の59%に達する)の出身者よりも数が多かった。また、クロアチアのパルティザンの特色としてユダヤ人の比率が高かったことが挙げられる。彼らは1943年初期の時点で、枢軸勢力に対抗するクロアチア全体の最高意思決定機関としてクロアチア人民解放国家反ファシスト委員会(ZAVNOH)を設立した。これは、ヨーロッパにおける反枢軸レジスタンスの中で初めてのことであった。ZAVNOHの最後の会合は1945年7月24日-25日にザグレブで行われ、この会合にて自身をクロアチア議会へと改組することが決議された。初期のころは、スロヴェニアにおけるパルティザンの勢力は小さなもので、インフラストラクチャを持たず、装備も貧弱であったが、ゲリラ戦の経験を有するスペイン内戦の経験者が含まれていた。スロヴェニアにおけるパルティザンは、スロベニア人民解放戦線()の軍事部門に位置づけられており、スロベニア人民解放戦線は1941年4月26日にイタリア占領下の領域(リュビアナ州、)で設立され、当初は複数の左翼系組織が合同したものであった。戦時中、次第にスロヴェニア共産党の影響力が強まり、1943年3月1日のドロミティ宣言()により共産党の指導性が公式化された。人民解放戦線のメンバーの一部はTIGR()の出身であった。スロヴェニア人民解放戦線に加わる全ての政治組織の代表者は人民解放戦線最高総会に参加し、スロヴェニアにおける抵抗運動を指導した。最高総会は1943年10月3日、コチェーヴィエにて120人から成る人民解放会議のメンバーを選出した(コチェーヴィエ総会)。最高総会はスロヴェニアの反ファシスト勢力の最高意思決定機関として機能し、その代表者はユーゴスラビア人民解放反ファシスト会議の第2回会合にも出席し、ユーゴスラビアを連邦制としスロヴェニアをその構成国と位置づけられた。1944年2月19日のチュルノメリでの会合時に、最高総会はスロベニア人民解放委員会へと改組され、その後スロヴェニア国の議会へと改組された。スロヴェニアのパルティザンは独自の組織を持ち、その指揮にはスロベニア語が用いられた。1942年から1944年までの間、トリグラウカ()と呼ばれる帽子が使用されていたが、その後ティトヴカ()に置き換えられた。1945年3月、スロヴェニアのパルティザン部隊は正式にユーゴスラビア人民軍へと編入され、独自組織としての幕を閉じた。スロヴェニアのパルティザン運動は、ティトーに率いられたユーゴスラビア中南部のパルティザンとは別に、1941年に独自に始まったものである。1942年9月、ティトーは初めてスロヴェニアの抵抗運動への指導権獲得を試みた。1943年4月にティトーによりスロヴェニアに送り込まれたアルサ・ヨヴァノヴィッチは、スロヴェニアの抵抗運動の統制獲得を試みたが失敗に終わっている。スロヴェニアの抵抗運動のティトー・パルティザンへの統合は1944年に実現された。1943年12月、オーストリアからわずか数時間の場所に位置する困難な岩地のうえにフラニャ・パルティザン病院()を設置した。また、ラジオ・クリチャチュ()と呼ばれる秘密のラジオ局を設置し、放送を発信していた。パルティザンは最終的な勝利を収めたものの、多くの死傷者を出してきている。1941年7月7日から1945年5月16日までのパルティザンの死傷者数は以下のとおりである:パルティザンは、地域に墜落した連合軍兵士の救出でも多数の実績をあげている。例えば、1944年1月1日から10月15日までの間に、アメリカ合衆国空軍士官救出隊(US Air Force Air Crew Rescue Unit)の取りまとめによると、1152人のアメリカ兵士がユーゴスラビアから救出されており、うち795人がパルティザン、356人がチェトニクによるものであった。スロヴェニアのパルティザンは303人のアメリカ兵士、389人のイギリス兵士および捕虜、120人のフランスその他の捕虜や強制労働服務者を救出している。パルティザンはまたドイツの捕虜収容所からの連合軍兵士の脱出の支援もしていた(主にオーストリア南部の収容所からの脱出者を支援した)。脱出に成功した兵士の大部分はスロヴェニアを縦断してセミチから空輸にて救出され、また一部は更にクロアチアを経由してイタリアのバーリへと海路で救出された。1944年春、スロヴェニアに送られたイギリス軍の使節は、捕虜収容所からの脱出が「ゆっくり、漏れ出すように」続いていたことを報告している。兵士らは地元の市民の協力の下、ドラーヴァ川にてパルティザンと接触し、ユーゴスラヴィア脱出までパルティザンの保護を受けられた。1944年8月に行われたパルティザンによる軍事作戦では、132人の連合軍の兵士が一挙に救出され、この事件はオジュバルト襲撃()と呼ばれる。1944年6月、連合軍はオーストリア南部の収容所からユーゴスラヴィアを経て脱出する連合軍兵士への支援に乗り出した。連合軍はスロヴェニア北部、マリボルの北50キロメートルほどの、オーストリアのすぐ南に位置するオジュバルト()に監視哨を設置した。この近くにはドイツが設置した労働収容所があり、スロヴェニア・パルティザンはここを襲撃して全ての囚人を解放した。100人を超える戦争捕虜たちは、マリボルのスタラクXVIII-D()の管理下に置かれ、毎日鉄道修復の作業をし、夜に収容所に戻る生活をしていた。パルティザンはこの捕虜と接触し、8月30日の15時に監視の目をかいくぐって7人の捕虜が脱出に成功し、21時には国境よりスロヴェニア側に8キロメートルのところにある村でパルティザンから脱出を祝福されていた。7人の脱走捕虜はパルティザンと共に残された捕虜たちの解放を計画した。31日の朝、7人は100人程度のパルティザンとともに、労働のために捕虜を運ぶ列車の到着を待った。捕虜たちの労働が始まるとパルティザンは襲撃を開始し、監視しているドイツ人らを無力化し、捕虜たちはパルティザンの保護の下脱走に成功した。捕虜たちはパルティザンの司令部のキャンプに到着すると、132人の囚人が脱出に成功した旨をイギリスに伝達した。ドイツ軍のパトロールは重厚で、脱出経路の確保は困難を極め、パトロール中のドイツ軍の夜襲によって2人の脱走捕虜と2人の護衛が死亡する事態も起こった。最終的に脱走捕虜はベラ・クライナ地方のセミチにあるパルティザンの空軍基地に到達し、1944年9月21日にイタリアのバーリに帰還した。ユーゴスラヴィアは、第二次世界大戦において自力で自国を解放した数少ない国のひとつであった。ベオグラード攻勢()を始めとするセルビアの解放では赤軍の支援を受け、また1944年中期以降はイギリスを中心とするバルカン航空部隊からの継続的な航空支援を受けていたが、支援は限定的であった。終戦の時点において、ユーゴスラヴィアの域内には外国の軍隊はいなかった。こうした事実は、その後の冷戦期においてユーゴスラヴィアが東西陣営から一定の距離を保って自立することができた一因である。1947年から48年にかけて、ソビエト連邦はユーゴスラヴィアへの指導権の確保を試みたが失敗し、ティトー=スターリン決別()を招いた。ユーゴスラヴィアとソビエト連邦の関係が悪化したこの時期に、アメリカおよびイギリスはユーゴスラヴィアの北大西洋条約機構を検討したが、1953年のトリエステ危機によって西側諸国とユーゴスラヴィアの関係が悪化し(トリエステ自由地域)、また1956年にソビエト連邦との関係回復が図られたため、西側諸国入りすることもなかった。その後ユーゴスラヴィアは崩壊時まで非同盟外交路線を堅持した。終戦直後の時期、一部地域の住民やパルティザン兵士による枢軸勢力の同調者、協力者、ファシストに対する報復行為が発生した。その顕著な例がブライブルク虐殺()、フォイベの虐殺()、バチュカ虐殺()などであった。ブライブルクの虐殺では、西側諸国に降伏するためにオーストリア南部に向かったチェトニクやスロヴェニア人のドモブランツィ()、クロアチア独立国軍の兵士に対して報復行為が行われた。フォイベの虐殺とは、パルティザンの第8ダルマティア軍団やファシストに憤る市民らによって、イタリア人ファシストやその協力者、同調者、分離主義者と目された人々が殺害され、フォイベ()と呼ばれる洞穴に投げ込まれた事件である。それまでイストラ半島は長くイタリアの統治下に置かれ、非イタリア人は抑圧下に置かれていた。1993年に発足したイタリア人とスロヴェニア人の混成の歴史家委員会はイタリア領およびスロヴェニア領で発生した事件を調査した。それによると、虐殺の対象は、各個人の責任よりも立場上のファシズムとの近さに基づいたもので、共産主義政府にとって真に有害な者のみならず、その疑いのある者や潜在的な可能性を持つ者を一掃することに重点を置いたものであったとしている。バチュカの虐殺は、ハンガリー人のファシストや協力者、その疑いのあるものを対象とした同種の虐殺である。また、各地のパルティザンの命令系統の整合性にも問題があった。例えば、スロヴェニア・アイドフシュチナのパルティザンは退却中のドイツ軍との間でこれ以上の戦闘をしないことを合意し、ドイツ軍は武装解除した。しかし、その後ユーゴスラヴィアの別の地域から来たパルティザン部隊が、非武装化されたドイツ軍を銃殺した。しかし、ドイツ人やイタリア人、ファシスト協力者らに対するこうした報復殺害の数は、最大限に多く見積もっても枢軸勢力による死者数よりははるかに少ないものであった。ドイツやイタリア、ウスタシャやチェトニクなどと異なり、パルティザンはジェノサイドの戦略を持たず、全てのユーゴスラヴィアの諸民族の「兄弟愛と統一」を基本原則に掲げていた。枢軸勢力による占領の期間中、軍人・民間人あわせて90万人から150万人がファシストの犠牲となっている。このパルティザンの暗黒史は、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国では1980年代末期までタブーであり、公的機関がパルティザンの犯罪行為に対して沈黙を貫いたことにより、民族主義者らがプロパガンダ目的で好き勝手に数字を誇張できる状態になってしまった。初期のパルティザンの装備の一部は、敗退したユーゴスラビア王国軍()のものが使用された。パルティザンは戦闘中、手に入るあらゆる武器を使用して戦った。それらは主にドイツ軍、イタリア軍、クロアチア独立国軍、ウスタシャ、チェトニクから鹵獲したものであり、Kar98k、MP40、MG34、カルカノ銃、カービン、ベレッタ機関銃などであった。後期にはイギリスやソビエト連邦からの供給を受け、PPSh-41やステンMKIIなどが投入された。これに加えて、パルティザンは既存の軍需工場を活用して自ら武器を製造しており、製造された武器は「パルティザン・ライフル」、「パルティザン対戦車迫撃砲」などと呼ばれた。パルティザンはユーゴスラビア社会主義連邦共和国の芸術家、作家などにとって重要なテーマとして取り上げられた。パルティザンはユーゴスラヴィアの文化に大きな影響をもたらしており、彼らの戦いは、本人たちの回顧録を通じて鮮明に記録され、後にユレ・カシュテラン()、ヨジャ・ホルヴァト()、オスカル・ダヴィチョ()、アントニイェ・イサコヴィッチ)()、ブランコ・チョピッチ()、イヴァン・ゴラン・コヴァチェヴィッチ()、カレル・デストヴニク・カユフ()、ミハイロ・ラリッチ()、エドヴァルド・コツベク()、トネ・スヴェティナ()、ヴィトミル・ズパン()を始めとして、多くの文学作品に取り上げられた。ヴラディミル・デディイェル()によると、パルティザンに感化された民俗詩は4万を超える。パルティザンの戦いを描いた漫画作品も多く、クロアチア人作家のユリオ・ラディロヴィッチ()の作品や、『ミルコとスラヴコ』()シリーズなどが知られる。日本の漫画家・坂口尚の作品『石の花』は、大戦期のスロヴェニアのパルティザンを描いた作品である。また、共産主義ではあったがソ連と一線を画していたパルティザンは、西側でも、「反ナチス・反ソ連」のヒーローとして扱われ、アメリカの西部劇や日本の時代劇同様に、パルティザン映画()と呼ばれる1ジャンルを形成している。『ネレトバの戦い』は、1943年の第4次反パルチザン攻勢(ネレトヴァの戦い)に基づいた作品である。『ナヴァロンの嵐』は、イギリスやアメリカの軍が、闘争を続けるパルティザンを支援するためにユーゴスラヴィアに入る物語である。パルティザンを支援する外国人についてはイーヴリン・ウォーの1961年の小説『Unconditional Surrender』にも記されている。ウォーは大戦末期にユーゴスラヴィアで活動していた。パルティザンの活躍を表現した記念碑は数多く立てられ、その多くが社会主義リアリズムの様式をとっていた。1990年のユーゴスラビア崩壊以降、多数のこうした記念碑が新しく独立した国々や民間人の手によって破壊された。エミール・クストリッツァ監督の映画『アンダーグラウンド』は、第二次世界大戦におけるパルティザンの戦いから、1990年代のユーゴスラビア紛争までのユーゴスラビアの激変の歴史を舞台としている。

出典:wikipedia

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