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BT戦車

BT戦車(ベーテーせんしゃ、ロシア語:'、略称:')は、第二次世界大戦前にソ連が開発した一連の戦車である。「BT」とはロシア語で「素早い戦車」を意味する「」の頭文字をとったもので、「快速戦車」などと訳される。赤軍では「BT」の愛称形「ベテーシュカ」()または「ベートゥシュカ」()、卑称形「ベートカ」()で呼んだ。ドイツ軍は、二枚のハッチを開いた1937年型以降の砲塔の見た目から「ミッキーマウス」と渾名した。BTの設計はアメリカ人ジョン・W・クリスティーが開発したM1928、およびM1940という戦車に由来する。これはM1928の砲塔の無いデモンストレーション用で、1930年代初めの開発にもかかわらず、先進性を主張した形式番号であった。クリスティーはアメリカで様々な戦車を開発していたが、彼の独創的なアイデアは保守的な軍幹部の興味を惹くことができず、またクリスティーの発明家にありがちな尊大で気まぐれな性格のために売り込みの結果は芳しくなく、本国では少数の使用に止まったが、イギリス・ソ連では彼のアイデアを受け継ぐ巡航戦車・快速戦車が開発された。新たな戦車ドクトリンに基づいて高速戦車を求めていたソ連軍は、カニンガムT1軽戦車(32km/h)を購入するために、1928年10月に赤軍兵器本部機械化自動車化局のハレプスキー局長を極秘裏に渡米させた。彼はそこでクリスティー戦車(M1928で履帯装着時68.5km/h、装輪走行時111.4km/h)の存在を知り、カニンガムT1軽戦車に対する興味を失い、クリスティーとの粘り強い交渉の末、クリスティー戦車の購入に至った。開発はウクライナ・ソヴィエト社会主義共和国のハリコフで行われた。輸入した2輌の「M1940」あるいは「M1930」を使って1931年3月から試験を開始し、その結果をもとに各部を強化するなどして、最初の量産型BT-2を開発した。BT-2の原型よりの改良ポイントとしては、砲塔の新設、車体前部形状の変更、操縦士ハッチの変更、アルミ合金製の転輪をスポーク型の鋳造製、また後にプレス鋼板製に変更、途中から前部フェンダーの増設などである。BT-2の成功に気を良くしたソ連陸軍はその後BT-2を改良したBT-3、双砲塔型のBT-4といった試作型を経て、砲塔を大型化したBT-5、その改良型であるBT-7を生産した。各型を総計した生産台数は7000輌を上回る。BT戦車で確立されたソ連軍中戦車の設計思想は、その後A-32試作戦車を経て改良型のA-34の開発に活かされ、傑作戦車T-34を生み出す基となる。BTはスペイン内戦、張鼓峰事件、ノモンハン事件、ポーランド侵攻、冬戦争(第1次ソ連=フィンランド戦争)等で使われた。高い機動力と当時としては強力な備砲はソ連戦車の特徴とも言え、各戦域で活躍したが、投入されたBT-5、BT-7共に装甲の貧弱さが問題点で、対戦車砲や火炎瓶に悩まされた。ソ連軍では第二次世界大戦開戦時にも多数が在籍しており、1941年に始まった独ソ戦でも戦ったが、開戦時の指揮系統の混乱、機甲戦術の未熟さ等の運用面での問題もあって緒戦で大損害を受け、急速に消耗しT-34に取って代わられていった。戦争中期には完全に陳腐化しており、初戦を生き延びたBTシリーズは皆後方部隊にまわされることになった。戦争正面である対独戦方面以外での機甲部隊の装備としては戦争を通じて装備され続けており、後方での訓練用にも用いられていた。1945年になってもザバイカル軍管区に残っていたものが満州侵攻に使われている。この際には日本軍が組織的な抵抗を殆ど行わなかったこともあり、快速性を活かして活躍した。ドイツ軍は独ソ戦の初頭、1941年に大量のBT戦車を鹵獲し、ラトビアのリガに設けた兵器廠で修理・整備の後Panzerkampfwagen BT 742(r)の名称を与えた。しかし、鹵獲車両の大半が戦闘時の損傷もしくは製造段階からの不具合を抱えたものであったため、実用車両としてドイツ軍の基準を満たすレベルに再生されたものは大した数がなく、実際には鹵獲両数に比べ少数が配備されたのみである。BT742(r)はドイツ国防軍の捕獲戦車部隊、および親衛隊の秩序警察(Ordnungspolizei:通称“オルポ”)の重装備部隊に配備されたが、実際に運用した将兵には「工業製品としての品質が低い」「多数の問題点があり戦車としての性能が低い」と不評であった。秩序警察では東部戦線後方でのパルチザン掃討任務に少なくとも1944年まではBT742(r)を使用している。フィンランドでは1939年から1944年にかけてのソ芬戦争(冬戦争・継続戦争)において多数のBTシリーズ(その大半はBT-7であった)を鹵獲し、T-26と共にフィンランド軍戦車部隊の主力として使用した。1942年には鹵獲したBT-7を独自に改造した自走砲(突撃砲)が製作されている(後述の#ソビエト以外での派生型を参照)。BT戦車の構造は全体的に原型となったクリスティー戦車を踏襲している。M1928から採用された「クリスティー式懸架装置」は、大直径転輪とストロークの大きいコイルスプリングによるサスペンションの組み合わせで、これに航空機用の大馬力エンジンを用いることで高速走行を実現していた。装甲自体は薄かったが、代わりに車体前面は傾斜し、避弾経始を取り入れていた。エンジンには同じクリスティー戦車の子孫であるイギリスの巡航戦車同様、アメリカのリバティーエンジンの国産版であるV型12気筒M-5を搭載しているが、最初の100輌には間に合わず輸入したリバティーを使っている。初期にはクリスティー同様の単純な排気口や箱型マフラー(消音機)だったが、大型の円筒形マフラーに変更され、さらに単純な長い筒型排気管に改修されたものもある。エンジングリルの排気口は二枚の板が斜めに傾く単純な物で、当初クリスティー戦車同様にむき出しであったが、まもなく異物混入防止用の金網製カバーが装着された。これらは基本的に後のT-34まで踏襲された構造である。BT戦車の一番の特徴は履帯なしでも走行できることであった。この機能は戦場に到着するまでの移動集中には極めて有効であったが、履帯の取り外しと再装着に時間がかかるため、いったん戦場に到着してからの実際の戦闘場面ではこの機能が使われることはあまり無かった。ノモンハンでは履帯の挙げる騒音を避けて日本軍陣地に忍び寄るために装輪行動を行ったという記録もある。外国に公開された大規模演習でBTが存分に機動力を発揮する様を見たイギリス軍武官の報告は、以後のイギリスの巡航戦車の設計に影響を与えている。

出典:wikipedia

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