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深泥池

深泥池(みどろがいけ、みぞろがいけ)は、京都市北区上賀茂深泥池町および狭間町にある池および湿地である。深泥ケ池とも記す。周囲は約1540m、面積は約9.2haで、池の中央に浮島が存在する。この深泥池に流入する河川はないが松ヶ崎浄水場の配水池より若干の漏水が流入している。周囲は標高200mを下回る小高い山々に囲まれており、南西端のみが開けて低地に面している。その形態から、およそ1万年前までに、池の南西部にできた開析谷(かいせきこく)の出口が、鴨川(賀茂川)の扇状地堆積物(砕屑物)によって塞き止められ、自然堤防の原型が造り上がって、深泥池の形状を保ってきたと考えられている。また、この時期の最終氷期の地層から、地質調査によってミツガシワの花粉が確認された。なお、この場所には人工の堤防が築かれている。『愛宕郡村志』によれば「古代に於いて用水の為に造築」されたといい、6世紀前後に上述の自然堤防に人工堤防が増築されたものとされる。平安時代前期、菅原道真によって編纂された『類聚国史』の中に、「(淳和天皇が)天長六年(829年)十月十日、泥濘池に幸(みゆき)し、水鳥を羅(あみ)で猟(かり)す」とある。この「泥濘池」(泥が滞った池)が深泥池を指すものとされる。中期から後期にかけては、『和泉式部続集』に「名を聞けば 影だに見えじ みどろ池」、『小右記』に「美度呂池」、『親長卿記』に「美曽呂池」とそれぞれ記されている。平安時代末期に編まれた歌謡集『梁塵秘抄』には、「いづれか貴船へ参る道、賀茂川箕里(みのさと)御菩薩池(みどろいけ)、御菩薩坂」とある。この時期から、深泥池は「京の六地蔵巡り」の一か所となり、地蔵信仰の霊地としてあがめられてきた。室町時代後期の上杉家本『洛中洛外図』には「みそろいけ」の西側湖畔に「美曽呂関所」と、その横に「ぢさうたう」(地蔵堂)が描かれている。江戸時代に編まれた書物『洛陽名所集』(1658年)、『扶桑京華志』(1665年)、『京羽二重』(1685年、振り仮名「みぞろいけ」)、『山州名跡志』(1711年、振り仮名「みどろいけ」「御ゾロ池」)など多くの資料中で、引き続き深泥池を「御菩薩池」と記しており、近世までの一般的な表記であったものと推察できる。上述の『扶桑京華志』には「御菩薩池、一に深泥池又御泥池と作る」とあり、「深泥池」という名称自体は江戸時代に存在していたと考えられる。池周辺の地は賀茂別雷神社(上賀茂神社)の所領であったため、「御菩薩池」の名のもとになった地蔵菩薩は、明治時代の神仏分離令で上善寺に移された。この時期を境に現在の「深泥池」という名称が一般化した。「深泥池」の読みは、「みどろ(が)いけ」「みぞろ(が)いけ」の二通りが存在し、特段の統一がなされていない。京都市のサイトでは「みぞろがいけ」、京都市交通局の市バス停留所名称では「みどろがいけ」と表記する一方で、京都府のサイトでは両方の読み方を併記している。歴史的にも上述の通り、それぞれの振り仮名が使われ、混用されていた。『類聚国史』書中の「泥濘」について、観智院本『類聚名義抄』によると、古訓は「ミソコル」とされる。ミソは「溝」、一般的に人工水路を意味するが、もとは山中から谷に出てくる自然の流れのことを示した。コルは滞る意味の「凝」である。時代を経ていつしか水流が滞り、池の水が泥になった。『大日本地名辞書』(吉田東伍著、冨山房書店)には「御泥池 真泥(みどろ)の義也」と記されている。この「泥」(どろ)自体に着目するか、池古来の水流「溝」(みぞ)に着目するかの違いがもとで、両方の読みが残ったと考えられる。ちなみに、文化庁に登録されている名称は「みどろがいけ」であり、付近の地名「上賀茂深泥池町」「松ケ崎深泥池端」も、「かみがもみどろいけちょう」「まつがさきみどろいけばた」と読む。一方、『京童』(1658年)、『都名所車』(1714年)、『京城勝覧』(1718年)、地蔵堂正面の御詠歌額からは、それぞれ「みぞろ池」と記されていることから、地元では「みぞろ(が)いけ」の読みで親しまれてきたことが分かる。氷河期からの生き残りとされる生物と、温暖地に生息する生物が共存しており、学術的にも貴重な池として著名である。1927年(昭和2年)6月14日に、植物群落が「深泥池水生植物群」として国の天然記念物に指定され、その後、1988年(昭和63年)に「深泥池生物群集」として生物群集全体に対象が広げられている。また、2002年(平成14年)に発刊された京都府レッドデータブックには「要継続保護」として掲載されている。深泥池の南側から水域を隔てた池の中央部分に、池全体の3分の1を占める浮島が存在する。この下には水の流れがあり、島が池に浮いていることが確認されている。この浮島は、標高が水面とほぼ等しいほか、窒素やリンなどの無機塩類がほとんど含まれない貧栄養性の湿原が広がる。ここでは有機物の分解が進まず、枯死した植物が堆積していくために、コケ類を始め多様な植物が生育する絶好の場となっている。浮島は夏になると浮かび上がり、冬には沈んで冠水する動きを見せる。この特徴により、多様な植物が生育している。ミツガシワやホロムイソウのような寒冷地に分布する植物や、ジュンサイのような各地に自生する植物、タヌキモ (en) やモウセンゴケのような食虫植物、オオミズゴケ、ハリミズゴケ、ヌマガヤ(学名:"Moliniopsis japonica")、イヌノハナゴケといった高層湿原(ミズゴケ湿原)の構成種が共存している。また、約60種に上るトンボを始め、フナ、ヨシノボリ、スジエビ、クサガメ、ニホンイシガメなどの池に生息する動物や、ヒドリガモやルリビタキを始めとした、晩冬期を中心に170種の野鳥の飛来が確認されている。1930年(昭和5年)には、日本で初めてミズグモが発見されるなど、希少動物にとっての数少ない生息地でもある。春になるとミツガシワの白い花が咲く中を、ニホンミツバチやハナアブ(ハナダカマガリモンハナアブ)が、花粉や密を食べながら送粉の役割を果たして飛び回る。5月には主に白色のカキツバタや赤色のトキソウが、秋には青色のサワギキョウが咲き競う。また、池の集水域となる周辺の山々には、コナラ、アベマキなどの落葉樹、アカマツなどの常緑樹による林が形成されている。ナガバオモダカ(学名:"Sagittaria graminea" )、キショウブなどの植物や、ブルーギル、オオクチバス、カムルチー、アカミミガメ、カダヤシなどの外来種が問題視されている。これらは繁殖力が強く、生態系に悪影響を与えているとされ、メダカやタモロコなど、いくつかの在来種が食物網(特に捕食-被食関係)の変化によって姿を消している。また、北大路魯山人が「京の洛北深泥池の産が飛切りである。これは特別な優品」と評したジュンサイは、初夏から秋にかけて暗紅紫色の花を咲かせる。かつて、深泥池の水質悪化、外来種植物の繁殖が影響したほか、ルアーフィッシングの妨げになると刈り取られたことから、ほとんど見られなくなった時期もあった。このため、地元住民や研究者らが、定期的に在来種の調査や外来種の駆除を行うなど、生物群集の生育に適した水質改善に取り組んでいる。観賞用の水草として知られる外来種の食虫植物オオバナイトタヌキモが、2000年ごろに浮島の一部で確認され、その後急速に生息域を拡大させている。人の手で池に持ち込まれた可能性が高く、2012年(平成24年)夏には池の水面を10センチの厚さで覆いつくすほどにまで繁殖した。後述の「深泥池水生生物研究会」によって調査と駆除が試みられているが、まだ十分な効果は上がっていない。水草の水面増殖により日光が遮断されて水中まで届かず、酸素濃度の低下を招くことによる生態系への悪影響が懸念される。1985年(昭和60年)、左京区岩倉地域住民らにより、深泥池の北西側に沿って延びる市道岩倉上賀茂線の道路整備が望まれた。この請願申請が京都市議会へ提出されたことにより、1990年(平成2年)に池を埋立てて道路拡幅を行う計画が持ち出され、深泥池やその周囲の自然環境をどう保全するかの論議が湧きおこった。なお、1997年(平成9年)に京都市が地元の地権者から池を買い上げている。1965年(昭和40年)以来、地元住民を中心とする「深泥池を美しくする会」が環境保護に資する活動を続けている。1990年(平成2年)には、上述の道路拡幅計画を反対する立場から「深泥池を守る会」が、1998年(平成10年)には、外来種の調査捕獲や植生管理をする「深泥池水生生物研究会」(当初は「深泥池水生動物研究会」)が相次いで発足した。社会福祉法人京都博愛会・京都博愛会病院、訪問看護ステーションはくあい等保険医療機関施設が池畔に存在する。室町時代の説経節『小栗判官』に大蛇が棲むという話がある。タクシー乗客の女性が突然消えた事件が新聞で取り上げられたこともある。

出典:wikipedia

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