藤本 淳吾(ふじもと じゅんご、1984年3月24日 - )は、神奈川県大和市出身のプロサッカー選手。Jリーグ・ガンバ大阪所属。ポジションはミッドフィールダー。元日本代表。小学生の頃より地元の横浜マリノスプライマリーに入り、そのまま中学1年までマリノスの下部組織に所属。しかし中学2年に上がるときにメンバーに残ることができず、横浜栄FCを経て桐光学園高校に進学した。高校時代は、U-16、U-17日本代表に選出され、2001年U-17世界選手権(現U-17ワールドカップ)に出場。グループリーグ敗退も3戦全てに先発出場した。しかし、高校サッカー選手権には縁が無く、同じU-17日本代表だった阿部祐大朗のいる桐蔭学園に屈し続け、最後の冬も県大会決勝で敗れている(目立った成績は、高校3年時のインターハイベスト8ぐらいである)。各年代の日本代表には選ばれ続けたものの、チームとしてタイトルには縁遠かったこともあり、高校3年生の時に正式なオファーを貰ったのは当時J2の川崎フロンターレのみ。元サッカー選手の父親で日本鋼管で活躍した藤本貢壽から「現状ではプロに行っても長くプレーできないかもしれない」と言われたこと、また地元のJ1チーム・マリノス以外なら筑波大学進学と決めていたこともあって大学進学を決意。筑波大でも1年時よりレギュラーを獲得。1年時の第76回関東大学リーグでは2得点1アシスト。2年時の第77回関東大学リーグでは4得点5アシスト。第52回全日本大学サッカー選手権大会決勝では貴重な決勝点(筑波大1-0駒大)を挙げ、2連覇に貢献。大会ベストMFに。3年時の第78回関東大学リーグでは同大学を4年ぶり14回目の優勝に導き、自身も5得点7アシストでアシスト王とベストイレブンに輝いている。さらに4年時の第79回関東大学リーグでも12アシストでアシスト王とベストイレブンに輝く。これらの活躍から、大学在籍4年間を通して大学選抜に選ばれ続けた。筑波での同期には来栖由基、秋葉陽一、中野洋司、阿部翔平がいる。日本代表関連では、2005年6月の第33回トゥーロン国際大会参加のU-21日本代表メンバーに選ばれ、また8月のユニバーシアード・イズミル大会では背番号10番を背負い司令塔として日本を3連覇に導き、大会MVPと得点王(6得点)に輝いている。同年、清水エスパルスの特別指定選手としてナビスコカップに1試合出場。目覚しい活躍をみせた大学時には、高校時代とは打って変わって多くのJ1クラブが獲得候補選手リストに掲げ争奪戦を繰り広げたが、その中から藤本は清水エスパルスを選択。2006年に正式加入した。清水を選んだのは、特別指定選手として練習に参加した際、軽いプレーをした藤本に対して長谷川健太監督が「やる気がないなら帰れ」と叱責、このことからお客さん扱いではなく1人の戦力として見てくれていることに喜びを感じ清水でプレーしたいという気持ちがわいたためと語っている。プロ1年目でその前年に引退したミスター・エスパルスこと澤登正朗の後継者として指名され、ルーキーながら澤登のトレードマークでもあった背番号10を受け継いだ。シーズンの序盤はコンディション作りや怪我に悩まされ安定した活躍ができなかったが、シーズン終盤ポジションを右サイドハーフに移し視野を広げたことでプレーの幅が広がり爆発的な活躍をした。第31節、第32節では2試合でプロ入りして初のハットトリックを含む5得点1アシストを記録するなど、28試合出場8得点4アシストで1シーズン目を終えた。これらの活躍が評価され2006年シーズンのJリーグ新人王(奇しくも初代新人王は澤登)、第39回内閣総理大臣杯日本プロスポーツ大賞新人賞を受賞。2年目の2007年シーズンは日本代表候補に初選出され、自身の誕生日にフル代表デビューを果たす。また、Jリーグオールスターサッカーに東西両軍を合わせ最多得票を集めて選出され出場した。2008年7月22日大宮アルディージャ戦で相手タックルにより左足首を負傷。精密検査の結果、左足腓骨骨折および左足首内側靭帯損傷で全治3ヶ月の重症であることが判明、2008年シーズン残り試合の出場は絶望的となった(腓骨骨折を経験したサッカー選手には、田中達也、戸田光洋、稲本潤一、ルイス・フィーゴらがおり、いずれも復帰に半年から1年がかかっている)。翌2009年シーズンの2節で復帰。その影響もあって2009年は1得点にとどまった。2010年は小野伸二の加入に伴い、4-3-3の右フォワードに転向。自己最多の13得点を挙げ、初のJリーグベストイレブンに選出。日本代表にも復帰した。2011年より名古屋グランパスに移籍。背番号は8となった。アジアカップ決勝では、決勝トーナメントで負傷帰国したエース香川に代わり先発メンバーに抜擢されるが、試合の流れを引き込むには至らず、後半から交代している。ACLのアル・アイン戦で、フリーキックからグランパスでの公式戦初ゴールを決めた。リーグ戦では9得点を挙げるなど名古屋の優勝争いに貢献し、2年連続でベストイレブンに選出された。2012年2月24日のキリンチャレンジカップ・アイスランド戦で代表初得点を挙げた。同年10月20日、Jリーグ第29節サガン鳥栖戦で、Jリーグ通算200試合出場となった。2013シーズン終了後、名古屋から契約延長オファーを受けるも、2014年1月8日に名古屋からの退団が発表され同日に横浜F・マリノスへの移籍が発表された。背番号は同じくマリノスの下部組織出身にして桐光学園高校の先輩、さらには同じレフティの司令塔として尊敬する中村俊輔の背番号25を受け継いだ。2014年シーズンはレギュラーとしてリーグ戦26試合に出場したが、コンディション不良が続き常に負傷を抱えていたことで満足な結果を残せなかった。2015年は開幕当初こそ先発出場が多かったが、この年マリノスの監督に就任したエリク・モンバエルツのスピード重視の起用方針により、後半戦の先発出場は4試合に留まり2nd第9節以降のリーグ戦出場はわずか1分と出場機会が激減した。2016年、清水時代の監督だった長谷川健太が指揮を執るガンバ大阪から獲得オファーを受け、1月11日にガンバ大阪に完全移籍することが発表された。しかしいざ開幕するとベンチ入りも困難になり、J3のU-23チームでプレーすることもあった。278||51||42||8||27||6||347||65colspan="2"|-||colspan="2"|-||3||1||3||1278||51||42||8||30||7||350||66その他の公式戦|2011||rowspan=2|名古屋||rowspan=2|8||7||3!通算!!colspan="2"|AFC|2007||4||0!通算
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。