増田 忠俊(ますだ ただとし、1973年12月25日 - )は、静岡県庵原郡蒲原町(現 静岡市清水区蒲原)出身の元日本代表サッカー選手。ポジションはミッドフィールダー(MF)。PRISM所属。1992年に静岡学園高校から創立直後の鹿島アントラーズに加入。1994年からトップチームで出場するようになり、ドリブルや二列目からの飛び出し等、チャンスメーカーとして活躍。多くのタイトル獲得に貢献した。また1998年には日本代表に選出され、2月19日のオーストラリア戦で代表デビューを飾った。また3月4日のダイナスティカップの香港選抜戦に出場、前半40分に得点を決めている(相手が選抜チームのため、国際Aマッチ得点とは認められず)。しかし同年8月、Jリーグ1st第17節広島戦で右両下腿骨を複雑骨折。長期のリハビリを経て翌1999年9月に復帰した。2000年は開幕からコンディションを維持していたが、試合終盤に入ってからの途中出場ばかりで(小笠原満男との交代が多かった)持ち味を発揮する間が無かったことから、自身の向上のため移籍を決意。2000年6月よりFC東京へ期限付き移籍。シーズン途中、しかも自身初の移籍だったが、同じく鹿島から移籍加入した内藤就行の存在もあって早々とチームにフィット。負傷欠場した佐藤由紀彦に代わって右サイドハーフに配されると、的確なボール保持で中盤のアクセントとなり攻撃のリズムを変えるオプションとして貢献。右サイドバック内藤との好連携も見せた。大熊清監督からは、突破力では佐藤に劣るもののFWへのパスによるチャンスメイクで勝ると評価され、相手の出方や味方FWの調子を加味して使い分けられた。2001年に完全移籍加入したが、この年は佐藤が重用されたために出場機会を減らした。2002年、ジェフユナイテッド市原へ完全移籍。4年ぶりとなるリーグ戦複数得点を挙げた。2003年からは柏レイソルへ移籍加入。3シーズン奮戦を続けたが、チームは2005年にJ2降格を喫し同年限りで退団。2006年、大分トリニータに移籍。20歳頃から続いていたという腰痛に苦しめられる中でも試合に向けて念入りに調整し、チーム最年長選手としてサッカーへ取り組む姿勢を若手選手へ示した。同年11月20日に現役引退を表明。2007年3月からは、スーパーJチャンネルおおいたの「増田's EYE」で大分トリニータの試合分析を行う他、2009年9月までHOYO Atletico ELAN大分の監督を務めた。また、大分トリニータスクールコーチ、CSのサッカー中継(基本的に九州石油ドーム開催試合のみ)解説者などを務めている。2014年、自身が代表を務めるサッカースクール「M.S.S.」を発足。235||32||55||10||23||5||313||47235||32||55||10||23||5||313||47|-!通算
出典:wikipedia
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