李従珂(り じゅうか)は、五代後唐の第4代(最後)の皇帝。死後に諡号及び廟号は贈られなかったため、一般に末帝あるいは廃帝と呼ばれている。鎮州(現在の河北省正定県)に生まれる。本姓は王氏。10歳の時に母の魏氏と共に、後に明宗となる李嗣源に捕まり、程なく李嗣源の養子として李従珂と改名した。成長するとその姿は勇壮であり、戦いに対して勇猛であったことから義父の寵愛を受けた。明宗が即位すると、李従珂は河中節度使に任命されるが、枢密使である安思誨との権力抗争に敗れ、長興元年(930年)に軍務を解かれて、都である洛陽に居住するようになる。しかし長興2年(931年)に安思誨は失脚、李従珂は左衛大将軍として重用され、長興3年(932年)には鳳翔節度使に任命され、さらに長興4年(933年)には潞王に封じられた。同年に明宗が崩御し、その子李従厚(閔帝)が即位すると状況が一変する。応順元年(934年)、大臣の提案を受け入れた閔帝は、有力な節度使の権力を抑制し藩鎮を弱体化することを計画した。李従珂はこの政策に対し反対を示し、遂には兵を起こすに至った。この内乱に勝利した李従珂は、洛陽から逃げ出した閔帝を殺害した。閔帝を殺害した李従珂は洛陽入城後に皇帝に即位し、元号も清泰と改めた。当初は河東節度使で明宗の娘婿である石敬瑭と協力関係にあったが、末帝が即位したことで石敬瑭に猜疑心が生じるようになる。清泰3年(936年)に石敬瑭を天平節度使に左遷したことでこの反目は決定的になり、石敬瑭は遂に兵を挙げた。清泰3年閏11月26日(937年1月11日)、契丹の兵を引き入れた石敬瑭によって洛陽が包囲されると、進退窮まった末帝は焼身自殺した。
出典:wikipedia
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