藤原 斉信(ふじわら の ただのぶ)は、平安時代中期の公卿。太政大臣・藤原為光の次男。天元4年(981年)従五位下に叙爵し、永観2年(984年)従五位上・侍従に叙任される。右兵衛佐・近衛少将/中将を経て、正暦5年(994年)蔵人頭となる。斉信は蔵人頭としての職掌もあって中関白家出身の中宮・藤原定子のサロンに近しく出入りしていた様子がうかがえる。しかし、長徳元年(995年)4月の関白・藤原道隆の薨去を通じて、中関白家から距離を置いて藤原道長に接近したらしく、長徳2年(996年)に発生した長徳の変により、中関白家の藤原伊周・隆家兄弟が左遷された当日に、斉信は参議に任ぜられ公卿に列している。なお、左近衛中将を引き続き兼帯し、参議が近衛中将を兼ねる初例となった。参議任官時の年齢は30歳と、兄の誠信の25歳に比べてここまでの昇進は遅れたが、その後は長保元年(999年) 正四位下、長保2年(1000年)従三位と急速に昇進し、参議任官後4年余りで官位面で誠信に肩を並べる。長保3年(1001年)には藤原懐平・菅原輔正・藤原誠信の上位者3名を越えて権中納言に任ぜられる。この昇進に関して、誠信は自分が権中納言への昇任申請をするので、斉信に対して今回は辞退するように念押ししていたが、左大臣・藤原道長から誠信は昇任できそうもないことから昇任申請をするように勧められた斉信が結局申請して権中納言に任ぜられ、この経緯を知った誠信が憤死したとの逸話がある。また、斉信の能力が優れていたために、誠信を越えて昇進したともされる。斉信は藤原道長の腹心の一人として一条天皇の治世を支え、藤原公任・藤原行成・源俊賢とともに一条朝の四納言と称されが、中でも斉信はいわゆる属文の卿相として、藤原行成とともに公私に亘る詩会に熱心に参加した。同じく漢詩を好んだ藤原道長が開催した詩会の常連で、時には道長らと長時間作詩に没頭することもあったが、この道長に対する忠勤ぶりを藤原実資からは「親昵の卿相」「恪勤の上達部」などと呼ばれて痛烈に批判されている。権中納言昇進後も、中宮(権)大夫として道長の長女の中宮・藤原彰子に仕える一方で、寛弘元年(1004年)従二位、寛弘5年(1008年)正二位と順調に昇進し、寛弘6年(1009年)には権大納言に昇進。藤原公任を越えて、四納言の筆頭格となった。長和2年(1013年)道長の娘で三条天皇の中宮であった藤原妍子の御所として使用されていた東三条殿が焼亡したが、斉信は直ちに郁芳門殿を空けて、妍子が滞在するために提供。道長はこれに非常に感動したことを日記に書きとどめている。寛仁元年(1017年)道長が左大臣から太政大臣に昇進し、順送り人事で内大臣職が空席となるが、6名の(権)大納言の内で一番若い、道長嫡子の頼通が内大臣に昇進。斉信はここで初めて他者に官位を超えられる。寛仁4年(1020年)大納言に昇進し、太政官の第4位の席次を占める。治安元年(1021年)5月に左大臣・藤原顕光が没したことによる人事異動で、大臣の席が2つ空き、右大臣には上席の大納言・藤原実資が任ぜられるが、内大臣には20歳近く若い道長五男の権大納言・藤原教通が任ぜられ、斉信は再び道長の子息に昇進面で後塵を許すことになった。同年10月に斉信は娘を道長六男の藤原長家の室に望む。長家は前年に室(藤原行成の娘)を亡くしたばかりでもあり一旦この話を拒絶するが、道長の仲介もあってまもなく長家は同意し婚儀は行われた。しかし、斉信家で頓死者があったことを隠して婚儀を強引に行ったらしく、直後の豊明節会において大歌所別当を務めるはずであった斉信は参上せず、その後の臨時祭でも長家が祭使を辞任し、舞人を務めた藤原経輔も婚礼の夜に斉信邸を訪問していて觸穢が及ぶ事態となった。このように強引に進めた婚儀であったが、万寿2年(1025年)流行していた赤斑瘡のために、長家室は妊娠7ヶ月で早産して胎児は死亡、母は尼となり、斉信は一生涯魚鳥を食さないとの大願をかけたが、間もなく室本人も病死してしまった。娘を亡くした斉信の悲嘆は甚だしく、父・為光が娘の忯子の追善のために建立した法住寺で開催した七十七日法要では、言葉を発することができず、力を落として歩くことすら困難な様子であったという。斉信は大臣への任官を強く望んでいたらしく、治安3年(1022年)に父・為光が大臣任官を望んで建立した安禅寺で、斉信は息子の永慶に内大臣任官の祈祷をさせているとの噂が出たり、長元2年(1029年)9月には関白・藤原頼通が一時重態に陥るが、斉信が大臣を望んでいたこととの関連が取り沙汰されたという。同年10月に太政大臣・藤原公季が薨じるが太政大臣の後任は立てられず、その後も高齢の右大臣・藤原実資は90歳近い長寿を保ち、左大臣・藤原頼通、内大臣・藤原教通との3人の大臣体制が長く続いたため、ついに斉信の大臣任官は叶うことがなかった。長元8年(1035年)3月23日薨去。享年69。最終官位は大納言正二位民部卿兼中宮大夫。病に苦しむことなく没したという。和歌や漢詩を始め、朗詠や管絃にも通じ、当代随一の文化人としての名声も高かった。清少納言との交流でも知られ、『枕草子』の中にもたびたび登場し、その艶やかな振る舞いを描写されている。勅撰歌人として『後拾遺和歌集』(1首)以下の勅撰和歌集に6首が入首している。『公卿補任』による。『尊卑分脈』による。
出典:wikipedia
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