小田島 雄志(おだしま ゆうし、1930年(昭和5年)12月18日 - )は、日本の英文学者、演劇評論家。東京大学名誉教授、東京芸術劇場名誉館長。1930年(昭和5年)満州・奉天(現瀋陽)生まれ。旧制東京都立大森中学校から福岡高等学校 (旧制)を経て東京大学英文科卒。同学大学院修士課程修了。父興三は南満州鉄道勤務。母都子(とし)は裏千家のお茶の先生。姉に阿部明子(あかし)。妹紀代子(松村紀代子:英文学者・エッセイスト)。5歳のとき新京(現長春)に移転。ソ満国境を超えてソ連軍南下の報に8月14日新京から奉天へ一時避難したが、父興三の判断で満州国首都の新京へ後戻り15日夕刻新京に着いて終戦を知った。終戦の翌年9月、葫蘆島(ころとう)から博多へ引き揚げ(葫芦島在留日本人大送還)、列車で東京へ。広島を通るときは窓が目隠しされたという。引揚直後は鶴見の親戚に仮寓。大森中4年に編入。1948年(昭和23年)、旧制福岡高校文甲に入学。1949年(昭和24年)7月、新制東大文Ⅱに入学。父興三のすすめにしたがい文Ⅱを選択。2年生の時にたまたま入手した坪内逍遥訳『シェイクスピア全集』や、続いて読んだ『ハムレット』の原書に感動し、シェイクスピア研究を志すようになった。國學院大學兼任講師、津田塾大学専任講師の後、1968年より東京大学教養学部講師となり、助教授、教授。定年後は文京女子短期大学教授を務めた。『シェイクスピア全集』で、坪内逍遥に続いてシェイクスピアの全戯曲を翻訳し、1980年に芸術選奨文部大臣賞を受賞。1995年、紫綬褒章を受章、2002年、文化功労者に選ばれる。2008年、新人を対象に小田島雄志翻訳戯曲賞が制定された。駄洒落を得意とし、シェイクスピア作品に頻出する言葉遊び(パン)を「皇太子だろうが明太子だろうが」(ヘンリー6世より)といった調子で訳して話題を呼んだ。様々に訳されてきた『ハムレット』の有名な台詞「」 を「このままでいいのか、いけないのか」と訳したことも知られる。テレビのバラエティ番組などにもしばしば出演、駄洒落を連発する飾らない人柄が愛された。アントン・チェーホフの作品を愛好し、いわゆる四大戯曲をマイケル・フレインによる英語訳を元に日本語訳した。この英語訳からの日本語訳という作業は翻訳のあり方をめぐる議論を喚起した。大学院生の時にアルバイトで「池永保夫」という筆名を使ったこともあるが、誰もこれを「チェーホフ」とは読んでくれなかったという。宝塚歌劇のファン。大河内豪とはファン仲間だった。麻雀も愛好しており、「麻雀の神様」阿佐田哲也とも交流があった。テレビ番組「すばらしき仲間」では、阿佐田哲也、五木寛之、畑正憲と麻雀をし、小田島は麻雀最高の手「九蓮宝燈」をテンぱったという。学生時代は詩人を志した。妻・若子とは共訳も多い。若子は東大英文科の同期生で、早くに両親を亡くして奨学金で大学へ行き、卒業後八丈島の高校教師になった。その若子に、小田島は八丈島まで行って求婚したという。子供が二人できて東大講師になっても貧しく、狭い官舎で仕事ができず、喫茶店で仕事をする習慣になったとか、英国に留学した友人の高橋康也から、ピーター・ブルックの舞台を是非観ろと言われ、あちこち借金して英国に渡ったなどのエピソードがある。息子の小田島恒志も英文学者、早大教授。2011年7月1日から1ヵ月間にわたり日本経済新聞社朝刊・私の履歴書にて連載。
出典:wikipedia
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