矢野 貴章(やの きしょう、1984年4月5日 - )は、静岡県浜松市出身のプロサッカー選手。Jリーグ・名古屋グランパス所属。登録上のポジションはフォワード(センターフォワード・左右ウイング)。元日本代表。マネジメント会社はサニーサイドアップ。実兄の矢野晴之介は現在、日本体育大学女子サッカー部の監督を務める。小学生時代はジュビロ浜北サッカースクール付属少年団に在籍。中学生時代に在籍したヤマハジュビロSSではサイドバックを務めていたが、浜名高校在籍時にフォワードにコンバートされた。2001年にはU-17日本代表としてU-17世界選手権に出場し、5-1と大敗したフランス戦でゴールを決めた。2002年は、ジュビロ磐田の強化指定選手に登録された。高校卒業時には4クラブから誘われた中からJ1・柏レイソルに入団。プロ1年目の2003年開幕戦から先発メンバーに抜擢されるなどリーグ戦18試合に出場したが、2004年の試合出場はわずか9分に留まり、2005年もシーズン前半はベンチ外が続いたが、6月にU-21日本代表としてトゥーロン国際大会に参加したことが転機となり、シーズン後半はコンスタントに出場するようになった。しかし、J1・J2入れ替え戦に柏が敗れたため、柏のJ2降格が決定した。2006年、永田充と共にアルビレックス新潟に完全移籍。2007年3月には日本代表に初招集され、3月24日のペルー戦で国際Aマッチ初出場を果たした。また、9月11日の3大陸トーナメント・スイス戦で代表初得点を挙げた。2009年は3トップの右ウィング及びセンターで起用され、プロ入り後最多のリーグ戦8得点を記録した。2010年は副将に就任し、状況によりゲームキャプテンを務めることもあった。5月10日、2010 FIFAワールドカップの最終登録メンバーに選出される。事前に予想されていなかったサプライズ選出であり、新潟在籍選手としては初のW杯メンバーとなった。6月14日に行われたグループリーグ第一戦のカメルーン戦では、後半37分から大久保嘉人との交代で出場し、ワールドカップ初出場を果たした。2010年8月27日、ブンデスリーガのSCフライブルク公式サイトにて、同クラブとの契約が発表され、夢だった海外移籍を実現。代理人は長谷部誠、香川真司らと同じトーマス・クロート。9月11日、VfBシュトゥットガルト戦でブンデスリーガデビューを果たすも、その後はレギュラーの座を掴めず、2010-11シーズンは主に途中投入で15試合に出場するも無得点に終わった。翌2011-12シーズンは、ベンチ入りすることもままならず、2011年12月20日にクラブから戦力外通告を受けた。その後、ドイツクラブへの移籍やスイス2部・FCアーラウのトライアウトの参加など去就が報じられたが、いずれも契約には至らず、2012年2月8日、古巣新潟への完全移籍での復帰が発表された。背番号は前回所属時の11番をFWブルーノ・ロペスが背負っていたため、空いていた9番を背負うこととなった。1年半ぶりの復帰となった新潟ではリーグ戦開幕から未勝利のまま低迷していたチームの初勝利となった第6節セレッソ大阪戦で決勝点を挙げるなどしたものの、出場したリーグ戦30試合は主に途中出場で、得点も2得点に留まるなど、低迷したチームの中、期待通りの活躍が出来ずにシーズンを終えた。2013年、名古屋グランパスに完全移籍。3月23日、ナビスコカップ第2節サガン鳥栖戦で決勝点となる移籍後初ゴールを決めた。リーグ戦序盤は負傷のジョシュア・ケネディに代わる長身FWとして先発出場を続けていたが、これが機能せず、ケネディ復帰以後は途中出場が主となった。2014年からは守備陣に故障者が相次ぐチーム事情もあり、主に右サイドバックや右サイドハーフで起用されている。長身を利した高さや身体を張ったプレーだけでなく、ドリブル突破、スペースへの飛び出しを得意とする。また、豊富な運動量や前線からの守備が得意であり、チームの為に労を惜しまない選手である。その一方で、シュート精度に課題があり、J1リーグ戦におけるシュート決定率や90分平均得点は低いものとなっているが、殆ど角度のない位置からのシュート(通称:貴章ゾーン)を決める事が多い選手でもある。304||42||44||4||19||6||367||5215||0||colspan="2"|-||0||0||15||0319||42||44||4||19||6||382||52その他の公式戦|-!通算
出典:wikipedia
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