『皇帝円舞曲』(こうていえんぶきょく、ドイツ語:"Kaiser-Walzer")作品437は、ヨハン・シュトラウス2世が1889年に作曲した演奏会用のウィンナ・ワルツ。原題のまま『カイザー・ワルツ』と呼ばれることも多い。晩年の作品の中では最も高い人気を誇っており、シュトラウス2世の「十大ワルツ」に数えられ、その中でも『美しく青きドナウ』と『ウィーンの森の物語』とともに「三大ワルツ」に数えられる。1889年10月19日、ドイツ帝国の首都ベルリンで「(国王の建築)」と命名された新しいコンサートホールが開場することとなった。10月19日から5日間の「こけら落とし演奏会」が催されることとなり、著名な音楽家たちに作曲・指揮の依頼が行われた。ワルツ王ヨハン・シュトラウス2世も依頼を受けた音楽家の一人であった。シュトラウス2世は当時オペラ『騎士パズマン』の作曲に取り組んでいて多忙だったことから、この依頼を断ろうとした。しかし、五夜にわたる祝典演奏会の最初に指揮するという名誉ある要請であったことと、楽団が総勢100人という大構成であり報酬も良かったことから、結局シュトラウス2世は考え直してこの仕事を引き受けることに決めた。当時のベルリンやウィーンの新聞は、シュトラウス2世の『手に手をとって』("Hand in Hand")という題名の曲がケーニヒツバウで初演されることを報じている。この演奏会には、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世とオーストリア=ハンガリー皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の臨席が予定されていた。『手に手をとって』とは、独墺両国の親善を祝う意味でつけられた曲名である。のちにベルリンの楽譜出版社「ジムロック」が曲名を『皇帝円舞曲』と改めたほうがよいと強硬に主張し、シュトラウス2世がこれを受け入れたことで現在の曲名に変更された。1848年に即位したフランツ・ヨーゼフ1世の「在位40周年祝賀舞踏会」のために作曲されたと長らく伝えられてきたが、現在ではそれは事実ではないと明らかとなっている。初演日は10月19日ではなく21日にずれ込んでしまったが、予告通り100人編成の大オーケストラによって演奏され、大成功を収めた。このワルツはブラームスから大いに称賛を受けた。ブラームスはシュトラウス2世の大親友だったが、彼は当時シュトラウス2世のことを年老いて創造力が減退したと思っていた。二重和声が付けられたシリーズや、普段から簡単な楽曲ばかりを作曲しているにも関わらずわざわざ「誰でも弾けるピアノ曲集」などと銘打ったシュトラウス2世のこの時期の作品群をブラームスは嫌っていた。しかしそんなブラームスもこのワルツについては非常に好意的にとらえ、などと語り、ジムロック社からこのワルツの楽譜が出版されることを心から喜んだという。シュトラウス2世にジムロック社を紹介したのはブラームスであった。ジムロック社の考えでは「皇帝」とは複数(オーストリアとドイツの両皇帝)を意味するものであったが、実際に出版されたピアノ譜の表紙絵にはオーストリアの帝冠のみが描かれている。発表されるとたちまちヨーロッパ中で評判になり、当時ウィーンで軍楽隊長を務めていたカール・ミヒャエル・ツィーラーは、出版されたピアノ譜をもとにして自分で勝手に管弦楽曲に編曲し、11月11日にで演奏してしまった。このツィーラーの行動にシュトラウス2世は激怒し、当時はすでに弟のエドゥアルト・シュトラウス1世に指揮活動をほとんど任せていたにも関わらず、11月24日にウィーン楽友協会で自ら指揮してウィーン初演を行った。ちなみに、この時の批評は次のようなものであった。テンポ・ディ・マルチア、ハ長調、2分の2拍子。
出典:wikipedia
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