志村 けん(しむら けん、1950年2月20日 - )は、日本のコメディアン、お笑いタレント、司会者。ザ・ドリフターズのメンバー。旧芸名および中国語での表記は、志村健。本名、志村 康徳(しむら やすのり)。イザワオフィス所属。身長166.7cm、体重65.3kg。血液型A型。愛称は「志村」「けんさん」「けんちゃん」「しむけん」「ケン坊」など。また桑野信義や上島竜兵、タカアンドトシなどからは「師匠」と呼ばれている。1950年、小学校教諭であった父親の三男として東京都北多摩郡東村山町(現在の東村山市)に生まれ、厳格な家庭に育つ。幼い頃、厳格な父親の支配する家庭はいつも重苦しい雰囲気に包まれていたが、当時まだ珍しかったテレビのお笑い番組で漫才や落語を見ていた時だけは、嫌な気持ちを忘れることができた。その時だけは、厳格な父親も笑いをこらえながらテレビを見ていたという。そのような体験から、お笑い芸人の世界に憧れを抱くようになった。芸名は、父親の名前「賢司」(けんじ)に由来するという(エッセイ『変なおじさん』による)。東村山第二中学校時代は文化祭でよくコントを披露していたといい、所ジョージ(隣市・埼玉県所沢市出身)の遠戚とバンドを組んだこともあった。中学の頃から、将来はお笑いを仕事とすることを決心したという。その後、両親の方針で「お金がかからない都立に行け」との理由から、新設された東京都立久留米高等学校に進学。同高の第1期生となる。志村の中学校から同高を受験したのは志村を含めて13人で、教師には「志村は無理だろう」と言われたが、合格したのは志村1人だけであった。同高ではサッカー部にGKとして在籍した。1968年、卒業間際にザ・ドリフターズ(以下ドリフ)の付き人になる。この際、リーダーのいかりや長介が志村を強引に東北地方巡業へ付き合わせたため、出席日数が足りなくなり中退の扱いにされたと言われる。2007年3月の公式ブログでは、高校卒業前の2月からドリフの付き人になり、午前中だけ時間を貰い慌ただしく卒業式に出席し、仕事に戻ったと述べている。のち、放送大学教養学部修了。初めは由利徹の弟子になろうとした。次いで、コント55号とドリフのどちらに弟子入りするか迷ったが、音楽性の面からドリフを選び、1968年2月にいかりやの家へ直接押しかけ、雪の降る中、いかりや本人が夜中に帰ってくるまで12時間ほど待ち続けた。1週間後にいかりやから弟子入りを認められ、ドリフの付き人となる。当時のドリフは積極的に音楽活動を行っていたため、仲間内では「付き人」ではなく「バンドボーイ」(通称ボーヤ)と呼ばれていた。加藤茶の付き人となる が、1年余りで一度脱走 し、バーテンダーなどのアルバイトをしたりしていた。仲間が伝えるのを忘れたせいなのか脱走したとメンバー内で騒がれていた。戻ってくる時はいかりやの家に行きにくかったので、加藤の家に行って頼み、いかりやへ口添えしてもらったところ、「2度も弟子入りするやつはよくよく好きなんだろう」と出戻りを認めてくれた。その後、しばらく加藤の付き人兼加藤家居候となる。当時志村は運転免許を持っていなかったため、無名の付き人だったにもかかわらず、当時国民的人気者の加藤が運転する車の助手席にふんぞりかえったまま帰宅し、加藤を差し置いて母親に晩御飯を用意してもらったり、先に風呂に入ったりという非常識っぷりを見せた。1972年、22歳の時に井山淳とお笑いコンビ・マックボンボンを結成し、芸能界デビュー。井山のボケに対して、志村が立ったままの姿勢から足で顔面にツッコミを入れるなど、身体を張ったネタを披露し、歌謡ショーの前座として人気を獲得していく。10月には早くもコンビの名前を冠したテレビ番組『ぎんぎら!ボンボン!』(『シャボン玉ホリデー』の後番組で、後に『シャボン玉ボンボン』に改題)に出演が決まり、幸運なテレビデビューとなるが、知名度の低さ、ネタの少なさもあり人気は低迷(いかりやはテレビのレギュラーが決まる前からそのことを危惧していた)。12月31日放送分で番組は打ち切りとなり、この時点で井山が脱退(失踪)。コンビはその後、自衛隊出身の福田正夫を相方に迎え心機一転を図るが、福田はそもそも芸能界志望ではなく、ネタ合わせもまったく身が入らない有様で、結局、自然消滅へと向かう(この頃の芸名は「志村健」の表記が多かった。なお「志村健」の芸名は、現在台湾で使用されている)。志村はその後ドリフターズの付き人に戻り、1973年12月、「メンバー見習い」の扱いでドリフに加入する。1974年3月31日をもって荒井注が脱退し、4月1日に正式にドリフのメンバーとなる。この時、いかりやは自分や荒井と同年代の新メンバーの加入を検討していたが、加藤の推薦により若手の志村が起用された。当時、志村は24歳だった。ドリフの正メンバーになって2年間ほど(この頃の芸名は「志村ケン」の表記もあった)は、志村にとってスランプの時代でギャグがあまり受けずに苦しむ。転機となったのは、『8時だョ!全員集合』の「少年少女合唱隊」のコーナーで「東村山音頭」を歌ったことで、これにより一躍人気者となる。きっかけは1976年3月6日の新潟県民会館での公開生放送での同コーナーで、新潟にちなんだ歌として「佐渡おけさ」を全員で歌い、その後にゲストやドリフメンバーの故郷の歌をそれぞれ歌うという趣向であった。そこで志村は地元の「東村山音頭」を披露することになり、制作段階でリメイクを施して4丁目が完成。これに手応えを感じ、さらにリーダーのいかりやが3丁目を作詞・作曲し、志村の作詞・作曲による1丁目が加えられて、この3曲を本番でまとめて歌った。すると「毎回このコーナーの最後に歌った方がいい」ということになり、ついには各丁目ごとの衣装が作られるまでになり、特に1丁目は毎回様々な衣装で観客や視聴者を笑わせた。志村の「東村山音頭」は東村山市の知名度向上にも大きく寄与した(詳しくは後述)。ドリフのコントでは大概ボケ役だったのでボケのイメージが強いが、マックボンボン時代はツッコミ役であり、『全員集合』でいかりやがポリープの手術後で声を出せない時に、メインのコントでいかりやの代役としてツッコミ役を演じたこともある。『全員集合』の後半コントなどでも女性歌手や加藤をボケ役に立て、自らはツッコミ役に回るコントもあった。1980年代後半以降の自らの冠番組でもツッコミ役が相当あり、現在も『バカ殿様』でダチョウ倶楽部相手にツッコミを入れて落とすことがある。『NHK紅白歌合戦』の応援コーナーでビートたけしとコントを演じた際も、ボケ役はたけしが演じ志村はひたすらツッコんで話を展開させていた。この頃、同じ渡辺プロダクション所属の2歳先輩である沢田研二とのコント内でのやり取り、息の合ったコンビネーションが絶大な人気を呼ぶ(詳細は#沢田研二との関係を参照)。1979年には加藤茶との「ヒゲダンス」、1980年には「♪カラスの勝手でしょ〜(童謡『七つの子』の替え唄)」が人気を博した。1981年2月18日、仲本工事、『全員集合』プロデューサー居作昌果と共に競馬のノミ行為容疑で任意聴取を受け書類送検されたことが発覚。当時の新聞の社会面やトップを飾り、朝日新聞の見出しは「ノミ馬券だョ!全員集合」であった。賭け額が多額であった仲本と居作は略式起訴で罰金刑となったが、志村は賭けた金額が1万6千円と少額であったことから起訴猶予処分となった。とはいえ、この事件で仲本とともに1か月間謹慎となり、以降しばらく『全員集合』などへの出演を見合わせ、当時ドリフ全員で出演していた永谷園のふりかけのCMも、志村・仲本を除く3人のみが出演しているバージョンに改められた。また、『ドリフ大爆笑』で加藤茶とのコントで、加藤の馬を使ったボケに対して「俺あんまり馬で良い思い出ないんだよ」と語り、加藤が苦笑いで「俺随分働いたっけねあの時」と述べたことがある(コント タイガーマスク)など、他のコントでも、加藤が志村に対してノミ行為のことをけしかけて笑いを取るという場面があった。1985年に『全員集合』が終了。1986年に加藤をボケ役、自らをツッコミ役とした番組『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』がスタートする(1992年まで)。その後、自身をメイン出演者とした初の冠番組『志村けんの失礼しまぁーす!』(日本テレビ)、『志村けんのだいじょうぶだぁ』(フジテレビ、現在は単発不定期で放送中)、現在も続く『志村けんのバカ殿様』(フジテレビ)などで、ドリフメンバー以外(田代まさし・松本典子・桑野信義・石野陽子・ダチョウ倶楽部)との活動が多くなる。この頃から「変なおじさん」に代表される、ドリフとは一線を画した独自のコントスタイルを確立し、第2の人気ピークとなる。1988年の大晦日には、当時フジテレビアナウンサーであった山中秀樹と共にニュース番組『デイトライン特別版』のキャスターを担当した。しかし、1992年頃から数年間に渡り一時的な低迷期を迎える。1996年にはゴールデンタイムのレギュラー番組を失い、フジテレビの深夜枠で『志村〝X〟』『志村〝XYZ〟』『Shimura〝X〟天国』を2000年まで担当した。1996年9月頃、突如として「志村けん死亡説」が全国的に流布する。パソコン通信などを通じて広まった。噂は尾ひれがついて拡大し、「群馬県の赤城国際カントリークラブで急性心筋梗塞を起こし急死した」「尾瀬を観光中に尾瀬沼に落ちて溺死した」「煙草の吸い過ぎが原因の肺ガンで、宇都宮のがんセンター(栃木県立がんセンター)で死んだ」「栃木県の国道で交通事故に巻き込まれて事故死した」「死んだことは四十九日法要が過ぎてからでないと公表されない(この時期に亡くなった渥美清が遺言に「四十九日法要が済むまで公表するな」と書いていたことからとされる)」「今放送している番組は生前に撮り溜めしたもの」などと具体的な内容の噂に発展。栃木県立がんセンターが「志村さんは入院していない」という異例の声明を出すに至り、9月28日には本人がインターホン越しに記者会見し、健在をアピールする事態になった。この時期、志村は健康で入院が必要な大きな病気やケガもしておらず、噂の発生原因は不明だが、志村のゴールデンタイムの全国ネット番組が終了したことが信憑性を高めたものと見られる。騒動が収まったのち、読売テレビのバラエティ番組『ダウンタウンDX』に志村とともに出演した高木ブーが、自身が聞いた発生説として「この時期に『しむらけん』という人が北関東地方 で亡くなり、それが志村と混同されたからだ」と語っている。この番組では、高木の説明を受けて志村自身が驚く一幕も見られた。志村は死亡説騒動をちゃっかりネタにしている。騒動の直後に収録された『ドリフ大爆笑』の「公開コント」(修行僧コント)では、加藤茶に「あ、知ってる?志村けんが死んだってよ」とネタにされ、本人が苦笑しながらツッコんだ。また、翌年の『志村けんのバカ殿様』では猿岩石との「母子コント」で「母ちゃんだって、死んでたって噂になってたよ」などギャグにされ、母親役の志村は「その頃『電波少年』で旅をしていたのになんで知ってんだよ」とやり返していた。さらには、死亡説直後に放送された『志村X』第1回放送では、コントの中で志村が「ガンじゃありませんよ!死んじゃあいませんよ!」というセリフを入れて笑いを取っていた。1997年後半以降、バラエティ番組のゲストとして呼ばれることが多くなる。また、子供の時にテレビで志村を見て育った芸能人などから再び注目され始め、第3の人気ピークを迎えた。ただし以前のピーク時とは異なり、重鎮的なポジションで扱われる立場となったこともあり、全盛時と比べれば露出度は穏やかなものとなっている。1998年12月30日、TBSで放送された『21世紀プロジェクト〜年越し30時間テレビ 今日だけお見せ数々の名番組大集合!〜』後半部では、加藤と共に出演する。『古畑任三郎』の犯人役のオファーを断るなど、一貫してコントやバラエティ以外のテレビ番組や映画には出演しないことを信条としていた志村だったが、1999年には映画『鉄道員(ぽっぽや)』に俳優として出演した。自宅の留守番電話に主演の高倉健直々の出演依頼のメッセージが残されていたため、「健さんの申し出があったのに出演しないとは言えなかった」と出演の理由を明かしている。この時の録音テープは、家宝としてその後も大切に保存しているという。『バカ殿』で共演していた先輩コメディアンの東八郎に「東さんはいい歳になってもなぜ馬鹿な演技ができるのでしょうか」と尋ねた時、東から「芸人が本当は利口だと思わせようとしたり、文化人面(づら)したりするようになったらおしまい」と言われた。志村はこの言葉に深く感銘を受け、東に尊敬の念を抱いていたと何度も発言している。1990年代半ばあたりまでの志村は非常に照れ屋で、フリートークが苦手だったため、トーク主体のバラエティ番組への出演はほとんどなかった。トークバラエティ番組に出た際は歓迎されたが、やはりツッコミが主な仕事であった(これは他のドリフメンバーにも共通する特徴であった)。当初はほとんどがコント用のかつらにメイクをした姿(「変なおじさん」「バカ殿」など)での出演であったが、これはそれまでコント一筋だった志村にとって、バラエティ番組に出演することは勝手が分からず気恥ずかしいという気持ちからである。「自分自身のことを語るトーク番組の出演は苦手であり、地声は低音である」と、2002年5月29日に放送された『わたしはあきらめない』(NHK制作)でも語っている。しかし、その後は様々なトーク番組に頻繁にゲスト出演する経験を経て、素顔でも出演するようになった。現在はどちらでも出演している。2001年、「けん♀♂けん」名義で研ナオコとのデュエット曲「銀座あたりでギン!ギン!ギン!」をリリース。2002年4月、ハロー!プロジェクト所属のミニモニ。と共に「バカ殿様とミニモニ。姫」として活動。持ちギャグの「アイーン!」を冠した曲を歌った。2001年12月、上述の盗撮事件による謹慎が解けたばかりだった田代まさしが男性宅の風呂を覗き見および覚醒剤所持で逮捕されたことに対し、田代の芸能界復帰を支援していた志村は桑野信義と共に「あいつは最低なことをしたのだから芸能界から消えてもらいたい」とコメントした(ただし、2009年11月、志村の楽屋に田代が訪れて土下座したことを自身のブログで報告し、ブログ上で田代にエールを送る。しかし田代は、2010年9月にまたも逮捕された)。2004年4月15日、自身がMCを務める動物バラエティ番組『天才!志村どうぶつ園』が日本テレビ系でスタート。元来の動物好き、シャイで涙もろい志村の人柄をそのまま活かし、人気番組となる。当初は木曜日午後7時台の放送だったが、2007年4月から土曜日午後7時台に枠移動している。2004年12月7日、東京都三鷹市内の自宅に泥棒が侵入し、時計や宝石類1000万円相当と現金40万円を盗まれる被害に遭った。本人は会見で「迷惑だねぇ」と困惑の色を隠せなかったが、のちに「ちゃんと仕事して金稼いで下さい」と犯人にコメントし、最後に「だいじょうぶだぁー」と締めた。後に『天才!志村どうぶつ園』でこの事件が取り上げられた際、ペットの犬たちは人懐こいため泥棒に吠えなかったことが明かされ、「番犬にならない」と苦笑した。また、ホームセキュリティに加入していたにも関わらず、警備員が駆けつける前に盗難被害に遭ったことも話題となった。似たような事件が2年前小出義雄の自宅でも起こっており、約500万円の現金が盗まれている。小出は「警察には被害届を出さない代わりに、その金を元手に商売するか、まっとうに仕事をしろ!」と犯人にアピールした。志村のコメントは小出のアピールを引用したものと思われる。2005年、ビートたけしと組んで1時間半のコント番組『たけし☆志村 史上最強の爆笑スペシャル!!』を制作。ダチョウ倶楽部やたけし軍団の一部も参加した。番組の最後には、志村の三味線とたけしのタップダンスの競演が披露された。2006年4月、「理想のお笑い」を追求すべく、東京芸術劇場で『志村魂(しむらこん)』と銘打った舞台を上演する。前半に「バカ殿様」とコント1本、後半は藤山寛美の作品『一姫二太郎三かぼちゃ』をラサール石井がリメイクした舞台を上演した。2007年6月には、東京芸術劇場と中日劇場で第2弾『志村魂2』を上演。第1弾の演目に加え、「津軽三味線」が上演された。2008年5月から7月にかけては、全国で第3弾『志村魂3』を上演。後半に藤山寛美の作品『人生双六』をリメイクした舞台を上演した。2009年7月には、銀河劇場と中日劇場で第4弾『志村魂4』を上演。2010年7月から8月にかけては、全国で第5弾『志村魂 -初午の日に-』を上演し、後半に『初午の日に』を上演した。2011年7月には、銀河劇場で第6弾『志村魂 -初午の日に-再び!』を上演。2012年6月から7月にかけては、全国で第7弾『志村魂 -先づ健康-』を上演し、後半に『先づ健康』を上演した。2015年11月23日に「一番のファン」であった実母が逝去。ブログではたびたび「母に感謝す」と記していた志村は「天国からまだまだ応援見守って下さい」などのコメントを発表した。2016年8月19日、肺炎で入院したことが判明した。これに伴い、8月20日および21日に予定されていた公演『志村魂』の大阪・新歌舞伎座公演は中止することになった。その後、8月31日に退院している。現在では健康オタク、動物愛好家としても知られ、お笑いタレントとしてのみならずコメンテーター的存在としても活動している。ただし、現在のトーク主流のテレビ番組のあり方については、持論として、いくつかの雑誌などでのインタビューで疑問符を投げかけている。また、最近のテレビ不況についても嘆いており、自身のコントでも「クイズ番組が多すぎる」「時代劇が不振」と苦言を呈している。自身のブログをほぼ定期的に更新しているが、日々の生活とともに自身の体調についての話題も不定期に書き込まれており、60代からは体調の変化が書き込まれる機会が増えている。2015年11月25日のブログでは、母・和子が11月23日に亡くなったことを明かした。ソウル・ミュージック、ファンク、ジャズなど、あらゆる分野の音楽に興味を示し、自宅には膨大な数のレコードやCDのコレクションがある。「ヒゲダンス」で使用されたBGMがテディ・ペンダーグラスの「Do Me」のリフをループしたものであったり、「ドリフの早口ことば」が当時、渡辺音楽出版が発売権を買い付けたシュガーヒル・ギャングの「ラッパーズ・ディライト」の印象に、ウィルソン・ピケットの「Don't Knock My Love」のバックトラックをはめ込んだものであったりしたが、これは当時ソウル・ミュージックを好んで聴いていた志村が探し出して推薦したものである。更に志村加入後に発売されたドリフターズのシングル「ドリフのバイのバイのバイ」では、志村によるソウルフルな合いの手も聞かれる。また、かつて音楽誌『jam』でソウル・アルバムのレビューを書いていたこともある。ドリフにおける担当はキーボード。過去のバンド演奏でキーボードを弾いている姿が見られる。しかし、高木ブーは「ギターだった俺が荒井の担当だったキーボードになって、ギターしか弾けない志村がギター担当になった」と発言している。番組内でビートたけしのタップダンスに合わせて三味線を弾いたり、コントで霊媒師を演じた時には琵琶でギターのテクニックの一つであるチョーキングを披露するなど、元々のバンドマンとしての技能が見られる。なお、『志村けんの全員集合 東村山音頭』はザ・ドリフターズ名義の曲として、唯一加藤以外がソロボーカルとなる曲である。中学以来のビートルズファン。このためか、中学時代に畑でバンドをやっていたという(兄談)。ビートルズの日本公演を観に行った際、持参したカメラで1枚のみ隠し撮りをしており、その写真をパネル化してテレビ番組で公開したことがある。その写真ではジョン・レノンが丸いサングラスをかけており、1966年7月2日公演と分かる。同日の公演は、音源・映像とも、公式には一切収録されていない。近年は津軽三味線を趣味としており、上妻宏光の指導を受けて短期間で上達、舞台(『志村魂』など)の後半で度々披露するようになっている。なれそめは、上妻の楽曲「紙の舞」を聴いて感銘を受けた志村が、その曲が弾けるようになりたいと上妻に指導を頼み込んだことにある。当初、上妻は「紙の舞」は非常に高度な技術が要求されるため、志村には基礎的なじょんから節から教えようと思っていたにもかかわらず、予想を超えるスピードで志村が「紙の舞」を習得してしまったという逸話がある。志村は、この上妻の楽曲「紙の舞」を舞台で度々演奏する。ドリフのリーダーであり、志村の師匠でもあるいかりや長介とは一時期(1989年から1990年代始め頃)不仲と伝えられ、実際この頃の『ドリフ大爆笑』ではいかりやと絡むコントは無く、リハーサル、撮影とも別々に行われたこともあった。また、雑誌『Switch November 1991 特集・志村けん「笑う男」』誌上では「今のいかりやさんは面白いとは思わない。実際いかりやさんとは2年以上会っていないし・・・」と語っていた。しかし、いかりやが亡くなった時に自宅へ真っ先に向かったのは加藤茶と志村だった。二人ともショックでしばらく動けなかったという。いかりやは弟子の志村が単独で活動・成功していることを面白く思っていないのでは、と言われていたが、いかりや自身の著書『だめだこりゃ』の中に「志村をリーダーに第2のドリフを作って欲しいと思っている」とする旨の記述がある。このことから、近年はむしろコメディアンとしての志村の活躍を快く思っていたとする見方が強い。いかりやの息子である浩一も、自身の著書の中で「自分の見た限りでは特に不仲を感じることはなかった」「父さんは『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』を見ては『こういう方法があるのか』と関心を示していた」と述べている。上記のことからうかがえるように、いかりやは幾度も打ち合わせやリハーサルを繰り返して、予め練りに練ったシナリオをこなしていく「予定調和のお笑い」を良しとしていたのに対して、志村は適宜アドリブや楽屋オチを入れ、時には「ボケ」と「ツッコミ」が目まぐるしく逆転する「予測できないハプニングを含めたお笑い」を志向し、スタジオコントでは画像処理やCG合成など最新の手法も積極的に取り入れていたという、お互いの「笑いのスタイル」に対する考え方のズレがその後の不仲説の一端となった。この兆候は『全員集合』時代後期にすでに表れており、志村のいわゆる「客いじり」のアドリブが、当時番組内ではTBSの制作陣よりも発言力のあった、とされるいかりやが組立てたコントのタイムテーブルを崩し、生放送の中では後半の時間が詰まる原因になった。とはいえ、いかりやがそれに便乗したこともある ため、全否定していたわけではない。『全員集合』終了・『ドリフ大爆笑』不定期化後、いかりや以外のドリフメンバーとも距離を置いていたが、マックボンボン独立失敗とドリフ復帰・正式加入の際の経緯から、加藤とは比較的親密であった。いかりや逝去前後以降、その直後の特番を除いては、志村が同一の番組で共演したことのあるドリフメンバーは長らく加藤のみであったが、2016年9月22日放送のNHKとなりのシムラで、直接の絡みはないものの、高木ブーと共演した。加藤の話によると、ドリフ再集合の話が持ち上がるとたびたび嫌がったという。理由としては、いかりやとの不仲説や、単独で他のドリフメンバーを遙かに凌ぐ人気と活躍をしながら、ドリフに戻れば一番下扱いされることが不満であったと言われる。加藤も「志村がなかなか再集合したがらないんですよ」と言っていたが、これが加藤のネタなのかどうかは定かではない。2012年3月に加藤が前年に入籍した妻との結婚式と披露宴を行った際には、高木と仲本が出席したにもかかわらず、志村はテレビ番組の収録を理由に欠席してビデオメッセージで済ませたため、一部のマスコミより加藤との不仲説が指摘された。なお、コントでいかりや長介に攻撃するシーンは「本気でやっていた」とされ、加藤から楽屋オチ的なツッコミを受けることもよくあり、本人が認めたこともある。しかしこの点は他のメンバーも大同小異であった(2004年、『全員集合』など)。ただし、お笑いに関しては完璧主義者だったいかりやが、それを求めていた部分もある。ドリフメンバーの中で唯一、結婚歴がない独身。しかし、結婚の願望は強く、「母に子供の顔を見せてやりたい」「人恋しく、人肌恋しい」とブログに載せている。『ダウンタウンDX』に出演した際、高校生の頃から10人ぐらいの女性と同棲した経験があると告白した。付き人時代に同棲していた女性とは、結婚していないにも関わらず子供ができたが、周囲の反対で彼女と別れたことを自著『変なおじさん』の中で告白している(その女性と子供の消息は不明)。その他、3年間の同棲の果てに内縁関係(事実婚)を主張して財産の半分を持っていった女性もいた(法律上の決まりはないが、判例によると同棲期間が長いほど別れる時に高額な慰謝料が発生する場合がある)が、この女性とは結婚も考えていたと直後の記者会見で語った。また、日本航空にスチュワーデスの愛人が複数いると報じられたこともある。さらに大のキャバクラ好きでもある。このように、女性との交際は多いものの、特定の女性との関係を長続きさせるのが苦手であるため、なかなか結婚に踏み切れないことは本人も認めている。1980年代から1990年代中盤にかけて、女優の太地喜和子やいしのようことの交際の噂が各メディアでたびたび報じられたものの、結婚へは辿り着かなかった。ちなみに太地、いしのともに番組で共演、太地が亡くなった際には番組で追悼企画が組まれた。またいしのとは誕生日が同じである。みひろ・優香・相田翔子・夏川純・ほしのあき・・安田美沙子・持田香織・熊田曜子・・小林恵美・磯山さやか・板野友美ら女優ら数十人程度とメール連絡関係にあり、誕生日には祝福のメールを欠かさない。安田美沙子、後藤真希などのお気に入りアイドル数人を、携帯電話の待ち受け画面に使用してきた。タモリとの共演は極めて少ない。かつて『笑っていいとも!』のテレフォンショッキングのゲストとして出演した際に、桑野信義が志村をゲストとして呼ぼうとしたが、「俺、明日ゴルフだから」と断った。この頃の志村は前述にあるようにトーク番組が苦手なこともあり、コント以外の番組にゲスト出演することがほとんどなかったので『笑っていいとも!』に限り出たがらなかったということではない。なお、約10年後に作家の嵐山光三郎の紹介で初めて出演し、2007年にも加藤茶の紹介で、2013年にもバカ殿様の番宣でテレフォンショッキングに出演したほか、研ナオコとのユニット「けん♀♂けん」としてもゲスト出演している。『たかじんONE MAN』に出演した際、「あの人(タモリ)の笑いはあまり好きじゃない」と語ったが、別に仲が悪いわけではなく、ただ笑いの観点が違うだけだと言われている。他には過去に『ジャングルTV 〜タモリの法則〜』や『ミュージックステーション』でもゲスト出演している。明石家さんまとの共演も多くないが、これはさんまが得意とするトーク主体の番組を苦手としているためである。ただし、近年ではさんまが司会を務める『さんまのまんま』をはじめ、『踊る!さんま御殿!!』や『恋のから騒ぎ』にゲスト出演している。ビートたけしとは『神出鬼没!タケシムケン』での共演を機に、お互いを尊敬し合う仲である。それ以前にビートたけしは志村をはじめ、ドリフターズに好意を持っており「たけし軍団はドリフターズを意識して結成した。こんなバカな人間が大変な賞をもらった事に、初心に帰ってバカをやらないといけない」とカンヌ国際映画祭のインタビューで話している。また、たけし軍団のメンバーがたけしを「殿」と呼ぶことについて、たけし自身が『バカ殿』の大ファンであることから「殿」と呼ばせていると、ガダルカナル・タカが大井競馬場のトークショーで語った。志村のドリフ加入からしばらく経過した1970年代後半、『8時だョ!全員集合』や『ドリフ大爆笑』などの番組内において沢田研二とよく共演していた。当時、沢田と志村は同じ事務所に所属していたこともあり、共演する回数は多かった。また、志村はドリフ加入前の「マックボンボン」時代に沢田のコンサートの前座を何度も務めていたことがある(2009年に『爆笑問題の日曜サンデー』にゲスト出演した際、志村本人がコメント)。1980年代中頃以降は共演する機会も減っていたが、2001年にNHKの番組で久々に共演し、「東村山音頭」を一緒に歌うなどをした。同年には沢田の希望により、共同でラジオ番組『ジュリけん』(文化放送)もやっていた。2003年には沢田と志村の両方が主役として、沢田の希望で舞台「沢田・志村のさぁ、殺せ!!」での共演が実現した。沢田とは同一事務所時代から30年以上の交流があるが、プライベートで行動を共にする機会は比較的少なかったものの、2000年代に入り徐々にではあるが、交流の機会を増やしている。沢田は2003年の『ザ!情報ツウ』でのインタビュー(沢田の隣りに志村も同席)で「志村さんの芸が大好きで、今回も一緒に舞台をやって欲しいと思った。僕は(志村のバラエティ性を)尊敬しています」と語っていた。志村は上記にあるように、女性の友人で付き合いの長い人物は若手を中心に多いが、男性の友人で付き合いの長い人物は極めて少ない方であり、ドリフメンバーや志村ファミリーを除くと沢田程度しかいない。『天才!志村どうぶつ園』で共演している相葉雅紀(嵐)を弟子のように可愛がっており、しばしば自分の人生論などを伝授している。また相葉本人がトークなどで悩んでいたときは「自分なりの表現を貫き通せばいい」と励まして自信を持たせたという。タカアンドトシが、自身の持ちギャグである「欧米か!」をこのまま続けて行くべきか真剣に悩んでいた際、「このままずっとやり続けるべきだ」と励ました。志村はタカアンドトシを非常に気に入っていて、志村の冠番組での共演も数多い。大御所となった現在、志村相手に真剣に突っ込みを入れられるタレントはほとんどいなくなったが、ダウンタウンの浜田雅功は自身の番組で、平気で志村の頭を張る。このことに対し志村が「おれが頭を叩かせるのは、いかりやさんのいない今は、浜田だけなんだから」と許容している。2009年2月9日放送の『しゃべくり007』内で、2代目志村けんとしてナインティナインの岡村隆史の名を挙げた。志村はプライベートで、東村山市および自身の実家に帰ることはほとんどないという。東村山ネタで人気が出始めた頃、地元における志村後援の動きは、元祖「東村山音頭」を企画した東村山市農業協同組合が中心であった。その後、東村山ネタが全国的なブームになり、東村山市自体も注目を集めるようになった。1976年7月、「東村山市の知名度を高めた」功績が認められ、当時の東村山市長の熊木令治から感謝状を貰った。当初、志村の東村山ネタについて、市議会議員や教育関係者の中には否定的な者もいた。志村が当時テレビでギャグネタに「東村山市名誉市民・志村けん」を名乗ったため、本当に志村が名誉市民称号を授与されたと思い込んだファンがかなり存在するが、実際にはその事実はなく、東村山市当局も公式にこれを否定している。なお、この時に西武鉄道・東村山駅東口の交番前に、感謝状授与記念と志村への激励の証としてケヤキが植えられた。通称「志村けんの木」。またいかりや長介が「東村山非国民」というギャグを使用して笑いを取っていた。1995年、東村山市商工会が主催した西武鉄道東村山駅開業100周年記念イベントで司会を務めた。駅前広場に立つ「東村山停車場の碑」前で開かれた式典の後の小規模な催しであったが、東村山市役所に勤務する兄の紹介で出演が実現した。東村山市商工会ウェブサイトではタイトルロゴに「あい〜ん」と表記していたことがある。志村の小学校時代の同級生が社長を務める、市内の和菓子店「餅萬」では、志村にちなむ「だいじょぶだぁ饅頭」や「だっふんだぁどら焼き」を「東村山名物」として販売している。また、交友関係にある所ジョージが、『志村けんのバカ殿様』にゲスト出演した時に「東村山ラプソディー」なる曲を披露した。その中で「東村山東京の外れ!大外れ!!」と歌われたことがある。日本だけでなく、台湾(『だいじょうぶだぁ』)、タイ(『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』)、インド(蚊取り線香のCM)でも知名度が高い。イランの政府高官が、駐日イラン大使館の在留大使時に志村けんのコントを見て大ファンになり、帰国後「国賓として招きたい」と言ったり、テヘランのレンタルビデオショップには志村の特設コーナーもある。また、在日外国人に最も人気が高いタレントの1人とも言われ、六本木で出会ったアメリカ兵から「お前はアメリカに行くべきだ。俺の部隊の連中は、みんなお前が大好きだ」と言われたこともある。太地喜和子は志村の熱心なファンであった。『ドリフ大爆笑』のコントの中でも加藤から「おまえ、太地喜和子に口説かれてるんだろ!」と冷やかされ、思わず苦笑する場面があった。志村の著書によると、若い劇団員に対し「ね。志村さんのお婆さんは本物に見えるでしょ。先ずは、そう見えるかどうかが大事なのよ」と言ってくれたという。太地は『志村けんのだいじょうぶだぁ』の常連ゲストとしてたびたび出演し、太地の急死直後には追悼番組が放映された。鳥取県水産試験場の研究員に同姓同名の研究員がいることが、テレビ番組で放送されている。それ以来、鳥取県水産試験場の同姓同名の研究員を尋ねに来る人間が、今も多いと言う。あまりにも多くの人間が全国から来るため、鳥取県水産試験場は調査船の絵葉書などのオリジナルグッズを販売している程。 ちなみに、「アイーン」のポーズは、聴覚障害者の手話では「志村けん」の単語として存在する。この節では志村単独の出演作品を記述する。レギュラー番組単発・不定期番組
出典:wikipedia
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