ふぐ料理(ふぐりょうり)は、フグを主とした料理群である。山口県、大阪府など西日本を中心にふぐ料理は作り上げられ、太平洋戦争後に全国に広まった。ふぐの本場とされる山口県、北九州地方などでは濁らずに「ふく料理」、大阪などでは「テッポウ料理」あるいは「テツ料理」などとも呼ばれる。フグはその内臓などに毒(高級魚とされるトラフグなどが体内に持つテトロドトキシンが広く知られている。またハコフグが持つパフトキシンもある)を持つため扱いが難しく、日本国内の場合、多くの自治体では初期処理には専門の資格者が当たることが義務付けられている。山口県や九州などでは、ふぐ料理のことを濁ることなく「ふく料理」と呼ぶ場合が有る(観光業界関係者など。一般的にはフグと呼ぶ)。これは以下の説があるが、その由来ははっきりしていない。関西では「当たれば死ぬ」ことより「テッポウ」(鉄砲)、もしくはこれを短くした「テツ」と呼ぶ。「テッポウ」や「テツ」は元々は隠語として使われていたようで、これは江戸時代より長州藩などで武士のフグ食がしばしば禁じられていたためであった。ほかに隠語として、長崎県島原地方では「ガンバ」と呼ばれている。「ガンバ」とは島原では棺桶の方言であり、美味なフグを食す際は傍らに棺桶を用意せよとのいわれからである。また明治時代の文明開化期には、当時精度の低かった天気予報に引っ掛けた洒落で、「測候所」とも呼ばれた(あまり当たらないが、たまに当たる、の意味)。ふぐの旬は「秋の彼岸から春の彼岸まで」と言われるが、冬が最も旬となる。これはふぐ鍋など温まる料理であることともに、成長したフグが産卵のため日本沿岸に近づく時期でもあるからである。また、ちり鍋に必要な柑橘類の旬であることも一因とされる。しかし、近年は冷凍技術や養殖技術が発展し、年間を通じてふぐ料理を味わうことが可能である。また、江戸時代には夏野菜を使ったふく汁が作られていたことやトラフグの産卵期は春から初夏であることなどから、必ずしもフグの旬は冬とはいえないという考えもあり、実際に「夏ふく」を売りにしている地域も存在する。一方で、昔ながらの料理店では冬のみ、ふぐ料理を扱うことにこだわりを持つ所も少なくない。一般の魚は〆た後で、いわゆる「三枚おろし」で魚を解体する。しかしフグは毒をもつため、三枚おろし以前にその危険部位を予め取り除く作業が必要となる。この作業のことを「身欠き」と呼ぶ。またフグは棘を持つ皮で覆われているが、皮から棘を除去する作業のことを「皮むき」と呼ぶ。身欠き処理のあと、身を三枚に下ろすが、この作業のことを「磨き」と呼ぶことがある。ふぐの皮や毒を持つ部分(肝などの内臓が主)を除去する作業のことである。この作業は、後述するふぐ調理師の資格者が行う。調理師により作業内容や手順はことなるが、基本的には以下の流れで行われる。ふぐの皮は食用として珍重され、また古くは民芸品や工芸品の部材としても使用されていた。この皮むきの作業は非常に高い専門性を有し、限られた職人や加工場での作業が必要であった。しかし1990年代に入るとこの皮むき作業も実効性のある自動機械が登場し、作業効率の向上が図られるようになった。ふぐ刺しはフグの身の刺身のこと。関西ではフグのことを「テッポウ」と呼ぶことから、「テッポウ刺し」を略して「テッサ」とも呼ばれる。フグ肉の特徴(後述)として、繊維質であることが挙げられる。それゆえ、普通の刺身では弾力がありすぎて噛み切ることが難しいため、切り身が透けて見えるほどの「薄作り」で身を細く包丁で引いて刺身にする(一部には、フグの肉が稀少品だから少しでも長く味わえるための工夫した結果薄切りが一般化したという俗信があるが、これは誤りである)。この際、包丁には「ふぐ引き包丁」とよばれる特殊なものを使用する。ふぐ刺しに使われるフグ肉は、フグを〆てから布を被せて丸1日から2日程度寝かせる。これにより肉が熟成される。ふぐ刺しの盛り方として、大きい円形の皿に刺身を平たく円盤状に満遍なく盛り付ける、「べた盛り」が一般的。盛り方に工夫を凝らし、見た目にも楽しめるようにした「鶴盛り」、「菊盛り」、「孔雀盛り」、「牡丹盛り」などという盛り方もある。切り身は、箸ですくってポン酢で食べる方法が一般的である。また、薬味としてもみじおろしなどや葱も好みで使用する。湯引きした後、氷水で冷やし細切りにしたフグの皮が添えられていることもある。ふぐ鍋は、魚の切り身鍋を指す「ちり」をつけて「ふぐちり」とも呼ばれる。関西では「テッチリ」とも呼ばれる。ふぐ鍋は、昆布などで取ったダシ汁にフグの切り身や骨を野菜などと一緒に土鍋に入れて煮込む。付けダレとして、ふぐ刺しと同様にポン酢を用いることが一般的。江戸前(江戸料理)のふぐ鍋では、割り下に大量の醤油と砂糖を用いた、非常に甘辛い味付けも好まれた。鍋を食べた後に鍋の残りを塩で味を調整して、ご飯を入れて煮立たせると、ふぐ雑炊となる。ふぐの唐揚げも定番の料理である。ぶつ切りにしたフグの身を薄力粉でまぶして、油で揚げたものである。ポン酢のたれや塩をまぶして食べる。白子は雄のフグの精巣のことである。産卵期の1月から3月頃に取れたものが一番美味で、もっとも高価な料理でもある。白子焼き、白子揚げ、白子豆腐などの一品料理として出されることが多い。フグの皮を野菜やシイタケなどと煮込み、冷蔵庫で冷やしたもの。フグ皮のコラーゲンがゼラチン化してゼリー状に固まる。厳密には料理ではないが、フグの部位を日本酒に浸した物も広く知られている。「ふぐのひれ酒」は、ふぐのヒレの部分を干物に加工し、これを火で炙ったものを熱燗にした日本酒に入れて楽しむ。「ふぐの白子酒」は、ヒレの代わりにフグの精巣である白子を入れたもの。他に、フグの骨を炙ったものを入れる「ふぐの骨酒」なども知られている。石川県白山市(旧・石川県石川郡美川町地区)には、ふぐの卵巣を糠(ぬか)に漬けた「ふぐの子糠漬け」という郷土料理がある。フグの肝や卵巣はフグ毒を多量に含んでいるが、塩水に1年、糠の中に2年から3年漬けると分解され、ほとんど人体に影響を与えなくなるレベルにまで低下する。この経過を経て、ふぐの卵巣の糠漬けは珍味として重宝される。ふぐの子糠漬け、粕漬けは、猛毒のゴマフグの卵巣を上記のように加工したもので、製造・販売が許可されているのは石川県のみである。かつて、下関駅で販売されていた駅弁。1960年に登場し、10月から翌4月までの期間限定であった。ふぐをかたどった丸い容器にフグのダシ汁で炊いたふぐ飯の上に、ふぐの天ぷら、ふぐの煮つけ、山菜などが載る。福岡県には家庭料理として「てっちり」とよばれるふぐ鍋があり、ここではふぐの代わりにハモがつかわれることもある。愛媛県新居浜市発祥。フグの白身や皮などを細切れにしポン酢ともみじおろしで味付けする。ふぐざくの上にカワハギの肝が乗っているのが特徴である。魚肉は白身魚と赤身魚に大きく分けられるが、ふぐは白身魚に属する。白身魚は高たんぱく・低脂肪であるが、フグ肉は白身魚のなかでも、さらに脂質が少ないという特徴を持つことが知られている。また繊維質であるため肉質は弾力が強く、普通の刺身の厚さに切ると、一般の人では噛み切ることに苦労する。このため、ふぐ刺しではフグ肉を薄く切って盛り付ける。一般の魚は、〆てから死後硬直により身が引き締まる4時間から5時間程度以内が食べるのに適しているといわれている。しかしフグはもともと肉に弾力があるため、死後硬直から旨味成分であるアミノ酸やイノシン酸が増加し肉が軟化する24時間から36時間程度経過後が適しているといわれている。2006年現在、食用が認められているフグは、22種類で、1983年に当時の厚生省局長通達、「フグの衛生確保についての新しい措置基準」に基づく。以下この通達で認められた22種類のフグとその部位を列挙する。○の項目が食用として可能と判断されたものである。ただし、日本沿岸域、日本海、渤海、黄海及び東シナ海で捕獲されたものに限っている。また、コモンフグ及びヒガンフグの岩手県越喜来湾・釜石湾、宮城県雄勝湾で漁獲されたものは毒性が強く食用不可とされている。ここに挙げた以外の魚種、部位および海域のものを販売することは食品衛生法の第4条違反に該当する。ふぐを捌く場合、ふぐの持つ毒を含む部分と食用が許可された部分を分離する作業は、各都道府県の許可したふぐ調理師(または処理師、包丁師などとも呼ばれる)が行うことが決められている。この免許は、各都道府県のふぐ条例により定められているため、ある県で取得した免許を持っている場合でも、他県では無効となる場合が多い。また、ふぐ調理師により食用として処理された部位のみを再調理する場合に関しては、特に資格は必要としない。ただし地域によっては、飲食店等でふぐ料理を提供する・スーパー等で身欠きふぐ等を販売するといった目的で、あらかじめ処理済みの部位のみを取り扱う場合でも、別途保健所への届出・講習会の受講等が義務付けられる。日本各地に残る縄文時代の貝塚から、多数のフグの骨が発掘されている。このことより古くからふぐ食が行われていたことが分かる。また、中国では秦時代の『山海経』という書物のなかに、フグを食べると命を落とすという記述がある。平安時代の本草書である『本草和名』には「布久」という名称でふぐが登場する。文禄・慶長の役により九州に集結した武士の間で、ふぐ中毒で死亡するものが相次いだ。このため「河豚食禁止の令」が発布された。江戸時代も武士に対してはふぐ食を禁じる藩が多かった。特に長州藩は厳しく、ふぐ食が発覚した場合、家禄没収などの厳しい処分が下された。また吉田松陰はふぐ食を批判する文書を残している。しかし、江戸時代は魚の食文化が発達した時代でもあり、17世紀の『料理物語』のなかに「ふくとう汁」(ふぐ汁)の料理方法が記載されている。また、松尾芭蕉や小林一茶は河豚料理を季語にした俳句も残している。このように着実にふぐ料理は根付いていったと考えられている。そして、明治にはいってもふぐによる中毒は絶えなかった。1872年(明治5年)8月14日の東京日日新聞にはふぐ食を禁じるべきとの投書が掲載されている。1882年(明治15年)には、政府もふぐ中毒の増加を受けて、「河豚食う者は拘置科料に処する」とした項目を含む違警罪即決令を発布。1888年に、伊藤博文が下関の春帆楼を訪問した際にふぐを食べ、その味に感嘆した伊藤は山口県知事に働きかけて、山口県下ではふぐ食が解禁された。1887年、高橋順太郎教授と助教授の猪子吉人と共にフグ毒の研究を始め、1889年にフグ毒が生魚の体内にあること、水に解けやすいことなどから、それがタンパク質(酵素)様のものでないことを証明し、毒力表を作成した。東京では1892年に内臓を取り除くことを条件にふぐの販売が解禁された。他の地域はふぐの販売が禁止されていたが、ほとんど有名無実であった。1947年に食品衛生法が制定されると、各都道府県でふぐの販売に関する条例制定がなされるようになった。フグの食用・調理にあたっての条例は1948年(昭和23年)に、大阪府が制定した『ふぐ販売営業取締条例』(昭和二十三年大阪府条例第五十五号)が最初である。東京都では1949年に日本初のふぐ調理師試験が行われている。1983年に当時の厚生省局長通達、「フグの衛生確保についての新しい措置基準」により22種類の販売可能なフグとその部位が示され、それ以外の調理と販売は禁止された。
出典:wikipedia
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