早川 紀代秀(はやかわ きよひで、1949年7月11日 - )は、元オウム真理教幹部。確定死刑囚。ホーリーネームはティローパ。教団内でのステージは正悟師で、省庁制が採用された後は建設省大臣だった。麻原の信頼が厚く、裏のトップといわれた。兵庫県川辺郡東谷村(現・川西市)に生まれる。その後大阪府堺市に転居し、大阪府立三国丘高等学校を経て神戸大学農学部に進学後、大阪府立大学大学院では緑地計画工学を専攻。修了後、鴻池組に勤務。1979年11月結婚。1980年に退職する。この頃真如苑に形だけではあるが入信していた社会人時代から、SF小説や超常現象に次第に傾倒していき、麻原の著作に共感を覚え、1986年4月にオウム神仙の会に入会し、1987年11月1日に出家。青年層が多いオウム幹部の中にあって数少ない中年であり、教祖の麻原よりも年上である(麻原よりも年上の幹部信徒としては他に大内利裕や林郁夫、後述の波野村事件で早川とともに逮捕された満生均史らがいる)。出家後は不動産獲得の中心的役割を担い、富士山総本部の建設責任者になり、全国の支部道場の用地取得などを行った。また1991年、山梨県上九一色村に第2サティアンを建設し、1993年にサリンプラント(第7サティアン)を建設する。オウムの政界進出を主張し、第39回衆議院議員総選挙の教団幹部の立候補を推進した(早川自身は立候補せず、裏方の選挙支援をしている)。1988年12月に大師となり、1994年7月に正悟師となる。1989年の坂本堤弁護士一家殺害事件はTBSのスタッフが坂本堤弁護士のオウム批判のインタビュー映像を放送直前に早川に見せたことがきっかけとなった(TBSビデオ問題)。熊本県波野村の国土利用計画法違反事件で逮捕され、住居制限と教団関係者との接見禁止を条件に保釈されている(1992年夏に解除)。保釈中も教団幹部として数度ロシアを訪れた。度重なるロシア訪問でロシア政府高官とパイプを築き、1994年6月1日に旧ソビエト連邦製の30人乗り大型ヘリコプター「ミル17」をロシアから購入した。1995年4月に、建物侵入罪で逮捕。教団が初期に起こした殺人事件など計7事件で起訴され、第一審で死刑判決。裁判で教祖の不規則発言や退廷命令に号泣したこともあった。また坂本堤弁護士一家殺害事件の際に坂本龍彦の遺体に毛布をかけた理由について「別に理由はない」と言ってしばらくの沈黙の後、「寒そうだったから」と述べ、その後悲鳴に近い声を上げ、1分近く証言台に突っ伏した。控訴・上告はともに棄却され、2009年7月17日、死刑が確定した。オウム真理教事件で死刑が確定するのは6人目。2016年現在、東京拘置所に収監されている。再審請求中。オウム真理教の国家転覆計画(11月戦争計画)の根拠として、早川ノート、早川メモ()というものが一時期話題になったが、本人によれば実は岐部ノートであるとされる。
出典:wikipedia
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