全日空下田沖墜落事故(ぜんにっくうしもだおきついらくじこ)は、日本の航空会社である全日本空輸が創業後はじめておこした人身死亡事故(航空事故)である。なお事故原因は完全に解明できなかった。1958年8月12日、東京・羽田空港発名古屋飛行場(小牧空港)行きの全日空25便はレシプロ双発旅客機であるダグラスDC-3(機体記号JA5045)で運航していた。伊豆半島下田市沖上空を飛行中の午後8時30分ごろ、たまたま近傍を大阪発東京行きとして飛行していた同僚機16便に対し、左側エンジンが不調になり停止したこと、これから羽田空港に引き返すことを伝えた後、午後8時55分の通信を最後に消息を絶った。翌日になって、伊豆下田沖の利島付近の海上に25便が墜落しているのが発見されたが、乗員3名、乗客30名のあわせて33名全員が犠牲になった。最終的には犠牲者18名の遺体が収容されたが、残りの犠牲者と機体の大部分は収容されなかった。また機体は水深600mの海底に沈んでおり、当時の技術では引き上げることは不可能であった。当時の航空機にはフライトデータレコーダーやコックピットボイスレコーダーなどといった装備は取り付けられておらず、事故原因が完全に解明されることはなかった。ただし回収されたトイレの扉がロックされた状態であったことから、事故直前に使用していた乗客がいたと思われ、トラブル発生から僅かな時間で墜落したと見られている。また事故原因になったと思われるトラブルについてはエンジンの不調に加え、手動式ジャイロコンパスも不具合になったとの説もあった。また地上からの目撃証言には残された右側エンジンも出火したというものもあった。そのため同時に多数のトラブルが発生したため墜落に至ったとの推測があった。しかしながら、いずれにしても事故原因を解明するには至らなかった。9月2日に運輸大臣に提出された事故調査報告書もこれらの可能性を指摘した上で、原因を特定するのは困難であると結論付けていた。その後唱えられた説に、水平儀のポンプが不調になり、操縦士が切り替えに失敗して不作動になり、盲目飛行になり夜の海に墜落したというものがある。当時の全日空は資金に乏しく、所有していたDC-3はアメリカの航空各社から中古機を集めたものであったため、仕様が統一されていなかったという。そのため操縦室の計器板やスイッチ類の配置も機体によって違いがあり、操縦者が戸惑っていたという。左右エンジンのいずれかが作動しなくなった場合に水平儀を回す真空ポンプをスイッチで切り替える必要があったのは、事故当時就航していた9機のDC-3のうち事故機のみであったという (ほかの機体は片方のエンジンが止まっても切り替える必要が無かった)。そのため、操縦者が切替スイッチがどこにあるかがわからず、水平儀を不作動にしてしまったというものである。ただし操縦席部分のサルベージは行われなかったため、真偽は不明である。全日空は事故対策として、まず伊藤忠整備航空会社から整備士12名、加えて日本航空と日航整備から技術者5名の派遣を受けた。また整備に余力を持つため、運行時間を事故当時の月間2900時間から1800時間に減少させた。その後全日空は政府から5000万円の補助金を得て、保有する全てのDC-3の操縦系統を改修・統一した。この事件を機に、運輸当局も空港や航空交通管制といった航空行政に予算を投じるようになった。
出典:wikipedia
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