宗像 氏貞(むなかた うじさだ)は、戦国時代の大名。宗像大社第79代大宮司。居城は蔦ヶ岳城。天文14年(1545年)、筑前国の宗像大社第78代大宮司・宗像正氏の庶子として生まれる。父・正氏は大内氏に属し天文16年(1547年)に死去すると、その家督は父の猶子・宗像氏男が継ぐことになった。ところが天文20年(1551年)、陶晴賢の謀反により大内義隆が討たれた大寧寺の変において、氏男は義隆を守り奮戦するが討死した。そのため、宗像氏内部で家督争いが起こる。鍋寿丸の相続を支持する一派が白山城に、宗像千代松(氏男の弟)を支持する一派が蔦ヶ岳城に立て籠もって、家督を巡って争ったのである。しかし陶晴賢は鍋寿丸の家督相続を支持したため、鍋寿丸がこの争いに勝利して、1551年9月12日、鍋寿丸は宗像に入り、翌年宗像大宮司に補任され、宗像総領を継いだ。1552年、山田事件が起き、宗像氏男の父である宗像氏続は英彦山に逃亡するも、その年の暮れに土橋氏康によって殺害された。氏貞は山口派の領主として活動し、吉見正頼が打倒陶の兵を挙げた1554年の石見三本松城にも参加している。また、1555年の厳島の戦いで陶晴賢は自刃するが、この戦いに宗像勢も参加したという説があるが実際は不明。小早川隆景は宗像を騙り、厳島の陶軍の陣に兵を紛れ込ませたともいわれている(宗像氏の有した水軍衆は諸国に知れ渡っていたため)。1557年、鍋寿丸は元服し宗像氏貞と名乗る。翌年には杉連緒とも戦う。この頃大内氏滅亡により宗像郡内にあった大内氏所領・西郷庄の代官河津隆家が氏貞に帰属を決め、河津隆家を中心とした西郷党を支配下に置く。そして大内氏の北九州所領を引き継いだ大友氏に従うこととなる。しかし、毛利氏が北九州に侵攻すると、秋月氏らとともに大友氏を離反。1559年、宗像の地を大友氏の支援を得た宗像鎮氏が襲撃、氏貞は宗像を捨て逃亡するが、毛利氏の支援を得て、1560年に所領を奪回した。その後毛利氏と大友氏の講和が成ると、氏貞も大友氏と講和する。1567年、高橋鑑種が大友宗麟に叛旗を翻すと、氏貞も同調し、秋月種実、筑紫惟門、大友一族の立花鑑載も同調する。これにより筑前・豊前は大混乱となり、大友氏と毛利氏は立花山城攻防戦等、北九州各地で干戈を交えた。1569年、北九州より毛利氏が撤退すると、大友氏に降伏。講和条件として大友氏の重臣臼杵鑑速の娘を宗麟の養女として、1570年に妻とした。もう一つの条件として家臣の河津隆家の殺害があり、氏貞はやむなく隆家を殺害した。殺害したものの、これを深く悔やんだ氏貞は隆家の子供達を取り立てて、一門同様の扱いとした。戸次鑑連(立花道雪)が立花氏の家督を継ぎ、立花山城主となるとその関係に氏貞は心を砕いた。自身の妹を人質として側室に差し出したのも、苦心の表れであろう。1581年、秋月種実が大友領への侵攻を開始。一部の宗像家臣が立花勢の兵糧を強奪し、道雪は激怒。氏貞は謝罪に努めるも道雪は軍を出し、宗像氏への攻撃を開始した。一度は立花勢を撃退するも、最終的には守りきれず、宗像を捨てて逃亡。1584年には、側室兼人質として立花道雪の元にいた氏貞の妹・色姫が、氏貞と道雪の対立に心を痛めて自害している。1585年に立花道雪が病死すると、すぐさま反撃を開始し旧領を回復した。翌1586年、豊臣秀吉の九州征伐前に急死した。氏貞の子の塩寿丸が亡くなり氏貞の未亡人も去った為、家督は事実上擬大宮司職(大宮司職に次ぐ職)の一族の深田氏栄が後を継ぐことになった。なお、翌年の秀吉の九州征伐によって、宗像大社の大宮司の権限は、祭礼のみに限定されることとなった。氏貞の男子塩寿丸が早世していたため、宗像氏には嗣子がなかった。九州平定が成ると、筑前は小早川隆景に与えられた。宗像領は没収となり、一族や家臣らは離散。居城の蔦ケ岳城も秀吉の命で破却された。その後、毛利氏の重臣益田元祥の孫・益田元堯が氏貞の養子とされ、氏貞の娘の1人は小早川隆景の重臣草刈重継に嫁ぎ、重継は宗像氏を称した。また三女は毛利輝元家臣の市川与七郎に嫁いだ。
出典:wikipedia
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