小坂 秀二(こさか ひでじ、1918年3月16日 - 2003年4月6日)は、日本の歯科医、相撲評論家、著作家、アナウンサー。東京府東京市本所区(現・東京都墨田区)出身。東京高等歯科医学校卒業。東京高等歯科医学校を卒業後、歯科医となる。太平洋戦争で軍医として徴用され終戦まで中国の陸軍病院に勤務。NHK・TBSで相撲等でスポーツアナウンサーとして活躍。1974年にアナウンサーを引退。1975年に歯科医に復帰後は、相撲評論家・著作家としても活動し、「柏鵬時代」の命名者でも知られる。歯科診療所長を経て、自宅に総合医事研究所を開設し所長に就任し、患者の悩み事相談を受け付け、患者・医師会・厚生労働省(厚生省)の意志疏通を図った。幼年期から相撲になじみ、学生時代が双葉山の全盛と重なっていたこともあって、さらに没頭する。東京高等歯科医学校時代、翌日に大事な試験を控え猛勉強中に「双葉山70連勝ならず!」の一報が入り、その衝撃で試験のことが頭に入らなくなり、翌日、追試験覚悟で臨んだところ、試験の教授がたまたま相撲好きの人で、「小坂君、双葉山負けたね!」といきなり話をふられ、試験時間の大部分がこの会話に費やされ、あとは簡単な口答試験だけで乗り切ることが出来た、という。この時の教授には後年、相撲の席を案内して大変喜ばれ、またやはり後年、この時のエピソードを双葉山(その時点では時津風)に話したところ、双葉山は「少しは人の役にも立ったんだ」と笑って応えたという。卒業後歯科医になる。太平洋戦争で軍医として徴用され終戦まで中国の陸軍病院で勤務していたが、特例で許された休暇を使って本土へ帰還、1943年(昭和18年)5月場所(夏場所)を観戦、この場所に全勝優勝した双葉山の完成した土俵に感銘を受け、以後、終生相撲を愛することにつながったという。終戦を期に、何かしら相撲にかかわる職業につきたいとアナウンサーへの転職を決意。1947年(昭和22年)、NHKに入局(同期には北出清五郎、坂本荘、中村要輔)。面接試験で「歯科医のような立派な資格があるのに、なぜアナウンサーになりたいのか?」と問われ、「今まで他人の口で稼いできたので、これからは自分の口で稼ぎたいのです」と答えた。1952年(昭和27年)3月、それまで勤務していた大阪中央放送局から近江正俊(NHK名古屋中央放送局)とともにラジオ東京(KR→KRT。後のTBS)へ移籍。近江とともにKR草創期のスポーツ放送を支えることとなった。大相撲中継では解説者の天竜三郎と名コンビと言われた。また、スポーツ以外でも心臓病手術の模様(後述参照)や1953年9月6日のスバル座火災において実況を担当した。1961年(昭和36年)12月にボイス・オブ・アメリカ(VOA)へ出向し、1963年(昭和38年)12月にTBSの編成局アナウンス部へ復帰。その後、企画局企画室(1964年2月)→報道局解説室委員(同8月)→報道局報道庶務部(1967年4月)を経て、1967年11月15日にはアナウンサー研修室の設置に伴い同室長兼総務局付へ就任した。1972年(昭和47年)2月にティ・ビー・エス不動産へ出向し、1973年(昭和48年)3月にTBSを定年退職。1974年にアナウンサーを引退。1975年に歯科医に復帰。VOA出向からの復帰後は、スポーツ実況の一線から退いたが、解説室委員時代の1965年3月から1966年3月までは大相撲中継の解説者を務めた。TBS退職後は1975年に歯科医に復帰し、相撲評論家・著作家としても活動する。歯科医としては1989年に歯科診療所長を経て、自宅に総合医事研究所を開設し所長に就任し、患者の悩み事相談を受け付け、患者・医師会・厚生労働省(厚生省)の意志疏通を図り、歯科医療を扱う執筆活動を行う。相撲評論家・著作家としては相撲評論をはじめ、囲碁を扱う執筆活動を行う。相撲に関する著書や寄稿を膨大な数執筆し、双葉山から“若貴”までの歴代横綱のほぼ全員と面識があったという。著書の中で、柏戸と大鵬の「柏鵬時代」の語を最初に考えたのは自分だったと称している(曰く「柏鵬時代 使用随意」と大書した紙を国技館の記者控え室に貼りだした)。評論は「双葉山を絶対視し過ぎだ」という声もあるほど双葉山信仰の厚いものであった。「双葉山の相撲を(この目で直接)見たことのない人は気の毒だ」「また双葉山ですか、といわれるのは私の喜びとするところだ」と語っている(ただし、神格化については否定している)。現役大関(例:小錦、武蔵丸)の土俵態度をとり上げて「横綱の資格無し」と断じたり、横綱審議委員会不要論を展開したり、双葉山を理想視するあまり過激な論調になることもあった。一方で貴乃花を双葉山の再来と評価し、「品格がある」と称えていた。信条としては、「自分の目で見たことのない力士については書かない」「(自分が見た中で)大力士と呼べるのは双葉山だけ」「数字よりも内容重視」「2場所連続優勝、即横綱ではない」「無気力相撲かどうかは、あくまで土俵上の内容だけで判断する。裏に回って邪推することはしない」「横綱になれない力士を大関にするな」などがあった。読売新聞社発行の雑誌『大相撲』では場所後総評座談会の常連でもあり、同誌上で『相撲探求』などを連載していた。2003年4月6日午後9時30分、胃がんのため東京都内の自宅で死去した。。※特記ない限り、1955年3月までの出演はラジオ番組。
出典:wikipedia
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