


ミラクル・パワーコンビ(The Miracle Power Combination)は、プロレスラーのスタン・ハンセンとブルーザー・ブロディによるタッグチームの通称である。この他、超獣コンビとも呼ばれる。まれに全日本プロレス中継のアナウンサーが、「超ミラクルパワーコンビ」「超ミラクル野獣パワーコンビ」と「超」をつけて呼称したこともある。若手時代のブロディがまだ本名のフランク・グーディッシュを名乗っていた1974年8月、オクラホマやルイジアナなどのアメリカ中南部を拠点としていたNWAトライステート地区にて初結成。当時、同地区はエース・レスラーのビル・ワットがチーフ・ブッカーを兼任しており、ワットの右腕だったバック・ロブレイが彼らのマネージャーを務めていた(ロブレイは日本での再結成当初も両者のマネージャーとなっている)。ブロディとハンセンはそれぞれウエスト・テキサス州立大学のアメリカンフットボール出身の先輩・後輩であり、親友でもある。1974年10月10日には同地区認定のUSタッグ王座を獲得しているが、これは両者にとって初タイトルであった。翌1975年7月にダニー・ホッジ&ジェイ・クレイトンに敗れ王座を失った後、二人はコンビを解消して別々のテリトリーを転戦。以後、両者は1976年下期にWWWFで再びタッグを組み、イワン・プトスキー&ケビン・サリバン、チーフ・ジェイ・ストロンボー&ビリー・ホワイト・ウルフ、ボボ・ブラジル&S・D・ジョーンズなどのチームと対戦している。しかし、当時は同じヒール陣営のジ・エクスキューショナーズ(1号=キラー・コワルスキー、2号=ビッグ・ジョン・スタッド)がWWWF世界タッグ王座に就いていたためタッグタイトルに挑戦することはなく、それぞれWWWF世界ヘビー級王者ブルーノ・サンマルチノの挑戦者としてシングルプレイヤーとなって活動し、本格的なタッグチームを結成していたわけではなかった。その後は1979年4月21日、古巣トライステート地区のルイジアナ州ニューオーリンズにて、トニー・アトラス&チャーリー・クックと対戦、反則負けを喫している。以降、ハンセンは新日本プロレス、ブロディは全日本プロレスの看板外国人レスラーとなり、アメリカでの主戦場も異なったため再結成が実現することはなかった。本格的にこのコンビが売り出されたのは1981年末、新日本プロレスによるアブドーラ・ザ・ブッチャー引き抜きの報復として全日本プロレスがハンセンを引き抜き、年末の世界最強タッグ決定リーグ戦の最終戦に登場させたことに端を発する。この最強タッグにはブロディはジミー・スヌーカとのコンビで参戦、最終戦ではザ・ファンクスとの優勝決定戦が行われ、ハンセンはブロディ&スヌーカのセコンドとして登場。試合終盤、テリー・ファンクに場外でウエスタン・ラリアットを放ち、ブロディ組の優勝に貢献した。その後、その師匠格でもあるファンクスに対して「テキサスの化石になれ」と宣戦布告し(外国人トップの世代交代を迫る意味合いもあった)、1982年より二人は本格的にタッグを組むことになる。以降、ジャイアント馬場&ジャンボ鶴田の師弟コンビ、鶴龍コンビ、ファンクス、タイガー・ジェット・シン&上田馬之助、リッキー・スティムボート&ジェイ・ヤングブラッド、マスカラス・ブラザーズ(ミル・マスカラス&ドス・カラス)、ハイ・フライヤーズ(グレッグ・ガニア&ジム・ブランゼル)、ハーリー・レイス&ニック・ボックウィンクル、ブリティッシュ・ブルドッグス(ダイナマイト・キッド&デイビーボーイ・スミス)などのチームと対戦したが、彼らの強さは抜きんでていた。全日本の看板タッグ王座であるインターナショナル・タッグ王座には再結成直後の1982年4月に挑戦し、馬場・鶴田の王者コンビは完全に圧倒され、防戦一方でかろうじて両者リングアウト防衛、これ以降二度とミラクルパワーコンビが同王座に挑戦することはなかった。世界最強タッグの戦績は、1982年はファンクスに反則負けで敗れるものの、1983年に初優勝。1984年は鶴龍コンビに次ぐ準優勝。しかも彼らの黒星はほとんどが反則負けによるものであった。1984年4月には新設されたPWF世界タッグ王座の初代王者決定リーグ戦で優勝。最終戦で馬場&ドリー・ファンク・ジュニア組を破った時に馬場をツープラトンのパイルドライバーでKO、馬場は翌日の試合を欠場し、デビュー以来の無欠場記録が3711試合でストップしている。コンビ再結成が軌道に乗ってからはプエルトリコ(カルロス・コロン主宰のWWC)でも活動し、1984年にコロン&アブドーラ・ザ・ブッチャーと抗争した。1984年末、全日本プロレスが新日本プロレスを退団した長州力らにより設立されたジャパンプロレスと業務提携したため、主力外国人によるメインイベントが減少化の傾向にあったこと、また初来日のロード・ウォリアーズが自分より厚待遇だったことなどに不信感を抱いたブロディは、1985年3月に全日本プロレスを離脱して新日本プロレスに移籍。翌月末、ハンセンとブロディはオーストラリアに遠征してロン・ミラー&マーク・ヤングブラッドなどのチームと対戦しているが、同年をもってミラクルパワーコンビは事実上の解散となった。後にブロディは全日本プロレスに復帰するが、1987年の最強タッグでは、ハンセンはテリー・ゴディ、ブロディはジミー・スヌーカをパートナーに別チームとしての参加であった。翌年7月にブロディが急死したことで、この年の双方のチームによるタッグマッチが、日本における最初で最後の両者の対戦となった(アメリカでは1983年2月7日、ジョージア・チャンピオンシップ・レスリングのウェストバージニア州チャールストンでの興行にて、ハンセンはトミー・リッチ、ブロディはバズ・ソイヤーと組んでタッグマッチで対戦し、引き分けている)。なお、このチームは日本マットでピンフォール負けしたことは一度もない。
出典:wikipedia
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