提岩里教会事件(ていがんりきょうかいじけん)は1919年4月15日、日本統治下の朝鮮京畿道水原郡郷南面提岩里(現在の華城市郷南邑提岩里)で、三・一独立運動中に起きた事件。29人の住民が軍隊によって殺害された。三・一独立運動の余波を受けて、1919年3月30日、発安(郷南面)の堤岩里をはじめとする近隣の住民千人余りは、市(いち)の日を利用して独立万歳運動を行った。このとき警察の発砲でデモ群衆の内3人が死亡したが、この過程で興奮したデモ群衆が日本人家屋に石を投げ、日本人小学校に火を付けたので、精米業を営んでいた佐板をはじめとする日本人43人が30里(12キロ)離れたサムグェ(三槐)地域に避難した。また、4月3日にはデモ群衆が花樹里駐在所に放火し、川端豊太郎巡査を殺害した事件が起きている。4月13日に陸軍79連隊に所属する有田俊夫中尉が指揮する歩兵11人が発安(郷南面)に到着した。彼らの任務は、討伐作戦が終わった発安地域の治安維持であった。しかし、他の地域のデモの首謀者たちが、2度にわたる検挙作戦で大部分逮捕された一方で、発安デモを主導した堤岩里の首謀者は逮捕されていなかった。このような不安要素が残っていることを知った有田中尉は、4月15日午後、部下11人を率いて、日本人巡査1人、堤岩里出身の巡査補趙熙彰、そして発安で精米所を営む佐坂の案内で、堤岩里に向かった。堤岩里3.1運動殉国記念館が保管する証言資料を総合して事件の過程を再構成すると、次のようになる(ただし、時間と名前など細部において誤りがある可能性がある)。翌4月16日に現地視察に訪れた駐京城アメリカ総領事館領事、在京城米国人宣教師、AP通信の京城特派員はこの事件に関する報告書の作成・本国への提出を行い、さらにその数日後には駐京城英国総領事館からも現地調査団が現地に送られ、事件は日本軍による虐殺事件として世界中に報道された。また、事件の三日後には、在京城カナダ人宣教師が、消息を聞いて現場を訪れ、その凄惨な光景を写真に収めた。彼が記録した話と写真は、その年の9月に中国上海の有力英字紙「チャイナプレス」で連日報道された。近年発見された、当時の朝鮮軍司令官、宇都宮太郎の日記によれば、「事実を事実として処分すれば尤も単簡なれども」とし「虐殺、放火を自認することと為り、帝国の立場は甚しく不利益」となるという判断から、幹部と協議した結果「抵抗したるを以て殺戮したるものとして虐殺放火等は認めざることに決し、夜十二時散会す。」とある。関与した有田俊夫中尉の処分は30日間重謹慎処分とされたが、その後の軍法会議による判決(1919年8月21日付)で殺人・放火に関して無罪が確定した。
出典:wikipedia
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