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朝日遺跡

朝日遺跡(あさひいせき)は、愛知県清須市・名古屋市西区にまたがる弥生時代の東海地方最大級の環濠集落遺跡で、範囲は東西1.4キロメートル、南北0.8キロメートル、。最盛期の人口は約1,000人であったと推定される。縄文時代末期から弥生時代を中心に栄えた集落遺跡である。集落間の闘争の歴史と住民の生活の変化とその状況の両方を知ることができる。特に弥生時代中期の初頭は、他の集落の住民の襲撃に備え、強固な防御施設を建設していることがわかる。それは、環濠、柵列、逆茂木、乱杭などで、集落を二重、三重に囲む強固なものであった。これらは、弥生時代のものとしては日本で初めて発掘されている。これらの防御施設の発見で、集落が城塞的な姿であったことが分かり、それまでの牧歌的な弥生時代のイメージを「戦乱の時代」へと大きく変える根拠になった。また、方形の墓制(方形周溝墓跡)も発見されており、古墳時代へ変遷の萌芽を窺い知ることができる縄文中期末の土器、晩期前半の土器片が出土している。後期前葉にドングリ貯蔵穴が設けられた。貝殻山貝塚(国の史跡)や二反地貝塚、検見塚(県指定史跡、貝塚)などを中心にして環濠集落が営まれるが、当初から環濠が巡っていたのかどうかはわからない。貝殻山貝塚の南で実施された1995・1996の調査では伊勢湾周辺地域で最古段階の遠賀川系土器と最終末段階の突帯文系土器が共伴した。朝日遺跡の場合、縄文時代の貝塚とは違い、貝層の多くは集落を囲む環濠内に形成される。中期前葉には、東西にのびる谷に沿う南北の微高地に居住域と墓域が形成され、大まかには、南北に居住域、東西に墓域という配置をとるが、東西の墓域は順調に拡大して中期後半には南北居住域の周囲を取り巻くほどに成長する。中期前半には南北居住域とも大溝で外縁が区画され、南居住域は内部が大溝で区画されるだけでなく、溝や柵でさらに小さく区切られていたようだ。中期前半の東墓域では方形周溝墓のほとんどが四隅切れ(A4型)でかつ中心埋葬が木棺1基で小口板のピットを残す例が多く、土坑墓や土器棺墓はほとんど伴わない。また、継続して超大型方形周溝墓が造営され、その周りを中小規模の方形周溝墓が取り囲む集塊状の墓域形成が認められる。いっぽう西墓域では、小規模なものやA4型以外の平面形が目立ち、墓域の一角には土坑墓群や土器棺墓も伴うというように、対照的な姿をみせている。玉作工房は、(1)東墓域の北部、(2)北居住域南縁の別区、(3)北居住域内部の3ヶ所で見つかり、(1)(2)は中期前葉に属し、(3)は中期前葉から中葉まで幅がある。(1)は谷を挟んで南北に少なくとも2つの工房があり、墓域の動向からみて南から北へ移動している可能性が高いが、北の工房域の範囲は100mほどと広い。菱環鈕式銅鐸の石製鋳型はこの北工房域外縁の土坑から出土した。そして、北居住域が環濠で囲まれたことにあわせて(2)や(3)の工房が営まれ、最後には(3)で終末を迎えたとすると、操業規模は大幅に縮小したことになる。中期後半には再度北居住域を囲むように3~4条の環濠が巡り、谷にかかる部分には柵・逆茂木(さかもぎ)・乱杭などの強固なバリケードが設けられる。柵は二列で、下部に逆茂木が伴う厳重な構造であるが、中期後葉(凹線紋系土器期)に崩壊した。中央の谷にはマガキを主とする大規模な貝層が形成される。中期後葉にはハマグリを主とする貝層になる。朝日遺跡の変遷を考える上で無視できないのが、中期後葉の変化である。竪穴建物は円形が消滅してすべて方形・長方形・胴張り長方形になる。方形周溝墓は四隅切れ(A4型)が消滅して一か所切れ(A1型)となり、土器棺を含む複数の埋葬施設を伴い、周溝には供献土器以外の廃棄を伴う例が出現する。とりわけ、特徴的なのが東墓域に人々が住み始めただけでなく、それ以前の方形周溝墓を無視して新たに方形周溝墓を造営する点であり、ここに朝日遺跡の〈歴史的な終焉〉をみることができる。逆に中期後葉は〈新たな歴史の始まり〉といえる。史跡としては、検見塚があり、弥生時代中・後期の土器・勾玉などが出土している。南北の居住域はそれぞれ1~2条の環濠で囲まれる(北環濠集落・南環濠集落)が、北環濠集落の東側は中期後半の環濠を再掘削して水路が設けられ、環濠に隣接する1条にヤナ遺構が設置されていた。墓域は南北の環濠集落それぞれを囲むように営まれる。埋葬施設からガラス小玉が出土するのもこの時期からだが、装身具ではなかったようだ。壺棺には高杯を蓋にするものがあり、日本海側地域との共通性が認められる。銅鏃や鉄器(斧)が出土し、銅滴が出土した北環濠集落では青銅器が作られた可能性が高い。南環濠集落の南縁では環濠掘削以前に銅鐸が埋納された。古墳前期の竪穴建物には完全に埋没せず、長期にわたって窪地状になっていたものがあり、ほとんどが廻間III式期から松河戸I式期に属す。朝日遺跡最後の閑散とした状況を髣髴とさせる。その後は5世紀代の円墳が造られる。貝殻山貝塚資料館内のマウンドは、円墳の可能性が指摘されている。6世紀以後は湿地化して、鎌倉時代には方形土坑群が展開する墓地となる。

出典:wikipedia

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