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吉良義周

吉良 義周(きら よしちか/よしまさ、貞享3年2月22日(1686年3月16日) - 宝永3年1月20日(1706年3月4日))は、江戸時代前期の武士。高家旗本。吉良義央の孫にして養子。通称は左兵衛(さひょうえ)。出羽米沢藩4代藩主・上杉綱憲の次男として生まれる。母は側室・お要の方(茨木氏)。兄は5代藩主・上杉吉憲、弟は米沢新田藩初代藩主・上杉勝周。幼名は春千代。父の綱憲は義央の嫡男であったが、母が上杉綱勝の妹であった関係から末期養子として上杉家を継いでいた。その後、吉良家では義央の次男・三郎が嫡男となっていたが、貞享2年(1685年)に夭折し、他に男子がなかったため、綱憲は元禄2年12月9日(1690年1月19日)、次男・春千代を実家吉良家への養子とした。春千代は吉良左兵衛義周と名を改めると、元禄3年4月16日(1690年5月24日)、米沢城から江戸鍛冶橋の吉良邸に入った。時に5歳。元禄9年11月21日(1696年12月5日)、将軍・徳川綱吉に初御目見する。元禄14年3月14日(1701年4月21日)、義央が浅野長矩から殿中刃傷を受け、12月12日(1702年1月9日)、義央は事件の影響で隠居した。これに伴い、義周が相続して表高家に列した。赤穂浪士らによる討ち入りのあった元禄15年12月14日(1703年1月30日)の際、義周は18歳であった。義周も自ら武器をとって応戦したものの、不破正種(一説に武林隆重)に面と背中を斬られてそのまま気絶したものの、捨て置かれて斬首されることはなかった。事件後、すぐに家臣の糟谷平馬を使者にし、赤穂浪士による討ち入りの旨を老中稲葉正通邸に届け出ている。元禄16年2月4日(1703年3月20日)、幕府評定所に呼び出された結果、義周の当日の対応は「不届き」として改易の上、信濃諏訪藩主諏訪忠虎にお預けを言い渡される。なお、同日に赤穂浪士たちが切腹している。元禄16年2月11日(1703年3月27日)、諏訪藩士130名に護送されて江戸を出発するが、随行の家臣は左右田孫兵衛・山吉盛侍の2名のみ、また荷物も長持3棹とつづら1個だけだった。高島城の南丸に幽閉されたが、高家の子息ということで藩士たちは「左兵衛様」と敬称した。たばこも許され、衣服や蚊帳も与えられた。ただし、自殺を恐れて剃刀などは与えられなかった。義周の前へ出る藩士も帯刀を禁止された。諏訪家では、義周の処遇についてたびたび幕府に書簡を送って細々と指示を仰いでいる。義周ら一行の到着後にたびたび病気になっているが、これは一帯に蚊が多かったことが原因のようである。義周は「武芸等不得手」と文献に特筆されているように、生来虚弱な体質で病で寝込むことが多く、宝永2年(1705年)10月からは完全に寝たきりとなった。さらに、宝永元年6月2日(1704年7月3日)には実父・綱憲が死去、次いで8月8日(9月6日)には養母(祖母)・梅嶺院も死去と、身内の死が重なった。宝永3年1月19日(1706年3月3日)に危篤に陥り、20日(4日)死去した。享年21。遺体は塩漬けにされ、防腐処理が施された。同年2月4日(3月18日)、幕府の石谷清職の検死を受けた後、地元の法華寺に葬られた。なお、遺臣の孫兵衛・盛侍の両名は、義周の石塔を自然石で立てて欲しいと代金3両を法華寺に納めている。

出典:wikipedia

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