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新布石

新布石(しんふせき)は、1933年(昭和8年)に呉清源と木谷實が発表した、中央・速度を重視する新しい囲碁の布石のスタイル。それまでの小目を中心とした位の低い布石に対し、星・三々で隅を一手で済ませて辺や中央への展開速度を重視し、中央に雄大な模様を構築することを主眼とする。その斬新なスタイルと、これを駆使した呉・木谷の活躍により社会現象とも言えるブームを巻き起こした。1931年(昭和6年)頃から白番での旧来の小目定石の辺への展開の遅さにもどかしさを感じていた呉清源は三三・星を試していた。昭和8年、木谷實との十番碁で呉は黒番で当時では珍しいタスキ星を打ち、木谷もはっきりと隅より中央の勢力を重視した打ち方をした。1933年夏、十番碁第5局の途中に木谷が呉を避暑を兼ねて温泉に保養に行こうと誘い、2人で木谷夫人の実家のある長野県の地獄谷温泉にでかけた。2日目か3日目の朝、呉が木谷の部屋に行くと木谷が『布石と定石の統合』という本の口述執筆をライターにしていた。興味を覚えた呉は傍に座って講義をきいた。話の中身は中央を中心とした布石の考え方についてであり、初めは納得出来なかった呉だがしだいに理解していった。その後1周間の滞在で議論を重ね新布石の構想を練っていった。時に木谷24歳、呉19歳であった。同年秋の大手合において二人はこの斬新なスタイルを駆使し、呉が1等、木谷が2等という好成績を収めて話題を集めた。10月には呉が本因坊秀哉名人に対し三々・星・天元の大胆な布石で勝負を挑み、満天下の注目を集めた(秀哉白番2目勝)。新布石が世間一般にも広がったのは安永が書いた『囲碁の革命 新布石法』が世に出てからである。地獄谷へ行った年の大晦日、呉が西園寺先生のお宅からの帰りに木谷さんの家によると、日本棋院の編集長をしている安永が来ていた。安永は2人に新布石についてしきりに議論をもちかけた。呉と木谷がそれについて意見を述べ合い、果ては碁盤を囲み、石を並べ、議論はいつまでも果てることがなかった。夢中になって議論をしているうちに徹夜になり、いつしか夜も白々と明けて正月の朝が来てしまった。木谷の新布石の考え方は一言では説明するのは難しいが隅の地よりも中央に向かう勢力を大切にするということで、三連星は新布石の代表的なものの一つである安永が書いた『囲碁の革命 新布石法』が出版されたのはそれからまもなくのことである。この本は木谷実、呉清源、安永一の三人の共著となっているが、木谷と呉の意見を安永がまとめ見事に理論づけしたもので安永は原稿の執筆から販売まで1カ月で仕上げたと言って自慢をしていた。『新布石法』はアマチュアの間で大歓迎を受けた。1934年には発売当日本を買いに来た人の行列が発行者の平凡社の社屋を二重三重に取り巻いたという。当時で10万部売れたそうで、この時代に碁の方がこれだけ売れたのは超ベストセラーであった。とにかく新布石は大変な人気となり呉と木谷の対局で木谷の打った新布石が号外として街頭で配られたこともある。この時木谷は黒1と黒3を「5の五」に打った。この他、「4の六」は「大高目」とか「超高目」というふうに呼ばれた。煩わしい定石に縛られなくとも良い新布石はアマチュアの間で歓迎された。ともかく新布石が打ち出されたことにより、旧来の小目定石に縛られていた布石が解放されて、布石に対する考え方が自由になり、盤上の世界が広がった。新布石はしばらくのあいだ木谷と呉が大いに打ち、勝率も良かったので大いに人気を煽った。そのため他の棋士も2人にならって宇宙流を打ち、盤上では華々しい空中戦が繰り広げられた。しかし新布石が旧来の布石より必ず優れているから勝つわけではない。要は打つ人の棋力に負うものであった。この年の春期大手合では久保松勝喜代ら関西の棋士が一斉に第一着を天元に打つなど、専門棋士の間にも波及し始めた。これに対し権威者であった本因坊秀哉は否定的な見解を示し、一門の弟子たちは旧来の布石を守って新布石に戦いを挑んだ。この後、田中不二男らが7の七、5の十の四連打といった「ウルトラ新布石」を試みるなど暴走とも言える展開を見せたが、1936年ころには木谷も地を重視するスタイルに変化し、ブームとしての新布石は終わりを告げた。囲碁は終局において彼我の地域の代償を比較して勝敗を定めるものである関係上、第一に考えるねばならぬことは、いかにすれば最も有効に地域を占め得るかということでなければならない。有効ということは相手が一手ずつ打つのだから手数が最も少ないということに帰する。隅の先占が有利であるとするならば、いかなる方法で占めるか。この方法は現在までは周知のごとく「シマリ」の形式が取られている。その他に、星、三々等を上げることができるがこれは比較的少ない。三々は隅を一手で打って、その一手により隅を最も確実に独占する着手でありながら、なぜ用いられなかったのか。一体隅の先占と言うことには、単に隅を打つだけの意味ではなく、根底的に隅を囲むということが入っている。この見地から三々は隅を打って入るが、囲むべき隅を自ら消してる訳で、これが従来三々の選ばれなかった理由である。この理由から必然的に考えられることは、隅を一手で打ち切らずに、二手で打とうということである。星も三々と同じく隅に対して偏ってなく一手で打ち切ってるため、隅を囲むことに主眼をおいていた時代には同様余り多く用いられなかった。一手で打ち切るということは必然的に――隅のみに関して――後続手段の少ないことを意味する。と同時に星、三々の利益とする所は、他の小目、目外し等に比べて隅を余計に打っているだけに、他から働きかけてきた時に有利に応酬し得る。数字で例示してみると、隅を二手でシマることが「4」だけの価値と仮定すると、星や三々は一手で「2」だけ打っている。これに対しシマリの方は二手重なると「4」であるが、一手では「1」の価値しか持っていない理になる。その代わり星や三々は続いてもう一手打つと「4」でなく「3」に低減する恐れがある所に難点を持つ。詰みの重要性を考慮に入れて、隅を囲むという見地から必然的に現れるのがシマリである。しかし、この考えに至る道程を仔細に考察すると、隅の地に対する考え方は正しいが全局的の連関に深い考慮が払われていない避難を免れない。すなわちシマリの考え方が余りにも部分的である点に満足できない。これらは囲碁の根本命題であるすべての着手が最もよく釣り合いを保って連関しているべきであるということに反してくる。シマリが一つの偏りであることは済の一間ジマリはこの場合aの三々一着だけで間に合いシマリの脆弱たることが暴露している。もちろんこの図においてシマリ以外の外側の石を打つ時に、このシマリの血管を考慮すればよいのだが、外側の石は隅より外部に対してより深い交渉を持つ場合が多いから、この制限――隅のシマリを有効ならしめる――に束縛されることはそれだけ着手の自由を妨げられることになる。この考えからシマリが必ずしも絶対に優位になるとは信じられない場合が生じてくる。隅の先占次いで考えられるのは辺への発展である。辺ではどの位置が良いか。aはもっとも堅固であるがいかにも狭く、地を形成しても非常に小さい。bは中庸を得ていて内側への敵の手段を牽制していると同時に外側への相当の発展力を持っている。cに至っては辺日を取る意味から遠ざかっているので従来はあまり喜ばれなかった。これらの結果から帰納して、辺における地域の目的をすればbすなわち第三線が選ばれるのは当然であった。しかし第三線にも不利を伴っており、図においてaとbを比較して見るにaは18目bは28目、しかも石数は等しいのである。ここには重大な意味が潜んでおりすなわち二手三手位の少ない手数でへんを手に有する場合には第三線の有利を認め得るが、石数を増やすと必ずしも第三線が有利ではないことが解かる。すなわち呉は現在の地より終局の地を重視する点から考えて第三線が必ずしも最適の先ではないことを知る。a、bの手数をそれぞれ半減したc,d両図についてもこの理は通じる。以上で第三線有利の根本条件は石数の少ない、すなわちその部分で固定している地域を根底としていることが分明した。かりにこれを固定的地域と名付ける。すべて固定的のものには融通性がない。しかるに囲碁の根本命題が全局的相関にあるのでこの三線着手が囲碁の本義にもとる訳である。如上の理由から、四線または五線が辺の着手として選ばれると同時に新布石法においてはこの固定性が極度に排撃されるのである。現在は地ではないが後に至って地になる可能性のあるものを可能的地域と名付ける。可能的地域は固定的地域に比し不安を持つ反面融通性を多分に持つ。少しく誇張して言えば、融通性は不安と不確かに正比例するという意義さえ無いではない。この融通性に富むことはすなわち偏りの少ないことである。この図においてaの地は黒約45目、bの地は黒約33目しかも石数はabとも同数である。始めaの隅の方の五目だけあったものと仮定する。次にもう五目並べるとしてその線に沿って下方に並べたbよりも、右方外側に置くaのほうが優ることが分かる。要約すると固定的地域は発展性に乏しく、後続手段に対して有効に関連しにくいということである。囲碁において最も望ましいことは全ての着手が相関的に効果を持つことなので、これを囲碁の根本命題とする。固定的地域は部分的に固定している、すなわちその局部局部で完成しているわけだからそれからの発展性は少ないわけになる。すなわち囲碁が渾然たる融和を持つ一つの有機的統一体であることを妨げることになるから悪いのは当然である。星はそれ自身で隅を打ち切っていると同時に固定された地域としては隅を少しも打っていないことになる。すなわち敵の石が三々にくれば地でなくなるから星は隅を打ち、隅を打っていないとも言えるわけで、このことは隅に対して星が偏っていない証拠である。これは平均の理論から非常に重要な事であって実は星には平均の極地と言える。新布石誕生の一局と言われる。時事新聞社企画の十番碁第6局。黒は当時では珍しいタスキ星を打っている。木谷もはっきりと隅より中央の勢力を重視した打ち方に変わっている。図の局面までで打ち掛けになっていたところで木谷・呉の地獄谷での意見交換があり、再開後に呉は黒31へと模様を消した。地獄谷での新布石構想がなければ、31でなく「a」に打ち込むつもりであったという。黒31に対して白32に受けたところで、黒33と中央を意識した高いカカリを放った。この碁を境に新布石が具体化する。秋の大手合。古来からの盤面遊技に形が似ていたため、「十六むさしの一局」と呼ばれた。白の位の高い新布石に対抗して、黒の小杉四段は、意識的に位の低い布石を敷いている。黒は隅と辺で実利を稼ぎ、後は天元に打って城の中央の勢力をぼかしてしまう作戦である。小杉はこの局について「奇をもって奇に当たったに過ぎません」と述べている。報知新聞社主催の手合で木谷は黒1と黒3を「5の五」に打った。これを報知新聞は「木谷5の五に打つ」と号外として街頭で配られた。昭和8年、新布石旋風が囲碁界を吹きまくる頃、読売新聞が日本囲碁選手権戦を企画した。優勝者は本因坊秀哉名人に先番で打ってもらえることだった。呉清源はトーナメントを勝ち上がり名人と対局することなった。この対局は「不敗の名人対鬼才呉清源の対決」という謳い文句で大いに宣伝され、前人気はたいへんなものとなった。呉は気が楽である一方、秀哉名人はを総帥とする本因坊一門にとっては負ければ本因坊家の権威にかかわるので、大変に不安多い重大な対局であったに違いない。21手目まで。黒の呉が三々・星・天元と新布石を連打した。白が二隅とも小目だから、黒としては地と勢力のバランスをとるために5手目に天元を打ったのであり、特に奇をてらったつもりはなかった。ところが、これが大変な反響を引き起こした。この三手が本因坊家の布石の教えに背くものであったからである。とくに三三は坊門の中では禁手であった。坊門の棋士たちの気に障っただけでなく、一般の囲碁ファンもびっくりしたらしい。呉はそれ以前にも打っていたのだがまだ『新布石法』が一出版される直前であり、まだ世間の目にはあまり触れていなかった。また五手目に天元を打ったのは呉自身も初だった。とにかく三三の禁手を第一手目に打ったことは、世間の囲碁ファンの人気を煽ると同時に、名人に対する、いや日本の伝手王に対する挑戦である、けしからん!という調子の投書も随分と新聞社に舞い込んだそうである。ちょうどその時期は日本が満州事変を起こし、日中の関係が険悪化の一途を辿っていた頃であった。新聞も二人の対決を大げさに書き立て、周囲の関心が強まるにつれて、次第に日中対抗のような雰囲気を帯びてきた。対局は名人の健康のこともあって毎週一回月曜日に打たれ、昭和八年10月16日に開始され、翌年の1月の29日までかかった。封じ手制はなく名人の都合でいつでも白番で打ち掛けにできた。第八日目などは名人は打ち、黒の呉が二分考えてすぐに応じると、名人は三時間半も考えたあげく、一手も打つこと無く打ち掛となってしまった。碁の内容は接戦で中盤では若干黒が厚いという進行であったが、秀哉名人の160手目の妙手で5子を取り、逆転二目勝利で権威を死守した。田中不二男の「ウルトラ新布石」。呉に匹敵すると言われた才能の主だったが、25歳で夭折した。後に本因坊を連覇していた時代の高川は、「もし田中が生きていたら、僕なんかまだ頭を押さえられていますよ」と評している。旧来の碁は隅から辺へ、辺から中央へという石運びの順が決められ、絶対普遍の真理だった。呉は物心ついたころから中国古典を叩きこまれた人であり、地獄谷にも「大学」と「中庸」を持参して読みふけっていた。新布石構想の屋台骨に「中庸」の考え方があり、中国で生まれ育った天才棋士には本因坊家がどうのといったしがらみもなかった。そこに自由奔放な碁を思考して木谷が加わった。当時は三々は「本因坊家の禁手」といわれ、序盤でそこに打つのはタブーとされており、またこのような形式は、他にも随所にちりばめられていた。木谷は三連星、呉は三々、星、天元を打ち、人気を二分する両棋士が打ち始めた新布石で囲碁界は騒然となった。囲碁は地の広さを競うゲームであるため、少ない石数で地を囲うことが出来る隅から打ち始め次に辺へ、地を作りにくい中央は後回しにされていた。このような石運びは絶対の真理とされてきた。確かに地の作りやすさという点では隅・辺・中央の順である。しかし、碁全体が地を作るということに偏りすぎて、決まりきった型から抜け出せないのではないか。立ち止まって考えれば、最後に地が多ければいいのであって、最初から地を取る必要はない。石の働きには周りに対する力「勢力」があり、これを明確に意識しこれにそった打ち方があっていいはずである。地と勢力の中庸を行くべきであり、勢力によって相手の石を圧倒し、最終的に相手より多くの地を作ることを目的とした。後から思えば当たり前のことだが、「常識』という硬い殻を打ち破るのは並大抵のことではなかった。昭和の囲碁界に新布石の嵐が吹き荒れ、基本理念〈棋理)が変わるとプロ棋士から碁会所の力自慢まで囲碁が大きく変わっていった。それまでの碁法のくびきを抜け出し、石運びのスピードアップ、戦術、展開の高速化が始まった。速度(=時間)という新たな軸が明確に意識されるようになった。平面的思考だった所に時間という新しい軸が加わり、囲碁が三次元的に展開されるようになった。その一例として四線の価値が見直されたことである。極端に言えば「いま、ここ」しか見なかった囲碁の思想を「将来、全体へ」と脱皮させたのが新布石だった。部分の理に止まっていた思考を飛躍させ、盤上の風景を変えたのだった。新布石はその後、幾多の批判、修正を経ながら、旧来の考え方も融合して、今日の近代布石として確立されていった。川端康成は『木谷実選集』(日本棋院刊)の月報に寄せた一文「新布石青春」の中で次のようなことを書いている。「木谷実、呉清源の新布石の時代は、ふたりの若い天才の青春時代であったにとどまらないで、実にまた現代の碁の青春時代であった。新布石は青春の創造と冒険との情熱を燃やし、棋界そのものを鮮麗絢爛な青春とするかの新風だった。木谷、呉の後にも勿論すぐれた後進は現れたけれども、新布石時代の木谷、呉ほど明らかに時代を盛り上げ、時代を新たに画した新人はまだ出ていないと思える。木谷、呉の新布石は今日の碁の開花の象徴であった。2003年、新布石誕生70周年を祝して信州地獄谷に「新布石発祥之地」の石碑が建てられ、呉清源、大竹英雄(木谷の弟子)、木谷の遺児たちが参列して10月12日に除幕式が行われた。

出典:wikipedia

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