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冒険王 (漫画雑誌)

『冒険王』(ぼうけんおう)は、1949年から1983年にかけて秋田書店が発刊していた月刊漫画雑誌。後に児童向けテレビまんが誌に路線変更した。ここでは、1966年から1974年に発刊していた『別冊冒険王(映画テレビマガジン)』と、本誌が1983年に改名した『TVアニメマガジン』についても記述する。1949年に『少年少女冒険王』の誌名で創刊。『少年クラブ』『少年画報』『少年』などと共に子供向け漫画雑誌の一時代を築いた。増刊号として刊行された『漫画王』は兄弟誌として独立した。その誌名の通り、冒険ものの作品を多く掲載し、初期には誌名のサブタイトルに『痛快・漫画と読物』とある様に漫画だけでなく小説も連載されていた。1960年代後半、週刊誌の台頭で競合誌の休刊が相次ぐ中、漫画のラインナップや作家の複数作品掛け持ち連載など試行錯誤を続け、秋田書店自身ももう一つの月刊漫画雑誌『月刊少年チャンピオン』を創刊。そして1972年に講談社が新たに創刊した『テレビマガジン』の看板掲載作品だった『仮面ライダー』の連載を始めて以降、特撮・アニメ作品の大挙掲載を開始する。しかし、漫画誌としての側面は失われておらず、特撮・アニメ作品とのバランスをとることで『テレビランド』『てれびくん』といった後続の競合誌との差別化を図った。またこの時期には、芸能関連やバラエティ番組の人気キャラクター、スポーツ選手などの記事にも他誌より力を入れた。1970年代前半には定期別冊で『映画テレビマガジン』が刊行されていた。テレビアニメとのコミカライズとしては、原作者(当時のクレジット)の松本零士自身による『宇宙戦艦ヤマト』の連載、また『機動戦士ガンダム』のコミカライズなどがある。後の視点から振り返れば一大アニメブームを生み出した豪華作品をラインナップした事になるが、結果としてそれを全く活かせなかった。『宇宙戦艦ヤマト』については、松本零士が『銀河鉄道999』の制作に力を注ぐために休載した事もあり、非常に中途半端なものになっており、松本自身が「ダイジェスト版になった」とコメントしている。『ヤマト2』に至っては未完で終わっている。しかし1979年、新たに創刊された『コロコロコミック』にも部数面で追い抜かれた冒険王は、創刊以来続いたオリジナル漫画を一斉打ち切りとし、『テレビマガジン』『てれびくん』と同様の完全な子供向けテレビ雑誌となった。1982年からは表紙に「テレビと映画のチャンピオン」という副題がつけられた。しかし、売れ行きは低迷の一途をたどり、結局1983年4月号を最後に誌名を『TVアニメマガジン』に改めての再出発となった。ほか『別冊冒険王』は、1966年から1974年にかけて秋田書店が発刊していた漫画雑誌。1966年に『冒険王』の別冊の季刊誌として創刊。1972年夏季号から児童向けテレビ漫画誌に路線変更し、副表題『映画テレビマガジン』が付くようになった。1973年4月号から月刊化し、児童向けテレビ雑誌として初めてB5ワイド判型となった。オイルショックの影響により、1974年2月号にて休刊。誌面リニューアルについて当時編集長を務めていた成田清美は、『冒険王』本誌の漫画雑誌としての体裁を保つため、『別冊』をグラビア主体とすることで差別化を図ったとしている。『映画テレビマガジン』の名は、のちにアニメのムックに使われた。『冒険王』は、1983年5月号にて誌名を『TVアニメマガジン』に変更した。誌面のサイズは『冒険王』のB5サイズからABサイズに変更された。だが、競合誌の『テレビマガジン』に酷似した誌名や、売れ行きの悪さから、翌1984年1月号から早くも誌名ロゴを変更、サイズをB5に戻す。しかし状況を立て直すことはできず、1984年6月号を最後に休刊が決定。『冒険王』時代を含め35年の歴史にピリオドを打った。

出典:wikipedia

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