末高 信(すえたか まこと、1894年9月4日 - 1989年4月4日)は、日本の商学博士、生命保険修士会名誉会長ならびに 生命保険アンダーライティング学院創立者。東京都台東区出身。上記以外に、日本保険学会名誉会員、健康保険組合連合会顧問、社会保険診療報酬支払基金理事等を兼ねた。元・徳川幕府の幕臣であった松平信生の長男として1894年(明治27年)に生まれる。末高姓は父が仕えていた徳川慶喜が大政奉還の後、駿府入りした際に旗本の末高家の養子になり改姓したことに依る。父は 西南戦争の後徳川家のもとを離れることになり、東京日本橋で漆器問屋の娘きくと結婚、家持(地主)を営み、長男として生まれた信は、愛情に満ちた幼少時代を過ごすが、満五歳にして父はチフスで急逝した。幼い頃は病弱であったが、小学校四年から私塾において英語を学び、旧制中学に入学した頃には得意科目としていた。恩師はカトリック教徒であったが、姉の婚嫁先はメソジスト派のプロテスタント教会の長老であり、精神的迷いの中、清国、および漢民族の精神文化を理解すべく大蔵経、清国の古典、唐床の漢詩、荘子などの大部分を読破した後、旧制中学四年生で洗礼を受ける。英語が楽に出来たため、他の学科にも余裕を持って対処できた結果、成績は年々向上し、大学予科から早稲田大学商学部に入学する。しかし朝から夕まで学内の図書館で哲学、古典文学、英米文学ないし英詩、独詩にふけるゆえ、本来の専攻科目である、経済学、商学は試験を通る程度に終始するが成績が下ることはなく、ゼミでは海運論を選択し卒業論文では海運における運賃率決定の理論を英文で書いた。のちの早稲田大学総長の田中穂積および海運論担当の教授伊藤重治郎の推薦によって日本郵船公社に入社したのち、再び田中の推薦により1919年(大正8年)に教授候補者として渡米、ペンシルベニア大学の大学院商学部で交通経済学教授のもと学ぶが、法律や数学は最小限度であり、その内容は専ら経営の立場であった。そこでの保険経営学の研究が、戦後の国民皆保険や雇用政策等に関する日本政府への提言に影響したものと思われる。1945年(昭和20年)12月、SCAPによる軍人恩給禁止処分を検討する諮問機関として、厚生省保険局内に社会保険制度審議会が設置された。1946年(昭和21年)末までに500万人以上が復員、帰国した。当時、日本全体が意気消沈、混乱し、アルコール使用障害、麻薬、犯罪などが蔓延していた。そのような終戦直後に医療費負担は厳しく、疾病が貧困に陥る最大の原因の一つとなっていた。さらに国民健康保険は一億八千万円もの赤字を抱えていた。社会保険審議会が権益にしがみつき、このままでは理想的な社会保障システムは構築し得ないと考えた学者グループは末高信、大河内一男、園乾治、平田冨太郎、近藤文二らの五教授の提唱で「社会保障研究会」を立ち上げ、ベヴァリッジ報告書を基本としつつも、より急進的で、給付は同じだが、拠出金は所得水準に応じて累進的という社会保障案を提唱した。同年、社会保険制度審議会を発展させた社会保険制度調査会が設置され、社会保険の整備、拡充に関する調査研究を行なうこととなった。社会保険制度調査会は1947年(昭和22年)10月に、日本版ベバリッジ・プランと呼ばれる「社会保障制度要綱」を提出し、全国民を対象とした革新的・総合的制度を提言した。1954年(昭和29年)11月、厚生省は新しい医療体系を中央社会保険医療審議会に諮問した。これに末高は審議会会長として日本医師会の激しい反対の中、ストレプトマイシン、ペニシリンなど抗生物質の薬価引き下げを強行採決した。これに抗議する日本医師会は全員退席した。1967年(昭和42年)の論文「社会保障の生成とその展開」では、我が国の社会保障はいまだ成熟に至らず、と省み、日本国憲法第25条など憲法における国家の義務と法の精神が人々の心のうちに根を下ろし、制度の徹底と拡充をはじめとする国家の社会契約の履行には、国民国家である以上国民の声と権利の要求が結集されなければならないと記している。なお、晩年に愛知学院大学大学院教授として教鞭をとり、愛知学院大学図書館に寄贈文庫がある。
出典:wikipedia
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