アレクサンドル・ドミトリエヴィッチ・プロトポポフ(、Alexander Dmitriyevich Protopopov、1866年12月18日 - 1918年10月27日)は、ロシア帝国最後の内務大臣。内相の地位はグリゴリー・ラスプーチンの推薦による。1917年の二月革命で失脚・逮捕され、十月革命後に発足したボリシェヴィキ政権によりモスクワで処刑された。1866年、大土地所有者で織物工場を経営するシンビルスクの貴族の家に生まれる。同地出身者には後にロシア革命を主導するアレクサンドル・ケレンスキーやウラジーミル・レーニンがいる。プロトポポフはニコラエフ騎兵学校を卒業し、士官候補生として騎馬擲弾兵連隊に配属される。1889年に陸軍を除隊し、法学を学んだ後に父の織物工場の経営を引き継いだ。経営者となったプロトポポフは財界との結び付きを強め、活動の拠点をサンクトペテルブルクに移した。1907年にドゥーマ議員に選出され、に加入する。1914年5月にはミハイル・ロジャンコの下でドゥーマ副議長に就任し、1916年まで務めた後に金属加工産業協議会議長に就任するが、この協議会はドイツ帝国の企業に資本を依存する銀行によって主導されていた。同年夏にロジャンコの指示により、パーヴェル・ミリュコーフら代表団を率いて訪欧し、連合国との関係強化を図った。訪欧中、プロトポポフはドイツコンツェルンのやスウェーデン外務大臣のと会談した。イギリス・フランスを訪問した後に帰国したプロトポポフはニコライ2世に謁見し、「好意的な男」と評価を受け、アレクサンドラ皇后は彼を内務大臣に任命するように夫に勧めた。しかし、交戦国であるドイツの財界人と接触したことがニューヨーク・タイムズによって批判された。ニコライ2世はプロトポポフに好感を抱いていたが、彼に官僚としての経験がなく食料供給や治安維持への適性について不安視していたものの、9月16日に内相に任命した。リチャード・パイプスはこれにより、プロトポポフは内政における「白紙委任」を得たと指摘している。ケレンスキーは「ハンサムでエレガント、魅惑的で適度にリベラルな男」とプロトポポフを表現していたが、内相就任後のプロトポポフはリベラル色を薄め君主制の維持に努めるようになった。ニコライ2世が親征のためスタフカに常駐するようになると、国政はアレクサンドラ、プロトポポフと彼らを補佐するグリゴリー・ラスプーチン、によって動かされるようになった。プロトポポフは首相ボリス・スチュルメルの下で反動的な政策を実行していったが、ロジャンコによると、この頃のプロトポポフは精神的に不安定な状態だったという。10月にプロトポポフは、ロシアの銀行グループが国内のパンを購入し、政府を通して配給することを提案し、同時に失脚していた元軍事大臣ウラジーミル・スホムリノフの釈放を決定した。プロトポポフは財界の支持を取り戻すため、戦争産業委員会などの公的機関の統制強化を図り、11月にドゥーマの解散を要求した。11月10日、アレクサンドル・トレポフが首相に内定した。反ラスプーチン派のトレポフはラスプーチンが支持するプロトポポフに内相辞任を要求するが、プロトポポフは要求を拒否した。トレポフは首相就任の条件としてプロトポポフの解任を求め、一方のアレクサンドラは彼が内相に留任出来るように図った。11月14日にトレポフはスタフカのニコライ2世に謁見し、「条件が受け入れられない場合は首相を辞任する」と述べた。11月17日には、外務大臣がアメリカ資本の誘致を主張してプロトポポフと対立し、辞表を提出する騒ぎが起きた。閣内から辞任を求める声が挙がっていたが、最終的に12月7日にニコライ2世はアレクサンドラの意見を受け入れ、プロトポポフの留任を決定した。留任の決定後、プロトポポフはゼムストヴォの活動を禁止した。プロトポポフは1912年にラスプーチンと出会い、それ以降ラスプーチンと密接な関係を構築していた。プロトポポフは梅毒に苦しんでおり、そのため精神的に不安定になることがあり、治療のためにラスプーチンやの元を頻繁に訪れていた。また、12月16日の夜にラスプーチンのアパートを訪問し「フェリックス・ユスポフの訪問を受け入れないように」と警告しているが、プロトポポフがアパートを離れた後、ラスプーチンはユスポフの訪問を受け入れ、翌17日に暗殺されてしまう。1917年2月23日、二月革命が勃発し、25日に開かれた閣議でポクロフスキーが内閣総辞職を提案した。しかし、プロトポポフは総辞職に反対し、26日に治安部隊を指揮するバハーロフにデモ隊の排除を命令した。オフラーナは「首都の治安部隊は練度が低く、規律も乱れているので役に立たない」と忠告したが、プロトポポフはこの忠告を無視して出動命令を出し、その結果治安部隊からデモ隊に寝返る部隊が現れた。27日にニコライ・ゴリツィン内閣は総辞職する。プロトポポフは最後まで総辞職に反対し独裁権の樹立を宣言したが、彼の自宅と内務省はデモ隊に包囲され、翌28日午後11時にタヴリーダ宮殿のロシア臨時政府に投降した。臨時政府首相ゲオルギー・リヴォフは、プロトポポフが希望するなら「病気」を理由に内相の辞任を認めると言及した。「辞任」したプロトポポフはゴリツィンら元閣僚と共にペトロパヴロフスク要塞に収監された。収監中のプロトポポフは内相時代について詳細な供述調書を書いたが、やがて幻覚に苦しむようになり、軍病院に搬送された。十月革命が発生してボリシェヴィキ政権が樹立されると、チェーカーによってモスクワで処刑された。
出典:wikipedia
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