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北畠顕家

北畠 顕家(きたばたけ あきいえ)は、鎌倉時代末期から南北朝時代の公卿・武将。『神皇正統記』を著した准三后北畠親房の長男、母は不詳。官位は正二位、権大納言兼鎮守府大将軍、贈従一位、右大臣。建武親政下において、義良親王を奉じて陸奥国に下向した。足利尊氏が建武政権に叛したため西上し、新田義貞や楠木正成らと協力してこれを京で破り、九州に追いやった。やがて任地に戻るも、尊氏が再挙して南北朝が分立するに及び、再びこれを討とうとして西上し、鎌倉を陥落させ、上洛しようと進撃した。以後、伊勢・大和などを中心に北朝軍相手に互角に戦い一進一退を繰り返したが、遂に和泉国堺浦・石津に追い詰められ、奮戦の末に討ち取られて戦死した。死後、明治時代に顕家を主祭神とする霊山神社と阿部野神社が建設され、これらは建武中興十五社となった。文保2年(1318年)年3月2日、北畠親房の長男として生まれた。父の親房は後の「三房」の1人として後醍醐天皇に近侍した人物である。元応3年(1321年)1月、顕家は3歳で叙爵されたのち、さまざまな官職を歴任し、元弘2年/正慶元年(1332年)12歳までに従三位参議・左近衛中将となった。14歳で参議はほかに先例がなく、中原師守の日記『師守記』では「幼年人、参議に任ずる例」として、康元2年(1257年)11月に15歳で参議となった四条隆顕ともに記されている。元弘元年(1331)3月、 後醍醐天皇が西園寺公宗の北山第に行幸した際、顕家もこれに供し、「陵王」を舞った。『増鏡』では、このとき帝も笛を吹き、顕家が舞い終えたのち、前関白である二条道平が自身の紅梅の上着、二藍の衣を褒美として与えたという。このように、顕家は史上最年少で参議に任じられるなど先例のない昇進を示し、父親房同様に順調に出世をしていった。これは顕家の才覚が幼少期から人々に認められていたからこそであろうと考えられる。元弘3年/正慶2年(1333年)5月、新田義貞が鎌倉幕府を滅ぼしたのち、顕家は親房とともに開始された建武の新政を補佐していた。同年8月5日、顕家は従三位陸奥守となる。10月10日正三位に叙任され、10月20日後醍醐天皇の皇子である義良親王(のちの後村上天皇)を奉じ、父とともに陸奥へ下向した。11月29日、陸奥国の多賀城(宮城県多賀城市でに到着し、東北地方の統治を始める。翌建武元年(1334年)8月、顕家は津軽における北条氏残党の追討を開始、11月19日までにこれを滅ぼし、12月17日には津軽平定の功績によって従二位に叙任された建武2年(1335年)11月12日、鎮守府将軍に任ぜられる。それに先んじて、7月には東国では北条氏残党による中先代の乱が勃発していたが、8月までに足利尊氏が乱を平定していた。同月30日、尊氏は斯波家長を奥州管領とした が、これは明らかに顕家を牽制するものであった。その後、11月に朝廷は尊氏の追討を宣し、新田義貞を総大将とする軍勢を鎌倉へと派遣したが、12月まで足利方に破られた。尊氏は義貞を追撃し、京へと迫る勢いであった。12月22日、顕家は義良親王を奉じ奥州の兵を引き連れ、尊氏軍を追って上京を開始する。『太平記』によるとその兵数は5万であった。翌建武3年(1336年)1月2日、顕家軍は鎌倉を攻め、足利義詮・桃井直常の軍勢を破り、鎌倉を占領した。翌日、佐竹貞義が顕家の追撃に向かったため、顕家は鎌倉を出て進撃を開始した。その後、1月6日には遠江に到着し、12日に近江愛知川に到着した。なお、顕家の軍勢はこのとき、1日に平均40km弱も移動して600kmに及ぶ長距離を僅か半月で駆けており、渡渉などが続く中1日30kmのペースを維持している。これは後の羽柴秀吉の中国大返しを遥かに越える日本屈指の強行軍である。その後、顕家軍は琵琶湖を一日かけて渡り、翌13日に坂本で新田義貞・楠木正成と合流し、顕家は彼らと軍議を開いた。なお、顕家は坂本の行宮に伺候し、後醍醐帝に謁見した。1月16日、顕家と義貞の連合軍は園城寺を攻め、足利方の軍勢を破り、軍を率いていた細川定禅は逃げた。さらには高師直と関山で戦闘した。その後も戦闘は続いたが、1月27日から30日の戦いで義貞・正成とともに尊氏を破り、京から退去させることに成功する。2月4日、顕家は右衛門督検非違使別当に任じられ、さらには翌5日には「大将軍」の号を賜わり、「鎮守府大将軍」となった。同日に顕家は義貞とともに尊氏・直義を追討するため京都を出撃した。2月10日から11日にかけて再度の入京を目指す尊氏を摂津国豊島河原で破り、尊氏は九州へと落ち延びた(豊島河原合戦)。その後、顕家は義貞とともに足利軍を追撃し、各地を転戦したのち、2月14日に京へと凱旋した。3月2日、顕家は権中納言に任官し、3月20日あるいは24日に足利方を掃討するため再び奥州へ戻る。その帰途、相模で足利方の斯波家長の妨害を受けるが、4月にはこれを破っている。5月、顕家は相馬氏を破り、奥州へと帰還した。この間、顕家と共闘した義貞・正成が九州から北上した尊氏に湊川で敗れ(湊川の戦い)、正成は命を落とし、義貞は後醍醐帝らとともに比叡山へと逃げた。同年9月、武蔵国児玉郡浅見山(別名、大久保山)周辺域(現埼玉県本庄市から児玉町一帯)で、薊山合戦を起こす。『元弘日記』によれば、この戦は官軍が皆有利とある。延元2年/建武4年(1337年)1月、父の北畠親房から伊勢へ来援する文書が送られた。同月8日、顕家は国府を霊山(福島県相馬市および伊達市)の霊山城に移した。同じ頃、後醍醐天皇からも昨年12月に送られた京都奪還の綸旨が届き、勅命を受けた顕家は25日に奉答書を送った。その中で顕家は、「霊山城が敵に囲まれており、なおかつ奥州が安定してないので、すぐに上洛はできない。脇屋義助と連絡を取り合っている」と返答している。8月11日、顕家は義良親王を奉じて霊山城を発ち、上洛するために再び南下した。『太平記』によると、このときの軍勢は奥州54郡から招集され、その兵数は10万余騎であったという。8月19日、顕家軍は白河関を越えて下野に入り、12月8日には足利方の小山城を陥落させ、小山朝郷を捕えた。顕家は足利方の大軍を、12月13日に利根川で(利根川の戦い)、12月16日に安保原でそれぞれ破った(安保原の戦い)。12月23日、顕家率いる軍勢は鎌倉を攻撃、翌24日までにこれを攻略した。この際、斯波家長は討ち取られ、足利義詮・上杉憲顕・桃井直常・高重茂らは鎌倉を捨てて房総方面に脱出した。鎌倉を陥落させた顕家軍には新田義貞の息子新田義興、さらには北条時行が合流するなど勝ちに乗じて膨れ上がった。『太平記』によると、関東一円から顕家のもとに軍事が馳せ参じ、その数は50万に上ったというが、これは誇張であると考えられる。いずれにせよ、顕家の軍勢は大軍であったことには変わりなく、顕家は勢いに乗じて鎌倉から西上を開始する。『太平記』によると、顕家の軍は徹底的な略奪を行いながら行軍し、顕家軍が通った後には人家どころか草木も残らなかったという。同記では、これらの行動を恥知らずの夷の軍勢であるから、と批判的に説明しているが、霊山包囲などの苦境からの出撃により物資が絶対的に不足していたという事情も伺われる。延元3年/暦応元年(1338年) 1月2日に顕家は鎌倉を出発し、1月12日に遠江国橋本に、1月21日に尾張国に到着し、翌日に黒田宿へと入った。対する足利方は守護らをかき集めた軍勢を組織し対抗したが、1月28日までに顕家はこれを美濃国青野原の戦い(現、岐阜県大垣市)で徹底的に打ち破る。一時は総大将の土岐頼遠が行方不明になるほどの大損害を敵に与えたが、この戦いによる兵力の減少や疲弊により京攻略を諦め、2月には伊勢に後退した。『太平記』は、顕家が伊勢ではなく越前に向かい義貞と合流すれば勝機はあった、越前に合流しなかったのは、顕家が義貞に手柄を取られてしまうことを嫌がったからだと記述している。佐藤進一は、顕家とその父親房ともに貴族意識が強く、武士に否定的であったため義貞と合流することを嫌ったからだ、としている。また、この時北畠軍の中にいた北条時行にとって義貞は一族の仇であり、彼が合流に強く反対したため合流が果たせなかったと解釈した。佐藤進一の見解について、奥富敬之は北畠軍には義貞の次男義興もいたことから、時行に義貞への敵意、怨嗟はなく、時行が反対したとは考えられないと反論している。また『太平記』の記述については、顕家は義貞に手柄を取られることを嫌がって進軍の段取りを変えるような人物ではなく、さらに顕家は義貞よりも官職が高いことから、手柄を取られるなどとそもそも考えるはずがないとして、明らかに誤りであると指摘している。義貞と顕家に対立があったかどうかについては、史料からは明確に読み取れない。また、越前へ向かう行程は難路であり、峰岸純夫は、その行程の困難さから越前に向かう選択肢は考えられないと指摘する。奥富は、佐藤和彦の見解を「正鵠にかなり迫っている」と評した上で、顕家は、わざと寄り道をして、足利の注意を引き付けると同時に、義貞が挙兵する時間稼ぎをしたのではないかという見解を示している。一方、峰岸はむしろ合流を拒んだのは義貞の方で、義貞と北畠親子の間にはやはり何らかの確執があり、両者は不信関係にあったのではないかと推測している。さらには、義貞がいる越前は未だ安定しておらず、義貞は上洛よりも越前の制圧、平定を重視していたとも考えられる。この当時、足利側の攻勢は激しく、連帯感も取れていた。そのため、義貞も顕家も、目の前の敵の相手をするのが精一杯であり、互いに共同戦線を展開できるほどの余裕は残されていなかったとも指摘される。佐藤和彦は、北畠親房は伊勢に勢力を持っており、勝利したとはい疲弊していた顕家は伊勢にある北畠氏と関連の深い諸豪族を頼るため伊勢に向かったと推測した。2月4日、尊氏の命により、高師泰・師冬・細川頼春・佐々木氏頼・高氏らが顕家軍討伐のため京を進撃した。2月14日および16日、顕家は北朝軍と伊勢国雲出川及び櫛田川で戦ったが、決着はつかなかった。2月21日、顕家は辰市及び三条口に戦って大和を占領するが、28日に般若坂の戦いで激戦の末に北朝方の桃井直常に敗れた。そのため、顕家は義良親王を秘かに吉野へ送った。一方、河内国に退いた顕家は、伊達行朝、田村輝定らとともに戦力再建を図った。顕家は摂津国天王寺に軍を集結、3月8日に天王寺の戦いで勝利した。だが、3月13日に北朝方と再び天王寺、阿倍野及び河内片野で戦い、翌14日に天王寺で敗れた。3月15日に顕家軍は渡辺の戦いで勝利したものの、翌16日に阿倍野で戦い敗れ、和泉国に転戦した。3月21日、軍を立て直した高師直はこれを追撃し南へと向かった。3月22日、顕家は南朝から正二位・権大納言に叙任されている。同日、南朝は九州の阿蘇惟時に出兵を要請し、顕家を救援するように命じている。だが、惟時は出兵せず、4月27日に南朝は惟時に再度出兵を命じている5月6日、奥州軍は和泉堺浦の町屋を焼き、5月8日には和泉坂本郷並びに観音寺に城槨を構え、翌9日には奥州軍は熊取、佐野、長滝の各地に進撃し、北朝方の細川顕氏・日根野盛治 ・田代基綱ら現地の北朝方勢力と交戦を続けた。この間、5月10日 に顕家は東国経営の上奏文を草した。5月15日には再び後醍醐天皇に諫奏文を上奏。これが後述の『顕家諫奏文』である。顕家軍は和泉で奮戦していたが、これに対して顕家討伐に向かった高師直は、5月16日に天王寺から堺浦に向かって出撃した。そして、5月22日に堺浦で両軍は激突した(石津の戦い)。顕家軍は善戦したものの連戦の疲労に加えて、北朝方についた瀬戸内海水軍の支援攻撃を受けて苦境に立たされる。そのうえ、予定していた味方の援軍到着遅延も相まって、この戦いでは劣勢に回り全軍は潰走した。その後、顕家は共廻り等二百騎とともに石津で北朝方に包囲された。残り少ない顕家軍は決死の戦いを挑み尚も奮戦したが、顕家は落馬してしまい、ついに討ち取られた。享年21という若さだった。顕家の他、彼に随行していた名和義高・南部師行らも戦死した。顕家の死によって、南朝は同年閏7月の義貞の死と相まって大打撃を受けた。その一方で、北朝方の室町幕府は中央のみならず顕家の根拠地であった奥州においても有利な戦いを進めていく事になった。顕家の死後、6月21日に日野資朝の娘である妻は河内国歓心寺で尼となり、その菩提を弔い続けた。閏7月26日に弟の北畠顕信は南朝方によって鎮守府将軍に任命され、9月に伊勢国司の北畠顕能を残し、義良親王を奉じて親房らとともに陸奥へ向かった。だが、船団はその途中に暴風雨に巻き込まれ、顕信は義良親王とともに伊勢へ戻ったが、親房は常陸にたどり着き、北朝方と戦った(常陸合戦)。しかし、興国4年/康永2年(1343年)11月、親房は常陸を捨て吉野へと向かった。一方、伊勢に戻った顕信は翌年に再び陸奥へと向かい、顕家が拠点としていた霊山城を中心に活動した。だが、正平2年/貞和3年(1347年)霊山城が落城するなど、南朝勢力は次第に逼迫していく。観応の擾乱によって起こった北朝側奥州管領の対立に乗じて多賀国府を一時占拠するものの翌年には奪い回され、南朝勢力の回復には至らなかった。嫡男である顕成は、顕家の子ということもあって南朝からは相当厚遇されたとされるが、出家して『太平記』の一部を執筆・校閲をしたとも、奥州にとどまり浪岡北畠氏の祖となったとも、九州に下向して懐良親王に従軍したともされ、事跡が明確でない。一方、次男である師顕の系統は時岡氏となったという。文化14年(1817年)、松平定信が顕家の慰霊するために霊山に霊山碑を建てた。明治維新後、顕家の父親房が著した『神皇正統記』を先駆とする皇国史観が「正統な歴史観」として確立していくと、南朝に忠誠を尽くしてきた顕家、新田義貞、楠木正成らが再評価されるようになる。1868年(明治元年)、米沢藩の儒者・中山雪堂と医師・西尾元詢が顕家らの英霊を祀る神社の創立の運動を起こし、1876年(明治9年)の明治天皇の東北巡幸を機会として、陸奥国府があったことにより建武の新政にゆかりのある霊山が選定、 1880年(明治13年)6月に霊山の西方山麓に霊山神社が造営された。 1885年(明治18年)にこれは別格官幣社に列せられ、建武中興十五社の一つとなった。また、明治8年(1875年)に阿倍野に顕家を祀る祠が地元の人々よってに建てられた。これは明治14年(1881年)11月16日に顕家と親房の二人を祭神とする別格官幣社となり、建武中興十五社の一つ阿部野神社となった。これとは別に、江戸時代に北畠の末裔なる鈴木家次なる人物が、顕家、親房、顕信をともに伊勢多気の祠に祭り、これはのちに北畠八幡宮となった。明治14年に北畠八幡宮は村社北畠神社となり、昭和3年11月10日に別格官幣社に昇格した。こちらは顕信を主祭神とし、顕家は配祀となっている。顕家は凛々しい美青年であったと後世に伝わるが、これは脚色された部分が強いだろうとされる。顕家の容姿に関する当時の記録では、『舞御覧記』の元弘元年に顕家が後醍醐帝の北山第行幸に供して陵王を舞った際の記録がある。これには顕家の容姿に関して、「形もいたいけして、けなりげに見え給いに(幼くてかわいらしく、態度は堂々としている)」とある。とはいえ、顕家は文武両道ともに優れた人物である。公家でありながらも武将として、足利尊氏といった当時の武家らと互角に渡り合えるほどの卓越した手腕と戦略眼を持ち合わせていた。また、若年ながらも奥州の結城・伊達といった諸勢力を従わせるほどの政治手腕も持ち合わせた。顕家は南朝軍総大将の新田義貞と同様に後醍醐天皇から期待された存在であった。そして、顕家は何よりも現実を見つめていた。後醍醐帝を諌めた諫奏文『顕家諫奏文』は名文書として有名であり、建武の親政における天皇の政治の矛盾、一部側近らの横暴を厳しく批判していた。また、戦国時代の大名武田信玄よりも先に「風林火山」の旗印を用いたとされる。顕家は戦死する7日前という直前の5月15日、後醍醐天皇に対して新政の失敗を諌める奏上文『顕家諫奏』を遺した。「延喜・天暦にかえれ」をスローガンにした建武の新政だが、その内実は、宋学の影響を受けた後醍醐天皇による君主独裁制に過ぎなかった。律令制以来の国家体制の再組織を狙い、官位相当制や官職の世襲請負制を打破して、既成貴族層の解体を図る新政の改革は、顕家をはじめとする貴族層にも受け入れがたいものであった。諫奏文は「もしこの意見を聞き届けていただけないなら、自分は天皇のもとを辞して山中にこもる」と激越な文章で結ばれている。顕家の憤りの強さ、そして諫奏文を送る上での覚悟が窺える内容となっている。※日付=旧暦

出典:wikipedia

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