昭和飛行機工業株式会社(しょうわひこうきこうぎょう)は、機械メーカーで三井造船の連結子会社。社名の航空機内装備品のみならず、タンクローリーやバルク車などの特装車、給食カートや介護入浴装置などのライフサポート機器、ハニカム構造の複合材などを手掛ける。1937年(昭和12年)6月5日、元、三井合名理事長團琢磨の長女「めい」の夫である牧田環(初代社長、三井鉱山会長等も歴任。工学博士)の尽力により昭和飛行機工業株式会社が設立される。牧田環は、現在の四條畷学園小学校・中学校・高等学校の創立者、牧田宗太郎の弟であり、牧田宗太郎と日本簡易火災保険(現在の富士火災)の初代社長である井上幸治郎は親交が深かったため、牧田環は、四條畷学園や日本簡易火災保険の設立、その後において色々な影響を及ぼした。当時の日本航空機業界は、すでに欧米に匹敵する優秀な軍用航空機を製作していたため、昭和飛行機はこれを追従するのではなく、日本が立ち遅れていた輸送機の製作こそが使命と捉え、当時のベストセラー機であったダグラスDC-3に目を付け、その国産化(ライセンス生産)を目指すこととなった。航空機を製造するあたり、飛行場を併設した工場が必要であり、それには広大な土地が必要だった。検討した結果、北多摩郡昭和町、拝島村(以上現昭島市)、砂川村(現:立川市)の3町村にまたがる土地に、航空機製造工場である東京製作所を作ることを決め、工場および飛行場の建設に着手し、1938年(昭和13年)に稼働を始めた。稼働開始に合わせて、通勤者の便に配慮して、青梅線に新駅の開設の認可をもらい、昭和飛行機が駅舎用地を提供、建設費を一部負担して、昭和前駅(現:昭島駅)が開設された。工場は稼働したものの、DC-3の国産化には困難を極め、実現に3年の月日を費やすこととなる。DC-3国産化に成功し、順調に量産化を始めた頃、太平洋戦争が勃発する。1940年(昭和15年)には、日本海軍にDC-3を零式輸送機として制式採用されたことにより、終戦までに430機のDC-3/零式輸送機を製造した。戦時中には他にも、愛知航空機(現:愛知機械工業)の九九式艦上爆撃機や、川西航空機(現:新明和工業)の紫電改などもライセンス生産した。1945年(昭和20年)の敗戦とGHQ占領により、航空機事業が禁止され、この間に会社存続をかけて事業の多角化を図ることとなる。占領終結後の1957年(昭和32年)から始まった民間輸送機YS-11、続くC-1計画にも参加し、分担生産を行った。現在開発中のC-2輸送機・P-1哨戒機でも分担生産に参加している。現在、航空機事業は主力ではなく、特殊車両(タンクローリーなど)やライフサポート機器、ハニカム構造体などの製造が中心である。また、工場跡の広大な敷地を活用した不動産事業やレジャー事業にも積極的で、昭島駅前の大型ショッピングセンター「モリタウン」のほか、「フォレスト・イン昭和館」、「ホテルS&Sモリタウン」、「昭和の森ゴルフコース」、「昭和の森テニスセンター」、「フィットネスクラブ・フォーラス」などのホテルやレジャー施設を運営している。2015年3月には、モリパーク・アウトドアビレッジを開業した。
出典:wikipedia
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