成瀬氏(なるせし)は、日本の氏族。南北朝時代の関白二条良基と三河足助氏の当主・足助重範の娘(滝野)の間に生まれた子(成瀬基久)がはじまりと伝わる。その子孫は松平親氏の代から松平氏に仕えたとされている。成瀬正成が諸侯に列し、江戸時代を通して尾張藩の御附家老を勤める。その一方で『華族類別録』では第42類の藤原朝臣(藤原忠通裔)とされているが、足助氏の分流として清和源氏満政流を称することもある。徳川家康の時代には成瀬正頼の子の正義・正一兄弟が武功をあげ、大いに活躍した。正一の長男、正成は家康の元で武功を上げ、栗原藩主に封ぜられ諸侯に列した。後に尾張藩の御附家老として犬山城を与えられるが、正成の代から明治維新まで、犬山成瀬氏は陪臣の扱いを受け続けることになる。このために紀州や水戸の付家老と連携して大名への昇格を画策し、明治維新後、9代当主成瀬正肥は悲願の立藩を果たし、犬山藩の藩知事となるが、すぐに廃藩置県が実施される。維新後は男爵、1891年4月23日には子爵に陞爵した。11代当主に東京大学教授で国文学者の成瀬正勝。また成瀬氏は2004年まで国宝の犬山城を代々私有していた。正成が犬山城へ転封となった後に、栗原藩は正成の次男、之成が相続する。之虎が夭折したために、無継断絶となった。正一の次男、吉正は、はじめ家康の小姓として仕えるが出奔。浅野幸長、小早川秀秋、前田利常に仕え、最終的に加賀藩の家老となり1万1千石を領する。子孫は、人持組の成瀬掃部家。正一の家督は四男、正勝が相続する。正一の三男、正武の子孫。正武切腹後は妻於仙の実家に戻り、飫肥藩の一門三家の内、伊東主水家、伊東図書家の祖となる。正武の嫡系子孫は尾張藩士となる。明治維新の際に、青松葉事件に連座して処刑された正順はこの家の人。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。