スポルティング・クルーベ・デ・ブラガ(, )は、ポルトガル北西部の都市ブラガに本拠地を置く総合スポーツクラブである。特にサッカーチームが有名であり、ポルトガルで開催されたUEFA EURO 2004開幕前に建設されたエスタディオ・アクサ(愛称は「石切り場」)をホームスタジアムとしている。マクロン(スポーツ衣料品、イタリア)やアクサ(保険会社、フランス)がスポンサーを務めている。スポルティング・ブラガと表記される場合もある。国内大会では、1965-66シーズンにタッサ・デ・ポルトガルで優勝し、2012-13シーズンにタッサ・ダ・リーガで優勝している。2009-10シーズンにはプリメイラ・リーガで過去最高位の2位となった。21世紀に入ってからの躍進が目覚ましく、ポルトガルの伝統的なビッグ3(FCポルト、SLベンフィカ、スポルティングCP)の支配構造に風穴をあけるクラブに成長している。国際大会では、2008年にUEFAインタートトカップで優勝し、2010-11シーズンのUEFAヨーロッパリーグで準優勝した。2010-11シーズンのUEFAチャンピオンズリーグではクラブ史上初めて本選グループリーグに出場し、2012-13シーズンには再び本選グループリーグに出場した。トップチームのユニフォームカラ―が変更された1946-47シーズンにセカンド・ディヴィジョン(当時2部)で優勝し、クラブ史上初めてプリメイラ・リーガ(1部)に昇格した。また、ユースチームの名称をアルセナル・デ・ブラガに変更した。1960年代と1970年代にはリーグ戦で好成績を収め、何度か欧州カップ戦に参加した。アジアとの関係を見ると、2003年には廣山望がプリメイラ・リーガ初の日本人選手として在籍し、2005-06シーズンには金東炫が同リーグ初の韓国人選手として在籍している。2003年夏にはジェズアウド・フェレイラ監督が就任し、2003-04シーズンにはリーグ戦で5位となってUEFAカップ出場権を獲得。この時期から国内と国外での躍進が始まった。2005-06シーズンにはシーズン終盤まで優勝を争って4位となり、2006年夏にカルロス・カルヴァリャル監督が就任すると、2006-07シーズン序盤は低調な成績であり、UEFAカップでは1回戦でキエーヴォ・ヴェローナ(イタリア)に2試合合計3-2で勝利したが、グループリーグ序盤戦ではAZアルクマール(オランダ)に0-4で敗れたほか、国内リーグではCSマリティモに1-4で敗れた。カルバリャル監督は2006年11月に辞任し、ロジェリオ・ゴンサウヴェスが後任監督に就任すると、アシスタントコーチに元ポルトガル代表キャプテンのジョルジュ・コスタが就任。ゴンサウヴェス監督就任初戦のSLベンフィカ戦には1-3で敗れ、UEFAカップではセビージャFC(スペイン)に0-2で敗れた。ウニオン・レイリアに0-1で敗れた後、ゴンサウヴェス監督は2007年2月18日に辞任した。アントニオ・サルヴァドール会長はジョルジュ・コスタの監督就任を発表し、ジョルジュ・コスタ監督は就任初戦となったUEFAカップ・決勝トーナメント1回戦でパルマFC(イタリア)に1-0で勝利。決勝トーナメント2回戦ではトッテナム(イングランド)と対戦し、2試合合計4-6で敗れた。国内リーグ戦では最終節でCFベレネンセスをかわし、3シーズン連続で4位となった。2006年7月、フランスの保険会社であるアクサが年間数百万ドルを支払うスポンサーとなり、スタジアムの名称がエスタディオ・ムニシパル・デ・ブラガ(ブラガ市営スタジアム)からエスタディオ・アクサに変更された。スタジアムに命名権名称を導入したのはポルトガル初(2012年時点で唯一)である。2007-08シーズンのUEFAカップではハンマルビーIF(スウェーデン)と対戦し、アウェーで行なわれたファーストレグには1-2で敗れたが、ホームで行なわれたセカンドレグには4-0で勝利して2シーズン連続のグループリーグ出場を決めた。グループリーグ初戦のボルトン(イングランド)戦には1-1で引き分け、2戦目は優勝候補のバイエルン・ミュンヘン(ドイツ)戦だったが、ロランド・ルイスの得点でやはり1-1で引き分けた。3戦目のアリス・テッサロニキFC(ギリシャ)戦ではリンツの得点で1-1で引き分け、最終戦のレッドスター・ベオグラード(セルビア)戦は2-0で初勝利を飾った。決勝トーナメントではヴェルダー・ブレーメン(ドイツ)と対戦し、ファーストレグではPKを2度も失敗して0-3で敗れた。セカンドレグには1-0で勝利したが、2試合合計1-3で敗退した。2008年夏のUEFAインタートトカップではスィヴァススポル(トルコ)を下して優勝。その結果出場した2008-09シーズンのUEFAカップでは、予選2回戦でHŠKズリニスキ・モスタル(ボスニア・ヘルツェゴビナ)を2試合合計3-0で下し、本選1回戦のFCアルトメディア・ペトルジャルカ(スロバキア)戦ではファーストレグでアルベール・メヨン・ゼがハットトリックを達成するなどして2試合合計6-0で快勝した。3シーズン連続でグループリーグ出場権を獲得し、グループリーグではポーツマスFC(イングランド)、ACミラン(イタリア)、VfLヴォルフスブルク(ドイツ)、SCヘーレンフェーン(オランダ)と同組となった。初戦のポーツマス戦にはルイス・アギラールの1得点2アシストで3-0と勝利し、この試合は相手監督であるハリー・レドナップのトッテナム監督就任前ラストゲームとなった。サン・シーロで行なわれたミラン戦では長い時間試合を支配し、試合終了直前の93分まで無失点に抑えていたが、35mの距離からロナウジーニョにミドルシュートを決められて敗れた。決勝トーナメント1回戦ではフェリックス・マガト監督率いるヴォルフスブルクと対戦し、2点先行したが2-3で敗れた。ヘーレンフェーン戦には2-1で勝利し、2勝2敗の勝ち点6でグループ3位となって決勝トーナメント進出を決めた。決勝トーナメント1回戦ではスタンダール・リエージュ(ベルギー)と対戦し、2試合合計4-1で勝利した。決勝トーナメント2回戦ではパリ・サンジェルマンFC(フランス)に2試合合計0-1で敗れたが、UEFAインタートトカップ優勝組(11クラブ)の中では最高の成績を残した。2009-10シーズンの国内リーグでは開幕から7連勝を記録し、その後も安定した成績を残して2010年1月まで首位を守った。その後も2位の座を守りきり、ベンフィカと勝ち点5差の2位でUEFAチャンピオンズリーグ出場権を獲得した。2010-11シーズンにはクラブ史上初めてUEFAチャンピオンズリーグに出場した。予選3回戦のセルティックFC(スコットランド)戦ではホームで3-0と快勝し、アウェーのセルティック・パークでは1-2と敗れたものの、2試合合計4-2としてプレーオフ出場を決めた。プレーオフではセビージャと対戦し、2試合合計4-4(ホームで1-0、アウェーで3-4)ではあったが、アウェーゴールルールで本選グループリーグ初出場を決め、アーセナルFC(イングランド)、FCシャフタール・ドネツク(ウクライナ)、FKパルチザン(セルビア)と同組となった。ブラガのユニフォームカラ―はアーセナルに由来している(後述)。グループリーグ初戦、エミレーツ・スタジアムで行なわれたアーセナル戦には0-6で大敗し、シャフタール戦には0-3で敗れたが、パルチザン戦には2-0で勝利した。その2週間後には再びパルチザンに1-0で勝利し、ホームでのアーセナル戦には2-0で勝利した。5戦を終えて3勝2敗(勝ち点9)のグループ2位だったが、最終戦のシャフタール戦に0-2で敗れ、またアーセナルがパルチザンに勝利したことでグループ3位に転落し、シャフタールとアーセナルが決勝トーナメントに進出した。ブラガはUEFAヨーロッパリーグに回り、レフ・ポズナン(ポーランド)、リヴァプールFC(イングランド)を破って準々決勝に進出した。欧州カップ戦でベスト8以上の成績を残すのはクラブ史上初だった。準々決勝ではFCディナモ・キエフ(ウクライナ)を破り、ベンフィカやFCポルトとともに、欧州カップ戦で初めてベスト4にポルトガルから3クラブが勝ち残った。同国対決となった準決勝のベンフィカ戦ファーストレグには1-2で敗れたが、セカンドレグには1-0で勝利し、2試合合計2-2ながらアウェーゴール差で決勝進出を決めた。アイルランド・ダブリンのアビバ・スタジアムで行なわれたポルトとの決勝には0-1で敗れて準優勝に終わった。国内リーグこそ4位と順位を落としたが、ドミンゴス・パシエンシア監督の下、クラブ史上最高のシーズンのひとつとなった。2011年夏にはパシエンシア監督がスポルティングCPに引き抜かれ、レオナルド・ジャルディム監督が就任した。国内リーグではクラブ新記録となる13連勝を記録し、最終的に3位となった。2012-13シーズンのUEFAチャンピオンズリーグ・プレーオフではウディネーゼ(イタリア)と対戦し、ホーム&アウェーの2試合とも1-1だったが、PK戦に勝利して2シーズンぶりの本選グループリーグ出場を決めた。ホームで行なわれたグループリーグ初戦のCFRクルジュ(ルーマニア)戦に0-2で敗れ、アウェーで行なわれた第2節のガラタサライ(トルコ)戦には2-0で勝利した。オールド・トラッフォードで行なわれたマンチェスター・ユナイテッドFC(イングランド)戦では2点先行したが、逆転されて2-3で敗れた。ホームでのマンチェスター・U戦でも80分まで1-0でリードしていたが、逆転されて1-3で敗れた。アウェーでのCFR戦、ホームでのガラタサライ戦にも敗れ、1勝5敗(勝ち点3)のグループ最下位で敗退した。同シーズンの国内リーグ戦では前年度からひとつ順位を落として4位となり、4シーズンぶりにビッグ3以外のクラブ(3位はFCパソス・デ・フェレイラ)の後塵を拝した。タッサ・ダ・リーガ(リーグカップ)の準決勝では4連覇中のベンフィカと対戦し、ポルトガル国内の3大会(リーグ、カップ、リーグカップ)でシーズン開幕から26戦無敗を続けていたベンフィカにPK戦の末勝利した。決勝では国内リーグで開幕から25戦無敗を続けていたポルトを1-0で下した。2007-08シーズンの初開催以来ベンフィカが4連覇していた大会で初優勝を果たし、1965-66シーズンのタッサ・デ・ポルトガル以来となるタイトルを獲得した。最大のライバルはヴィトーリア・ギマランイスであり、ブラガとヴィトーリア・ギマランイスの対戦はオ・デルビー・デ・ミーニョ(ミーニョ・ダービー)と呼ばれる。ブラガとギマランイスはともにブラガ県に所在し、両都市は約18kmの近距離にある。ブラガ県はかつてミーニョ州という行政区分に含まれ、現在でも付近はミーニョ地方と呼ばれる。このダービーはポルトガルでもっとも白熱する試合のひとつであり、13歳以下の子どもは保護者同伴でない限り入場を制限される。ライバル意識はブラガがガラエキア(古代ローマの属州)の首都だった時代に遡る。12世紀にアフォンソ1世がポルトガル王国を形成するまで、ブラガはポルトガル最大の都市だったが、その後ギマランイスが国王と貴族の地となり、ブラガは宗教の中心地(大主教の地)としての地位にとどまった。ブラガ市のエンブレムは青色の盾の上に銀色の城壁冠が被された構図であり、盾の中にはイエスを胸に抱いた聖母マリアと2本の塔が配置されている。SCブラガのエンブレムもブラガ市のエンブレムに良く似ているが、盾の色は赤色と白色であり、城壁冠の色は金色である。また、盾の中には「Sporting Clube de Braga」というクラブ名称が刻まれている。多くのブラガファンは聖母マリアがクラブに幸運をもたらすとしている。当初はスポルティングCPのような緑色と白色のユニフォームだったが、1940年代に在職したジョゼ・アントゥネス・ギマランイス会長がアーセナルFC(イングランド)のファンであり、ロンドンに仕事上のつながりを持っていたため、1940年代半ばにアーセナルのような赤色のユニフォームに変更した。なお、これは一つの説であり、アーセナルのプレースタイルを愛したハンガリー人のヨージェフ・サボー監督が会長にユニフォームカラ―の変更を求めたとする説もある。これらのことから、クラブやサポーターにアルセナリスタス (Arsenalistas) という愛称が用いられる。また、ブラガがあるミーニョ地方はかつてケルト人が居住してブラカリ (Bracari) と呼ばれていた土地であるため、ブラカレンセスという愛称も持っている。括弧内の国旗はその他の保有国籍を示す。
出典:wikipedia
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