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人生の意義

人生の意義(じんせいのいぎ、人生の意味とも、)とは、人生において目的や意味とはあるのか、あるとすればそれはいかなるものなのかという問いである。一般的に用いられる日本語表現では「人生の意義」などとは表現せず、むしろ「生きがい」という表現のほうが定着している。この問いは、経済的に豊かな国であるほど、切実な問題となってくる傾向がある。経済的・物質的に豊かな国の人々ほど、ひどい「空虚感」や「心のむなしさ」にさいなまれている人の数が増える傾向がある。アブラハム・マズローは人間は基本的欲求のすべてを満たして、ようやく「自己実現の欲求」といった高次欲求にかられ始める、と言っているが、「豊かな社会」は基本的欲求を満たしやすい社会なので、高次の欲求が発現しやすく、それが満たされない苦しみにさいなまれやすいという面がある、と諸富は言う。人生において、このような命題が人の心を捉える時期は3つある、とも言われる。思春期、中年期および老年期である。思春期を経た者の多くは、その段階なりの解答を持つ。中年期にもこのような問いが心を捉えることがある。これは「」などとも呼ばれる。深層心理学者のユングがこのような中年期の危機の問題に早くから関心を抱いた。傍から見ると特に何の問題もない人で、むしろ財産・地位・家族などについては恵まれた状態の人に、このような問いで悩む人が多くいる。若いころに、「財産・地位・家族などを手に入れれば幸福になれるに違いない」と思い込み、ひたすら頑張ってきたのに、いざそれらを手に入れてみると、まったく幸福という実感が無く、自分の人生に「大切な何か」が欠けている、という気がして仕方なくなり、「人生のむなしさ」を痛感する人が多いのである。この段階で、あらためて「残された人生で、私は何をすることを求められているのだろう?」「自分の人生を意味あるものにするためには、今後どう生きてゆけばいいのだろう?」という問いに真正面から向き合うことになるのであり、そして老年期にも、このような問いが心をとらえることがある、と諸富は述べる。神谷美恵子は以下のことを指摘する。「自分の存在は何かのため、またはだれかのために必要であるか」という問いに肯定的に答えられれば、それだけでも充分生きがいをみとめる、という人は多い。老年期の悲哀の大きな部分はこの問いに充分確信をもって答えられなくなることにあろう。よって老人に生きがい感を与えるには、老人にできる何らかの役割を分担してもらうほうがよい。また、愛情の関係としても老人の存在がこちらにとって必要なのだ、と感じてもらうことが大切である。この問いは、そもそも自身の価値観の決定あるいは態度決定に関する問いであるので、学問や科学は、この問いに対する解答を与えてくれはしないとマックス・ウェーバーはしている。この問いに対する回答は宗教や哲学の中に見出すことができる。あるいはそれらを表現した文学や音楽などの芸術作品の内にも見出すことができる。功利主義の起源はエピクロスまで遡れるものの、学派としてのこの思想の創始者はジェレミー・ベンサムであるとされており、彼は快と不快という二つの支配者の下にあることが人間の自然であると主張し、そして道徳的洞察から功利性の支配(Rule of Utility)という説を展開し、「」とした。彼は生きる意味を「最大幸福の原理」として定義した。なお、ジェレミー・ベンサムの第一の支持者は彼の時代の著名な哲学者であるジョン・ステュアート・ミルの父であるジェイムズ・ミルである。ジョン・ステュアート・ミルは父の仕事の多くからの転写と要約を含むベンサムの原理によって教育された。ニヒリズムは、人生には意味はない、と示唆・主張する。簡潔に言うと、ニヒリズムというのは「最も高い価値があるものを無価値にしてしまう」過程と言える。だからニヒリズムでは「“人生の意味”などというものはない」と考えることになる。フリードリヒ・ニーチェは、ニヒリズムの特徴というのは、世界・人間の意味・存在・目的・可知的真理・本質的価値などを空っぽにしてしまうことだ、と述べた。またニーチェは、要はニヒリズムというのは目的が欠如しているのだ、と述べた(後述)。そしてニヒリズムを乗り越えるべき、とした。マルティン・ハイデッガーは、ニヒリズムというのは、「存在」が忘れ去られてしまい、存在を価値へと変容させてしまう動きであり、価値へと交換するために存在を減らしてしまうことである、とした。フランスの哲学者アルベール・カミュは、「人間の条件」の馬鹿げているところは、世界に外在的(客観的)な価値や意味を求めてしまうことである、とした。世界には客観的には意味はなく、人間に対して無関心である。カミュは自分の作品において、ニヒリスト的な価値観を持つムルソーという人物を登場させたが、またその一方で、意味の無い世界であっても「英雄的なニヒリスト」になろうと闘う人々も登場させた。それはたとえ意味が無いと分かっていても尊厳とともに生きる人々であり、いわば「世俗の聖人」たちで、友愛の団結で結ばれて人生を生き、世界の無関心に対して戦いを挑んでそれを見事乗り越える人々を描いたのである。実存主義においては、それぞれの男と女は彼と彼女の人生の本質(意味)を創造する、とされる。そして、人生は超自然的な神ないし地上の権威によって決定されておらず、我々は自由である。かくして、我々の倫理的で主要な行いは自由、そして自己決定である。このように、実存主義は理性を重要視する合理論や科学的な見方をする実証主義に反対する。人生の意味を知ることに関して、実存主義者は理性のみを用いるのは不十分であるとする。この不十分は不安と恐怖の感情を起こし、自由への直面と同時に起こる死の自覚を我々に感じさせる。実存主義者にとっては、(サルトルが言ったように)実存は本質に先立ち、一人の者の人生の本質は一人の者が存在するようになる後のみに生じている。セーレン・キルケゴールは「信頼の跳躍」という言葉を作り、人生は不条理で満たされていて、世界は我々に無関心ではあるが、我々人間は自分自身の価値を作るべきなのだ、とした。我々は、人間という有限な生しか持たない存在とも、条件をつけたりせずに関わりを持つことによって、意味に満ちた人生を生きることができるのであり、それによって絶望と不安から解放されるのである。たとえ他の人々と関わることは自分が傷ついてしまう結果をうみがちだとしても、それでも他の人々と関わり合うことで、そうすることによってこそ、意味のある人生が送れる、とした。アルトゥール・ショーペンハウアーによると、「人生の意味とは何か?」という問いにおいて、我々の生は我々自身の意志を反映しているのであり、意志、生には目的がなく、非合理的で、苦痛を伴う運動だと定められている。ショーペンハウワーによれば、美的な瞑想、他者からの共感を求めること、そして禁欲主義というのは、救い・救済・痛みからの逃避なのである。ニーチェに言わせると、生きたいと思わせるような目的がある時にだけ、人生というのは生きるに値する。ニーチェは、「全ては意味が無い」などとしてしまうニヒリズムなどというのは要は目的が欠如しているのだ、と指摘した。ニーチェはまた禁欲主義というのも人生の否定だ、とした。ニーチェは、価値というのは、客観的な事実なのではなく、人間の理知が必要としているものなのであって、世界と自分を結ぶコミットメントなのだ、と述べた。つまり結局、人生をどう評価するか、ということは解釈の問題なのであって、世界自体が(客観的に)どうあるか、という問題ではないのである。そして人が想うことは、その人の特定の立場から来ているのだ、とした(ニーチェのこの考え方は「 遠近法主義」と言う)。論理実証主義者は「人生の意味とは何か?」そして「問うことに意味はあるのか?」と問いかけたことがある。 もし客観的な価値が存在しないとすれば、人生は無意味なのだろうか?これに対してルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインと論理実証主義者たちは「言語によって表現されるならば、その問いは無意味である」と言う。というのも人生において「xの意味」という言明は、通常xの結果か、xの意味(significance)か、あるいはxにおける顕著なもの等々を示すのであり、したがって、人生の意味の概念が「x」と等しい時、「xの意味」という言明において、その言明は再帰的であり、したがって無意味であるか、もしくはそのことは、生物学的生は人生において意味を持つことが本質的であるという事実を示しているかである、とする。プラグマティズムは19世紀後半のアメリカで形成された。プラグマティズムの哲学者は、人生の実践的で有用な理解こそが、人生の非実用的で抽象的な真理探究より重要である、とする。プラグマティズムの哲学者ウィリアム・ジェイムズによると、人は人生が順調に進んでいるときは「生きる意味があるのか?」などとは考えないのであって、人は自分の人生で何か壁にぶつかった時に「何のために生きている?」などと疑問に思うという。ジェイムズに言わせると、「人生は生きるに値するか?」などという問の真の意味は「最近私の人生はつらいことが多くてやってられない!」ということであって、要は愚痴なのだ、という。ジェイムズに言わせれば、「人生は生きるに値するか?」の答えは、「人生は生きるに値するから値する」であって、「人生の意味とは何か?」などという本質を求める問いは止めて、人生の実際的な効能に着目したほうがいいという。人がどのように思うかということは、その人の人生で起きることに影響しており、ポジティブに考えて行動するからポジティブな結果が生まれる。人生は生きるに値すると思って行動していれば、実際に生きるに値する人生になる、とする。仏教では、最高のボーディ(菩提、悟り)を得た状態で人生を生きること、つまりブッダとして生きること、あるいはその状態に少しでも近づくことに意味があるとする。聖徳太子は仏教のことを、「四生の終帰、万国の極宗」とした。親鸞を開祖とする浄土真宗においては、全ての人間には生きる意味があると明示されている。欲望や怒りなどの醜い心によって苦しみ続け、自らの力では迷いの世界から脱け出せない凡夫のために、阿弥陀如来という仏がそれらの者を極楽浄土に往生させ、仏のさとりを開かせるという本願(誓願)を建てられた。極めて長期間の修行の結果、その本願を実現させるための功徳(南無阿弥陀仏)は十劫の昔に成就されている。それ故、その阿弥陀仏の本願を疑いなく信ずる(はからいなく聞き容れる)一つで、平生から成仏する身に定まるのである。これを信心決定と言う。感謝と慶びの心からその者は念仏を称えるが、それは救われた者の姿である。心にむなしさを感じるとき、キリスト教の教会は、そこでの交流を通して、また人文科学的に聖書の中の人物や知恵を知りつつ、イエス・キリストを模範とし、本当の人生のあり方に気づきそれを実践し体験することで、成熟した人生を得ることができる場である、とされる。以下『聖書』よりゲーテは大作『ファウスト』において人生の意味をテーマとして扱っている。そこでは、今ある空虚を満たそうと欲望をどれほど追い求めてもその空虚は埋まらない、それどころか、欲望の充足を追求すればするほど、かえってその空虚が際立ってくる、ということを示している。金が欲しい、地位や名誉が欲しい、異性が欲しいなどの欲望は、欲望を満たしたとたんに次の新たな欲望が生じ、どこまでいっても満たされない、という「永遠の欲求不満」の状態に置かれてしまう。『ファウスト』第一部では、大学者のファウストは学問を究めつくしても人生はただむなしいだけと気づく。そこで悪魔メフィストファレスと交渉し、ファウストを満足させられたら死後の魂を差し出してもかまわない、と約束する。ファウストは悪魔の力で若さを得て、マルガレーテと恋をし身ごもらせるが、その結果母と兄を失うことになった彼女は生まれたばかりの赤ん坊を沼に沈めて殺してしまう。ファウストは「ああ、俺は生まれてこなければよかった」と嘆く。第二部では、懲りないファウストは皇帝の家臣となり、ふたたび悪魔を説き伏せ、黄泉の国からギリシャ神話の伝説の美女、完全な美の体現のヘレナの霊を呼びださせ、結果としてふたたび恋におち、子供をつくり平和な家庭を築き、今度こそ満足のゆく生活を手にしたかのように見える。だが愛する子オフィリオンは平和な家庭を否定し、戦いを求めて旅立ち死んでしまう。では、その後ファウストが、「ここにこそ人生の意味がある」と思え、「時よ止まれ!お前は美しい!」と叫ぶことができるようになったのはどのような時かというと、自分の欲望の満足させようという思いは捨て去り、万人のための自由な国を建設しよう、と人々のための「理想の国」実現に向けて戦いはじめた時であった。つまり、『ファウスト』における「人生の意味」「本当の幸福とは何か」「本物の満足とはどのようなことか」というテーマの答えは、自分の欲望の満足へのこだわりは突き抜けて、それを手放し、自己(小我)を超越し、利他の状態に状態に至ったときにはじめて手に入るものだ、ということである。なお、ファウストの心の旅があらゆる学問への絶望から始まるように、人生の意味や真の幸福というのは、学問や思索によって得られるものではないのであり、「人生の意味は○○である」とか「真の幸福とは○○」であるということを書物や文章を読んで学んだところで、それで人生の意味や幸福が得られるわけではなく、実際に「自分の命を懸命に燃やす」ことによってのみ人生の意味や真の幸福はつかむことができる、と表現されているのである。五木寛之は著書『人生の目的』の「あとがきにかえて」でその見解を示している。人生の目的を得るとは、何らかの「人生の物語」を持つ、ということであり、そのためには、物語を自分で作るという方法と、偉大な物語を信じる(=信仰を持つ)という方法がある、ということが示されているのである。ヴィクトール・フランクルは以下のように述べた。多くの人は人生を「自分がしたいことをしてゆく場」と捉えてしまっている。このような「私のやりたいことをするのが人生だ」という人生観(欲望中心の価値観)に対し、フランクルは「私がなすべきこと、使命を実現してゆくのが人生だ」と述べているのである。欲望中心の価値観では、例えば病気や人間関係等のトラブルはただの邪魔なものとしか眼に映らないが、「意味と使命中心の生き方」「なすべきことをなす生き方」では、それらのトラブルは何らかの意味がある、と受け止められるようになる。「これらの出来事を通して、人生が私に何かを問いかけてきている」「私に何を学ばせようとしているのだろう?」と受け止めることができるようになる、といったことをヴィクトール・フランクルは言っている。そして「人生が自分に求めていること」を見つけるための手がかりとして、"三つの価値"を提示する。「創造価値」「体験価値」「態度価値」である。日本語で「生きがい」と言うと、対象を指す場合と、感情を指す場合がある。生きがいを感じさせる対象を「生きがい」と呼び、それを感じる人の感覚・感情を「生きがい感」と呼び分けることもできる、と神谷美恵子の著書『生きがいについて』で述べている。人は長い一生の間にはふと立ち止まって自分の生きがいは何であろうか、と考えてみたりすることがあり、このようなときは、大まかにいって次のような問いが発せられるわけだろう、と神谷は述べる。人間が最も生きがいを感じるのは、自分がしたいと思うことと義務とが一致したときだと思われ、それは上記の問いの第一と第二が一致した場合であろう、と述べる。だが、これらは必ずしも一致しない。生活のための職業とは別に、ほんとうにやりたい仕事を持っている人も多い。それらの両立が困難になると、うっかりすると神経症になる人もあり、中には反応性うつ病や自殺にいたる人さえいる。「生きがい感」を一番感じている人種というのは、使命感に生きている人(自己の生存目標をはっきりと自覚し、自分の生きている必要を確信し、その目標にむかって全力で歩いている人)、ではないか、と述べる。このような使命感の持ち主は、立派な肩書や地位を持って目立っているというわけではなく、むしろ人目につかないところに多くひそんでいて、例えば小、中学校の先生、特殊教育に従事する人、僻地の看護士など、いたるところにいる、と述べる。社会的にどんなに「立派」とされることをやっている人でも、自己に対してあわせる顔のない人は次第に自己と対面することを避けるようになる。心の日記もつけられなくなる。ひとりで静かにしていることも耐えられなくなり、自分の心の深いところからの声に耳をかすのも苦しくなる。すると、生活を忙しくして、この自分の心の深いところからの声が聞こえぬふりをするようになる。この、「自己に対するごまかし」こそが、生きがい感を何よりも損うものである、と指摘する。使命感に生きる人にとっては、たとえ使命半ばで倒れたとしても、事の本質は少しもちがわない。自己に忠実な方向に歩いているかどうかが問題なのであって、その目標さえが、正しいと信じるところに置かれているならば、使命の途上のどこで死んでも本望であろう、と述べる。これに対して、使命にもとっていた人(使命に背いていた人)は、安らかに死ぬことすらできない。神谷は、難病にかかったり、恋人を失ったり、子供を失ったり、職を失うなどして生存目標を失うと、人は「前途が真っ暗な世界に閉ざされた」「世の中が真っ暗になった」「深い谷底につき落とされた」などといった感覚を味わうとしており、カール・ヤスパースやクーレンカンプ(Kulenkampff, C)が「足場」とか「立場」などと表現しているのは、決して抽象概念などではなく、人間の根源的な感覚に根ざした表現である。それまで生存目標としていたものが失われると、人はもはや何のために生きてゆくのか、何が大切なのか、判断の基準すら分からなくなる。つまり価値観が崩壊し、これは概念レベルにとどまらず、もっと根本的な生体験(感情や欲求や知覚)にも影響を及ぼす。新しい生存目標の発見は、自分自身の本質的なものの線に沿ったものではなくてはならない、と神谷は言う。自分自身の本質に沿ったもので、これ以外に自分の生きる道はないのだ、とわかったら思い切ってそれを選びとるほかはない、この決断と選択と賭けの前にしり込みしたときには、いわゆる実存的欲求不満の種をまくことになり、後日に神経症や「にせの生き方」や自殺をひきおこす、と述べる。新しい生存目標は、かつてのものと比較して類似のものに変形したり、すっかり置き換えられたりする。人間への愛が生きがいという状態から、神への愛こそが生きがい、と変わる場合もある。神秘家などにこの例は多く、失恋を契機として修道院での人生を選ぶ人などもこの例にあたる。生きがいの置き換えのことを、リボーは「情熱の置き換え」と呼んだ。例えばゴーギャンにおいては、株の仲買人で生きていたが、35歳の時その職を捨て、絵画に走り、現世的な幸福はすべて捨てさってしまった、という。結局、自分の内にさまざまの可能性を持っている人は、ひとつの生きがいを失っても、ほかの生存目標をみいだし、強く生きてゆけるのではないか、と言い、内在的傾向の複雑なひとほど生きがいの置き換え現象が起きやすいのだろう、とする。また、ある事例を挙げて、全てのできごとを「天の摂理」として受け入れる素朴な宗教心をもっている人だと、新しい境遇に置かれればまたそこで新たな生きがいを見出すものだ、とも述べる。“宗教というものは現世において満たされない欲求を埋め合わすもので、代償と自己防衛の役割を果たしているものに過ぎない”、などと考えてしまう人が多くいるが、もし仮にそのようなものだとしたら、現実の苦悩の原因がとりのぞかれれば宗教は必要でなくなってしまうということになるが、実際はそうではない、と神谷は言う。ゴードン・オールポートの著書に明快に書かれているように、宗教とは、人格に統一的な原理を与えるものであり、宗教とは、自我の成長の各段階において存在全体を意味づける前進的意図を用意するものである。宗教が積極的な生きがいを人に与えうるとしたら、まさにこのような意味での宗教でなくてはならない、と神谷は述べる。このような宗教は、単なる思想や理想の意味をこえて、人間の心の世界を内部から作りかえ、価値基準を変革し、もののみかたのみならず、見えかたまで変え、世界に対する意味づけまで変える、とする。また、多くの思想家や心理学者の言うように、宗教の果たしうるもっとも本質的な役割は、人格に新しい統合を与え、意味感、すなわち生きがい感を与えることであろう、とも述べる。ポジティブ心理学の研究者達は、人生の満足 、活動への全面的関与、自分の個人的な強みを用いて十分に貢献すること、自分より大きいものに関わる意味、などをもたらす実証可能な要因について研究している 。 フローの経験についての大規模データを用いた研究が一貫して示していることによれば、人間の経験の意味ややりがいは、困難な課題を達成したときに感じられものであり、課題の単なる選択よりも、その課題への取り組み方や遂行の仕方に由来する経験が大きく影響する。例えば、フローの経験は、強制収容所で自由がほとんど無い囚人にも、得られることがある。それは億万長者が得るよりも、わずかだが頻度が高い。古典的な例としては、 工場のラインでうんざりうする仕事をする2人の労働者を挙げることができる。1人は退屈で嫌な仕事と考え、他の1人は仕事をどのくらい速くできるかというゲームと捉えてフローの経験を得た。最近の研究によれば、人生の意味の有無は、身体的健康の予後をよく予見するとのことである。つまり、人生に大きな意味を見出している人ほど、アルツハイマー病になるリスクが低下し、 冠動脈疾患を持つ人に起きる心臓発作のリスクが低下し、脳卒中のリスクが低下し、 アメリカと日本の調査において長寿の人が増えたのである。 2014年に英国の国民健康サービスNHSは、意味ある人生による精神的健康をめざして、5つの方法の推奨を行い始めた。それは、1.地域や家族とつながりを持つこと、2.身体的運動を行うこと、3.一生涯学ぶこと、4.他の者に与えること、5.自分の周りの世界を注目すること、である。

出典:wikipedia

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