出雲大神宮(いずもだいじんぐう)は、京都府亀岡市千歳町にある神社。式内社(名神大社)、丹波国一宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁に属さない単立神社。旧称は「出雲神社」。別称として「元出雲」や「千年宮」とも。亀岡盆地東部に立つ御蔭山(みかげやま。御陰山、御影山、千年山とも)の山麓に鎮座。古くは御蔭山を神体山として祀る信仰があったとされ、社殿は和銅2年(709年)に創建されたと伝える。「元出雲」の別称は、出雲大社が出雲大神宮からの分霊とする社伝(後述)に由来する。いわゆる出雲大社は明治時代に至るまで「杵築大社」を称していたため、江戸時代末までは「出雲の神」と言えば出雲大神宮を指していたとされる。現在の本殿は重要文化財に指定されている。祭神に関しては、天津彦根命・天夷鳥命・三穂津姫命の3柱とする説や、元々は三穂津姫尊1柱のみであるという説もある。出雲大神宮は「出雲」を社名としているが、島根県の出雲大社や同じ亀岡市内にある出雲大社京都分院(亀岡市下矢田町)とは別法人の神社である。祭神の大国主命については、一般には出雲国の出雲大社(杵築大社)から勧請したとされている。ただし社伝では逆に、出雲大社の方が出雲大神宮より勧請を受けたとし、「元出雲」の通称がある。社伝では、『丹波国風土記』逸文として「元明天皇和銅年中、大国主命御一柱のみを島根の杵築の地に遷す」の記述があるとする(ただし、社伝で主張するのみでその逸文も不詳)。出雲大社との関係も2009(平成21)年の社殿創建1300年を境に一層の交流が始まっている。参道に立つ「国幣中社 出雲神社」の社名標は出雲大社の元宮司・千家尊福の筆によるものである。また2014(平成26)年に造られた正面の石碑「丹波國一之宮 出雲大神宮」の揮毫は出雲大社現宮司・千家尊祐の筆である。創建の年代は不詳。前述のように社伝では、『丹波国風土記』逸文として「元明天皇和銅年中、大国主命御一柱のみを島根の杵築の地に遷す」の記述があるという。社伝では、和銅2年(709年)10月21日に社殿が建てられたとする。『古事記』・『日本書紀』には国譲りの神事が記載されるが、丹波国は出雲・大和の両勢力の接点にあり、国譲りの所由によって祀られたとされる。境内には横穴式石室を持つ後期古墳があるほか、西南には口丹波最大の前方後円墳である千歳車塚古墳があり、古くから御蔭山を神体として祀る氏族がいたと推測されている。国史の初見は『日本紀略』の弘仁8年(818年)12月16日条「丹波国桑田郡出雲社、名神に預る」という記述であり、この時代にはすでに有力な神社になっていたことがわかる。平安時代中期の『延喜式神名帳』では「丹波国桑田郡 出雲神社」と記載され、名神大社に列している。正応5年(1292年)には、雨乞いの功を示したことから神階が最高位の正一位まで昇った。貞和元年(1345年)、足利尊氏により現在の社殿が造営されたとされる。明治4年(1871年)5月14日に近代社格制度において国幣中社に列した。また、神宮寺を現在の極楽寺に借地移転した。極楽寺所蔵で重要文化財に指定されている十一面観世音菩薩像は、神宮寺時代に安置していたものとされる。戦後、現在の「出雲大神宮」に改称した。本殿は室町時代前期、足利尊氏による元徳年間または貞和元年(1345年)の改修と伝える。三間社流造で、前室を有し、屋根は檜皮葺である。装飾は蟇股・手挟程度にとどめたうえ、太い木割を使用した豪壮な社殿になる。国の重要文化財に指定されている。拝殿は入母屋造妻入、檜皮葺で舞殿形式。明治11年(1878年)造営。境内には「真名井の水」と呼ばれる湧き水がある。マグマの接触変成岩層から湧き出している。古来より御神水と崇められてきたという。古来より御蔭山は国常立尊の鎮座する地として禁足地とされた。現在も立ち入り可能なのは、国常立尊を祀る磐座までの参道のみである。かつては36社の摂末社を有していたと伝わる。現在は下記の8社が残る。4月18日に行われる大祭。出雲風流花踊(京都府登録無形民俗文化財)が奉納される。本来は雨乞いの踊りだったとされる。一時断絶していたが大正13年(1924年)に再開された。所在地交通アクセス周辺
出典:wikipedia
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