為那都比古神社(いなつひこじんじゃ)は、大阪府箕面市石丸にある神社。式内社で、旧社格は村社。祭神は次の8柱。延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では「為那都比古神社二座」と記載が見え、この2座は為那都比古神・為那都比売神の2神に比定される。ただし為那都比売神は旧・大宮神社(現在は廃社:跡地は箕面市白島)における祭神で、明治40年(1907年)に当社に合祀された。他の天照皇大神以下も明治40年の合祀になる。主祭神2柱(為那都比古神・為那都比売神)の神名の「いな」は、地名に由来する。「為那」のほか「猪名」「為奈」「為名」等と表記され、猪名川流域(摂津国豊島郡・河辺郡)を指す広域地域の名称であった。このような「地名 + つ + ひこ/ひめ」という名称を持つ神・人物は吉備津彦・伊勢津彦など多くの例が知られ、「為那都比古/比売」の場合もそれらと同様に、猪名地方にいた豪族首長層の神格化と推測される。ただし、具体的にいずれの氏族に比定するかについては諸説がある(考証節参照)。また前述のように、為那都比売神は箕面市白島にあった大宮神社の祭神である。為那都比古・為那都比売両神は寛平年間(889年-898年)に別殿に分かれたといわれ、確かな史料では正嘉3年(1259年)の勝尾寺文書に「当庄西東天王并若宮天満天神」の記述が認められる。この大宮神社は明治40年の合祀後に廃社となり、同地では元神宮寺のうち薬師堂を残すのみとなっている。その跡地付近では神が降臨したという巨岩(ヨーガ岩/医王岩)が知られ、加えて『摂陽群談』・『摂津志』では為那都比古神社の項に大宮神社の解説のみを載せることから、この大宮神社の方を式内社「為那都比古神社二座」の主社とする説も挙げられている。なお、為那都比古神社はかつて一時期には祭神を牛頭天王とし、神社自体も「天王」と称されていたという。これについて『摂津名所図会』では、天正年間(1573年-1592年)に織田信長が高山右近に摂津国の寺社を改めさせた際、当社の神人は神号を牛頭天王(信長の氏神という)に改めて愁訴したので、難をのがれたと伝える。「いなつひこ」を祀る他の神社としては猪名津彦神社(池田市宇保町)も知られ、円墳上に鎮座する同社を本来の式内社「為那都比古神社」とする説もあるが、詳らかではない。創建は不詳。前述のように、猪名地方に居住した豪族による奉斎に始まると考えられている。境内西方の箕面市如意谷では銅鐸(如意谷銅鐸)の出土が知られ、それと為那都比古神社の淵源との関わりを推測する説もある。延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では摂津国豊島郡に「為那都比古神社二座」と記載され、2座が式内社に列している。平安時代中期の『和名抄』に見える地名のうちでは、当地は豊島郡駅家郷に比定される。江戸時代の祭礼の様子は『摂津名所図会』等に記されている。明治維新後、明治5年(1872年)に近代社格制度において村社に列し、明治40年(1907年)2月に神饌幣帛料供進神社に指定された。明治40年6月14日には、前述の大宮神社のほか、旧萱野村10ヶ村の神社が合祀されている。為那都比古神社の奉斎氏族については諸説がある。具体的な奉斎氏族を検討する要素としては、『新撰姓氏録』において摂津国を本貫とする次の氏族の記載が知られる。以上のうち、冒頭の為奈真人(為奈氏)は国史にも記載が見える氏族で、伴信友は『神名帳考証土代』において当社祭神を為那真人の祖先神に比定する説を挙げ、『特選神名牒』でも祭神を宣化天皇皇子の上殖葉皇子(恵波王、偉那公/韋那君の祖)に比定する説を挙げている。一方、古代の猪名地方の中心地(および為奈氏・川原氏の本貫地)は、『和名抄』に見える河辺郡(川辺郡)為奈郷(現在の兵庫県尼崎市の東北部)と見られており、為那都比古神社は「いな」を冠する神社ながら猪名地方の東端(豊島郡駅家郷)に位置することから、奉斎氏族を上記の為奈氏とする説については否定の向きが強い。為奈氏以外の説としては、上記の物部氏系・渡来系の猪名部氏(為奈部氏)と想定する説や、『摂陽群談』で大宮神社の祭祀に時原氏(秦氏支族)の関与が見られることから、秦氏と想定する説がある。なお、『日本書紀』には古代のアガタとして「猪名県」の記載が見えることから、当社の奉斎氏族は猪名県主を担ったとする説も挙げられている。
出典:wikipedia
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