森 成利(もり なりとし)は、安土桃山時代の武将。森 蘭丸(もり らんまる)という名で知られる織田信長の近習である。本能寺の変で主君と2人の弟と共に討死した。名前については異説が多く、幼名を乱(らん)とするものや、諱を長定(ながさだ)や長康(ながやす)とするものなど幾つかあるが、本記事においては諱として有力とされる成利で統一する。諱は『寛政重修諸家譜』に長定(ながさだ)とあるが、当時の古文書では「森乱成利」となっており、成利が諱とされる。また、幼名は一般的には蘭丸とされるが、やはり古文書では「森乱法師」あるいは「森乱成利」とされており、『信長公記』においても「森乱」と、「蘭」ではなく「乱」の字が使われている。『常山紀談』においては「森蘭丸長定」となっている。永禄8年(1565年)、織田信長の家臣・森可成の三男として尾張葉栗郡蓮台に生まれる。天正5年(1577年)5月、織田信長に小姓として弟らと共に召し抱えられる。以後、信長の側近として活動する。天正9年(1581年)には近江国に500石の知行を与えられ、この時期からただの小姓ではなく事務官としての役割を果たすようになっていった。特に『信長公記』によれば、使者としての活躍も見られ、天正7年(1579年)「四月十八日 塩河伯耆守へ銀子百枚遣はされ候、御使森乱(蘭丸)、中西権兵衛相副へ下され、過分忝きの由候なり」、天正8年(1580年)「正月廿六日、森乱御使にて、濃州岐阜御土蔵に、先年、鳥目一万六干貫入れおかれ侯」などの例がある。また、母である妙向尼は織田信長と石山本願寺との争い(石山合戦)の和睦成立に奔走した際に、成利を通じて情報を得て信長と直談判をしたとされる。なお信長は当時、本願寺との和睦に際して「金山城下に浄土真宗の寺院を建立、子息(妙向尼の子)の一人を出家」させることを条件に和睦を提示した。天正10年(1582年)、甲斐武田氏滅亡後は甲州征伐に貢献したとして信濃川中島に領地替えとなった兄・長可に替わって美濃金山城の城主、あるいは美濃岩村城の城主となり、5万石を与えられたという。ただし成利は在城せず、長可の家老・各務元正 が成利に付けられ、城代を務めた。同年、本能寺の変において本能寺で明智光秀の軍1万に囲まれて健闘するも、信長に槍で傷を負わせた明智配下の安田国継(天野源右衛門)によって討ち取られた。享年18。討たれる際、成利は白小袖を着て修善寺の平元結びで髪を茶筅髷に結っていたといわれる。ただし、これは源右衛門本人の証言によるものであり、信長に槍で傷を負わせたという証言にも疑問が残っており確証はない。『本城惣右衛門覚書』ではまた異なる記述がなされてある。さらにルイス・フロイスの『日本史』では信長はしばらく戦ったが、腕に銃弾を受けると、自ら部屋に入り、襖を閉じてそこで切腹したとされている。このように信長や成利の最期も諸説が入り乱れており、確たる事実は明らかになってはいない。『決定版図説・戦国甲冑集』などには「森蘭丸所用の具足」とされる当世具足が記載されているが、この具足は日本甲冑史学研究会会長の井伊達夫(当時中村姓)が彦根で発見して川越の古美術商・奥平長良に譲ったものであり、両人とも名前を公表した上で「自分たちが発見、預かった品で(成利のものではなく)無名の鎧」、「もう少しどこかに信憑性が欲しい」と成利所用のものであることをはっきりと否定している。なお発見当時には前立などはなく、また、どのような経緯で成利の具足とされるようになったのかは不明である。
出典:wikipedia
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