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坊ノ岬沖海戦

坊ノ岬沖海戦(ぼうのみさきおきかいせん)は、1945年4月7日に沖縄へ海上特攻隊として向かった戦艦大和と護衛艦艇をアメリカ軍の空母艦載機との間で発生した戦闘。日本海軍が発動した天一号作戦の一環として第一遊撃部隊(第二艦隊のうち、戦艦大和と軽巡洋艦1隻・駆逐艦8隻からなる)は沖縄方面に出撃、アメリカ海軍第58任務部隊の空母艦載機がそれを迎撃した。日本海軍による最後の大型水上艦による攻撃であり、日本の艦隊は作戦前に撃沈された。大和はこの海戦で主砲を一発も撃つことはなかった。太平洋戦争末期の1945年春、連合艦隊はすでに主力艦艇の多くを喪失していた。戦艦大和以下、生き残った主力艦艇や空母を中心とした新造艦艇の多くは燃料不足のため行動することができず、呉軍港などに繋がれていた。海龍、震洋といった特攻兵器の生産が優先され、大型軍艦の修理は後回しにされた。この方針に対し伊藤整一海軍中将は戦艦の修理を要請して井上成美海軍次官と対立した。結果的に伊藤中将の要望が通り大和と榛名は呉工廠で、戦艦長門は横須賀で修理することが決定した。その後、軍令部は燃料がなくなった戦艦を浮砲台として軍港に繋ぐ予定だったが、連合艦隊は1945年2月5日、第二艦隊を特攻に使用したい意向を明らかにした。そこで大和と矢矧の第二艦隊を残すことにした。以前から連合艦隊司令部では、連合艦隊首席参謀神重徳大佐が海上特攻の実施を主張していた。神参謀は、つねづね局地戦に大型艦をうまく使えるとの信念をもち、沖縄上陸戦の攻防にも参加させるべきと意見を抱いていた。サイパンの戦いでも、戦艦の山城を突入、座礁させて砲台とする作戦を具申したこともあった(そのときは中沢佑軍令部作戦部長に「砲を撃つには電気系統が生きてなければならない」と却下された)。連合艦隊参謀長草鹿龍之介中将はそれをなだめていたが、神は「大和を特攻的に使用した度」と軍港に係留されるはずの大和を第二艦隊に編入させた。司令部では構想として海上特攻も検討はされていたが、沖縄突入という具体案は草鹿参謀長が鹿屋に出かけている間に神が計画したものであった。神は「航空総攻撃を行う奏上の際、陛下から『航空部隊だけの攻撃か』と下問があったではないか」ということを強調していた。神は参謀長を通さずに連合艦隊長官豊田副武大将に直接決裁をもらってから「参謀長、意見はどうですか?」と話したので、草鹿は「決まってからどうですかもないと腹を立てた」という。連合艦隊長官豊田副武大将は「大和を有効に使う方法として計画。成功率は50%もない。うまくいったら奇跡。しかしまだ働けるものを使わねば、多少の成功の算あればと思い決定した」という。連合艦隊参謀淵田美津雄大佐も「神が発意し直接長官に採決を得たもの。連合艦隊参謀長は不同意で、第五航空艦隊も非常に迷惑だった」という。。当時、連合艦隊は神奈川県横浜市の日吉キャンパスにあった。草鹿龍之介連合艦隊参謀長は沖縄戦指導のため九州に出張中であった。そこへ神重徳大佐が草鹿宛に電話をかけ、応対に出た作戦参謀三上作夫中佐に対し、第一遊撃部隊による沖縄突入作戦決定を伝えた。神大佐は第二艦隊参謀として大和に乗艦することを希望したが、高田利種参謀副長は却下した。神大佐が作戦参謀の三上作夫中佐に語ったこの作戦決定の理由は、以下のとおり。3月29日に昭和天皇に対し及川古志郎軍令部総長が沖縄方面のアメリカ軍に対し特攻作戦を行うことを奏上した。これに対し昭和天皇は、「総攻撃は航空部隊だけか。海軍にはもう艦がないのか。海上部隊はないのか」と(三上中佐によれば一般的な)質問を行い、それに対して「海軍の全力を投じて作戦を行う」と及川軍令部総長が答えたことが決定の理由だという。なお、三上中佐によれば天皇の「お言葉」は参謀総長への直言か、神大佐が自分で付け加えた言葉かも定かでないという。神は軍令部との交渉に入ったが、作戦課長富岡定俊少将は反対であった。富岡は「この案を持ってきたとき私は横槍を入れた。大和を九州方面に陽動させて敵の機動部隊を釣り上げ、基地航空部隊でこれを叩くというなら賛成だが、沖縄に突入させることは反対だ。第一燃料がない。本土決戦は望むところではないが、もしもやらなければいけない情勢に立ち至った場合の艦艇燃料として若干残しておかなければならない。ところが私の知らないところで小沢治三郎軍令部次長のところで承知したらしい」と話している。神の提案を軍令部総長及川古志郎大将は黙って聞いていたが、軍令部次長小沢治三郎中将は「連合艦隊長官がそうしたいという決意ならよかろう」と直接許可を与えた。戦後、小沢は「全般の空気よりして、その当時も今日も当然と思う。多少の成算はあった。次長たりし僕に一番の責任あり」という。神参謀は草鹿参謀長に大和へ説得に行くように要請し、草鹿は「大和」の第二艦隊司令部を訪れ、長官の伊藤整一に作戦命令の伝達と説得を行った。なかなか納得しない伊藤に草鹿は「一億総特攻の魁となって頂きたい」と言うと、伊藤は「そうか、それならわかった」と即座に納得した。この作戦は、大和以下の艦隊を沖縄本島に突入させて艦を座礁させたうえで、固定砲台として砲撃を行い、弾薬が底をついた後は乗員が陸戦隊として敵部隊へ突撃をかけるという生還を期さない特攻作戦であった。これは連合艦隊長官豊田副武大将によって「海上特攻隊」と命名された。3月末、アメリカ軍やイギリス軍を中心とした連合軍は日本本土への上陸に向けた最終段階として沖縄諸島方面への進攻作戦を開始し、大艦隊が沖縄本島沖に集結した。これに対して日本軍は防衛のため天号作戦を発動、特攻作戦である菊水作戦に呼応する形で、海軍艦艇の東シナ海への出撃を検討する。ただし、菊水一号作戦は航空戦である。3月17日、連合艦隊はGF電令作第564号にて大和を含めた第一遊撃部隊に出撃準備を命じ、「航空攻撃有利なる場合、1YBは特令により出撃し敵攻略部隊を撃滅す。本作戦を天一号作戦と呼称す」を告げた。26日、GF電令作第581号・583号にて、大和と矢矧以下第二水雷戦隊に対し、佐世保に回航して、同港前進待機が指示される。第二艦隊を佐世保に進出させ、大和を中心として東シナ海を遊弋させることとした。三上作夫(連合艦隊作戦参謀)は「佐世保に大和がいることでアメリカ軍の脅威となり、アメリカ軍機動部隊が大和を目標として北上して来る。そこを基地航空隊が叩く作戦」と証言している。これに対し第五航空艦隊長官宇垣纏中将は「小細工が通用するはずもなく笑止千万。内海待機が適当」と残している。28日午前9時30分、大和で各駆逐戦隊指揮官や艦長が作戦打ち合わせを行う。関門海峡は27日にアメリカ軍が550トンもの機雷を投下したことにより封鎖されたため、豊後水道通過を選択した。午後5時30分、第二艦隊(旗艦大和)は呉軍港を出港し佐世保へ向った。呉出港時、全ての在艦艦艇が第二艦隊に対して汽笛と「総員帽振れ」で見送ったという。しかし米機動部隊接近の報を受けて佐世保回航が延期され、周防灘で待機となる。30日には呉軍港と広島湾も機雷で埋め尽くされ、呉に帰還することも困難となった。第二艦隊は宙に浮いた形となった。3月29日、榛名の航海長を勤めていた茂木史朗中佐が新任航海長として大和に着任した。前任者の津田弘明大佐は普通半日で終わる引継ぎを一週間かけて行った。この点では大和の有賀幸作艦長、矢矧の原為一艦長も1944年12月の着任で、その後も燃料不足やドック入りのため満足な訓練が出来ず乗艦の操艦に熟練していなかった。午後5時26分、駆逐艦響が周防灘で触雷し、朝霜に曳航されて呉に向かう。その後、響が自力航行可能となったため、朝霜は曳航を中止して第二艦隊に合流した。4月1日、連合軍は沖縄本島への上陸を開始した。これに対する日本軍の菊水作戦の発動は4月6日と決定された。沖縄の日本陸軍や海軍陸戦隊は持久作戦を主張、内地の大本営や連合艦隊司令部は航空特攻や海上特攻を含めた総攻撃を主張し、日本軍の作戦方針は統一されていなかった。第二水雷戦隊司令部はアメリカ軍の優勢を認めた上で、3つの選択肢を検討した。第二水雷戦隊は第3案を「最も有利なる案」として4月3日、第二艦隊司令部に意見具申する。第二艦隊司令部は賛同の上で連合艦隊司令部に伝達した。ところが伊藤中将は連合艦隊が航空部隊に総攻撃の準備命令が出されたことを知って意見具申を取りやめた。4月5日、第2艦隊司令長官の伊藤整一中将は以下の命令を受けた。アメリカ軍の制空権下における航空機の援護のない水上部隊の特攻を当初から悲観していたものもいた。沖縄第三十二軍司令官牛島満陸軍中将は、海上特攻実行と陸軍総攻撃を求める機密電報を投げ捨てたという。米内光政海軍大臣は神に対し「成功したら奇蹟だ」と述べる。これに対する神大佐の答えは「戦わずに沈められるより、戦って沈んだ方が良い」であった。大和に華々しい最後を飾らせたいという考えは、神参謀だけでなく、海軍首脳の誰もが抱いていた可能性も指摘される。たとえば宇垣中将は作戦そのものには反対しつつも「(沖縄日本陸軍が総攻撃を行うので)決戦ならば之もよからん」と諦めており、草鹿龍之介参謀長も「いずれその最期を覚悟しても、悔なき死所を得させ、少しでも意義ある所に」と述べている。高田利種(連合艦隊参謀副長)も「大和を特攻に使わないで戦争に負けたら、次の日本は作れない」と考え、神大佐の提案に内心では賛成だったという。能村(大和副長)によれば、午後の日課中に有賀艦長から特攻出撃命令書を受け取り、すぐに当直配置員を除く全乗組員2500名を大和前部一番主砲塔付近に整列させて特攻出撃を伝達した。海上特攻は否応なしの至上命令であったという。そして、第二艦隊に配属されたばかりの士官候補生や老兵・傷病兵を退艦させる。特に第七十四期士官候補生達は4月3日夕刻に大和や矢矧に乗艦したばかりだった。夜、酒保が開かれて宴会が行われ、有賀艦長も酒宴に加わった。若手士官の居室で吉田満著『戦艦大和ノ最期』で描かれるような出来事があったかどうかについて、生還した士官達の証言は定まっていない。伊藤長官は妻子に向け手紙を書いていた。伊藤長官の息子は航空機搭乗員として特攻が予定されており、伊藤長官は副官に「息子は特攻だ。もう生きていても良いことがない」と語ったことがある。大和とは別地点に停泊していた軽巡矢矧では、水上特攻命令受領を受けて第二水雷戦隊各駆逐艦艦長が集まり、古村啓蔵司令官のもとで会議が開かれた。全員が驚き、駆逐艦初霜の酒匂雅三艦長は「豊田副武連合艦隊司令長官がなぜ陣頭指揮をしないのか」と憤慨したという。他の駆逐隊司令や艦長も同意見であったが、大和での第二艦隊司令部作戦会議では伊藤長官が「この命令は我々に死所を与えたものである。死んでこいということである」と発言し、第二水雷戦隊各艦も命令に従い出撃準備に着手した。この後、各艦で酒宴が開かれた。駆逐隊司令や艦長達は矢矧の司令官公室で酒宴を開いた。4月6日午前6時、矢矧以下の第二水雷戦隊が徳山沖停泊中の大和に合流した。当初、艦隊は片道分の燃料のみ(2000トン)を搭載予定となっていた。だが「人が死ににゆくのに腹一杯食わさんでどうする」と各艦長が抗議、連合艦隊護衛総隊割り当て分の一部及び基地補給班が員数を集め、呉鎮守府に掛け合い、第二艦隊全ての艦艇の燃料を確保した。徳山にある燃料タンクの底に残っていた帳簿外の重油までもかき集めたという。また出撃しない駆逐艦から燃料と弾薬を出撃艦艇に移譲している。各艦に補給された燃料は満タンの量ではなかったが、巡航速度であれば沖縄本島と呉との間を4往復は出来るだけの量はあったという説もある。詳細は、大和4000トン、矢矧1250、冬月900(佐世保到着時残量650)、涼月900(400)、磯風599、浜風599、雪風588(170)、朝霜599、霞540、初霜500(300)。満州の大豆からとった油が混ざっているので馬力が2割下がったという雪風の機関長の異説もある。海上護衛総司令部参謀大井篤大佐によれば、大和と第二水雷戦隊のために輸送船の護衛艦の燃料割り当てが割かれたという。日本側はアメリカ軍の機動部隊が沖縄東方に存在することを前提に計画を立てていた。7日早朝大隅半島を通過し、沖縄突入は8日黎明を予定。アメリカ機動部隊出現の場合は一旦計画を中止して北上し、基地航空兵力の特攻作戦成果を待って反転突入を企図した。日本海軍の計画について古村二水戦司令官は『出撃時期と到着時期を固定してただ走れば、途中の壊滅は必至である』と回想した。アメリカ海軍は、「マジック」極東情報が行った日本軍の暗号電報の傍受と解読と、F-13(B-29の偵察機型)の空中偵察により「大和」出撃についてほぼ全容を把握していた。4月3日菊水一号作戦発動を「天信電令作第39号」の解読により察知し、4月4日の「GF電令作第601号電番」などにより突入の日が6日であること、4月5日には「第一遊撃部隊が6日に徳山で燃料を補給すべし」との連合艦隊司令長官の指令を、4月6日には天一号作戦部隊発の沖縄特別根拠地隊宛の「GF電令作第607号電番」解読により第二遊撃部隊が海上特攻隊であること、さらに「GF電令作第611号電番」により大和以下8隻の駆逐艦と矢矧であることを、そして、あらかじめ6日夕刻ごろに艦隊が豊後水道を出撃せよとの連合艦隊の命令まで解読しており、潜水艦に「敵艦隊が被害を受けて引き返すことのないよう」魚雷発射を禁止して、哨戒配置につかせていた。また、F13(偵察型のB29)による偵察で、午前9時30分に呉西方を行動中の駆逐艦6隻と大型艦の行動を捕捉し、6日の日没後にはついに豊後水道通過時に艦隊は米潜水艦SS295「ハックルバック」がレーダーにより発見して追跡、しばらくの間接触を保つことができた。これによりアメリカ艦隊は、暗号情報が正しいことを確認できた。これらの情報から、アメリカ軍のアイスバーグ作戦指揮官レイモンド・スプルーアンス長官はモートン・デヨ少将の第54任務部隊(旧式戦艦部隊)に対し、カミカゼに備する機動部隊に代わり日本艦隊が日本本土の基地に後退できない、かつ九州の日本軍機の援護を受けられない南方まで誘い出し大和を撃沈せよと命じた。海戦は4月7日の夜間に予定されており、優勢な大和に対して、アメリカ戦艦は数とレーダー射撃の正確さにより勝利できると考えたのである。第54任務部隊の士気は大いに上がったが、機動部隊指揮官のマーク・ミッチャー中将は、戦艦に対する航空機の優位性を証明できる最良の機会として闘志を燃やし、機動部隊に「カミカゼに備えよ」という命令が出ていたため、三個の空母部隊を大和への攻撃が可能な九州より最も遠い海域に集結させた。日本陸海軍は、4月6-7日にかけて300機近くの特攻機を投入した。飛行技術の練度不足や興奮などの諸条件により小型艦艇を目標にした特攻機が多く、駆逐艦2隻、掃海艇1隻、揚陸艇1隻、貨物船2隻撃沈・駆逐艦8隻がなんらかの損傷を受けた。沖縄の第三十二軍は撃沈(戦艦2、艦種不詳2、大型3、小型2)、撃破(戦艦1、炎上駆逐艦1、輸送船6、小型2、艦種不詳9)を報告した。東京のラジオは、米戦艦2隻、巡洋艦3隻、小型艦船57隻撃沈、米空母5隻を含む61隻を撃破したと報じた。宇垣纏第五航空艦隊司令官は特攻出撃が充分な戦果をあげたと判断している。4月6日、豊田連合艦隊長官は第二艦隊に対し「帝国海軍部隊は陸軍と協力、空海陸の全力を挙げて沖縄島周辺の敵艦隊に対する総攻撃を決行せんとす。皇国の興廃は正に此の一撃に在り、茲に特に海上特攻隊を編成壮烈無比の突入作戦を命じたるは帝国海軍力を此の一戦に結集し、光輝ある帝国海軍海上部隊の伝統を発揚すると共に其の栄光を後昆に伝へんとするに外ならず、各隊は其の特攻隊たると否とを問わず愈々殊死奮戦敵艦隊を随所に殲滅し以て皇国無窮の礎を確立すべし」と電報訓示する。九州の鹿屋(第五航空艦隊)に出張して宇垣中将と共に特攻出撃を見守っていた草鹿参謀長と三上参謀は、東京から第二艦隊出撃計画が豊田連合艦隊長官の決裁を受けたという連絡を受けた。「きまってから参謀長の意見はどうですかもないもんだ」と憤慨しつつ、草鹿参謀長は水上機に乗って大和を訪れた。大和内部にある長官公室での打ち合せでは、伊藤長官は作戦に納得しなかった。だが、既に陸軍の総攻撃が計画されていると三上参謀が告げると、伊藤長官は作戦を了承した。草鹿参謀長の「一億総特攻の魁となって頂きたい」という言葉も要因だったとされる。一方で、草鹿参謀長の回想録には特に言及がない。伊藤長官は「途中で沖縄到達の見込みがなくなった場合はどうするか」と質問し、草鹿参謀長は「貴方に一存する」と答えると、伊藤長官は喜色満面となって「わかった。安心してくれ、気もせいせいした」と返答したという。海軍兵学校時代の草鹿参謀長は伊藤長官の後輩であり、草鹿参謀長は「何かにつけて下級生をかばう良き先輩であり、訣別の辞を伝えにいかなくてはならぬ破目になったことは皮肉な巡り合わせ」と述べている。なお高田利種(連合艦隊参謀副長)は、草鹿参謀長が大和特攻作戦をむしろ熱心に主導したと断言しているが、「何時出撃するかを知らされなかった」可能性はあるとしている。その後、大和にて各戦隊司令官、艦長が集合した。そこで草鹿参謀長による作戦説明と、伊藤長官による訓示が行われた。草鹿参謀長が「沖縄に乗り上げて陸戦隊になって欲しい」と告げると、第二艦隊将校から「陸戦武器がないじゃないか」と疑問がぶつけられた。古村啓蔵司令官によれば、草鹿参謀長の「一億総特攻の先駆け」はこの将校会議で出た発言である。結局、伊藤長官が反論や不満を抑える形となり、艦長達は命令に従った。伊藤長官は1人上機嫌だったという証言も残されている。15時20分、大和以下、第二艦隊は徳山沖を出撃した。16時10分、伊藤長官は麾下の艦艇に対し出撃に際しての訓示を発する。このように悲壮なる決意をもって第二艦隊は出撃したのである。だが、沖縄の第三十二軍は八原博通作戦参謀を中心に持久作戦を主張、大本営の沖縄飛行場攻撃命令・8日総攻撃要請にも応じなかった。海上特攻を思いとどまるよう牛島軍司令官は発信、「大本営機密戦争日誌」によれば『皇国ノ運命ヲ賭シタル作戦ノ指導ガ、慎重性、確実性ヲ欠ク嫌アルコトハ極メテ遺憾ナルモ戦艦ノ価値昔日ノ比ニアラザルヲ以テ驚クニ足ラズ』とである。夕刻、大和甲板では総員が集合し、訓示の後「各自の故郷に向かって挨拶せよ」との命令が出た。矢矧の原艦長は、「生きて帰ることをためらってはならない」と乗組員に説明していた。夜間、第二水雷戦隊は大和を目標とした雷撃訓練を行う。第二水雷戦隊は新編成以降燃料不足のため、4月6日まで一度も総合訓練を行ったことがなかった。連合艦隊の命令により、佐伯航空隊の零式水上偵察機14機と、呉防備戦隊の海防艦志賀、第194海防艦が第二艦隊の前方を進んだ。豊後水道で対潜掃討隊と分離した後、艦隊は一路沖縄本島への進路を取る。20時20分頃、都井岬南方30海里の地点に配備されていたアメリカ軍のスレッドフィン ("USS Threadfin, SS-410") とハックルバック」("USS Hackleback, SS-295") の2隻の潜水艦は豊後水道を南へ向かう日本艦隊を発見し、アメリカ艦隊へ日本艦隊の出撃を通報した。両艦には魚雷攻撃禁止命令が出ていた。これは中途半端な損害を与えて内地に戻られるのを避けたためである。ただし、ハックルバックは駆逐艦を狙って魚雷を装填したが、接近されたために発射のチャンスを失った。一方、大和の艦内では乗組員に汁粉が出た。4月7日午前6時、日本艦隊は大隅半島を通過し外洋へ出ると、沖縄本島へ向かった。この時、大和は唯一搭載していた零式水上偵察機を発進させている。陸上航空部隊からは次々の特攻機突入の報告が入り、「正規空母3隻、特設空母1隻、戦艦1隻撃破」という誤戦果や、7日午前4時には「敵機動部隊大打撃。空母を含む数隻撃沈確実、敵艦隊大混乱」との誤報を受取っている。日本艦隊は大和を中心とし、その周りを1,500メートルずつ離れて矢矧と8隻の駆逐艦が輪形陣を敷き、20ノットで進んだ。護衛駆逐艦のうち朝霜は午前7時に機関故障を起こして速力が12ノットとなり、艦隊から落伍した。台湾で停泊中に爆撃を受けて損傷してから、機関の調子が悪かったのである。大和の零式水上偵察機は、異状排気を起こして速力を低下させる朝霜を目撃している。その後、大和の所属機は矢矧の所属機に哨戒をひきついで鹿児島県の指宿基地に向かった。8時15分、矢矧からも水上偵察機1機が射出されており、午前9時ごろ指宿基地に到着した。8時、昭和天皇が伊勢神宮に高松宮宣仁親王を御代として差遣したとの連絡が入る。午前11時、朝霜が第二艦隊の視界外に脱落した。同時刻、大和のレーダーがアメリカ軍編隊を探知する。それから間もなく艦隊は小型艦艇3隻「大島輸送隊」(輸送艦第146号、駆潜艇49号、第17号駆潜艇)とすれ違った。大島輸送隊は、奄美大島への強行輸送任務を成功した後の帰路であった。第二水雷戦隊は12時19分視認距離で遭遇、大和は12時22分、45km先に発見としている。輸送艦146号の丹羽正之大尉(輸送隊指揮官)は駆逐艦浜風での勤務経験があり、大和に対して無線で答礼すると「有難ウ、ワレ期待ニ応エントス」という返礼があった。同時刻、佐世保へ向かう海防艦屋代も第二艦隊とすれ違い、第二艦隊の無線電報を受信している。記録によれば屋代は佐世保に在泊となっているが、大和を目撃したという乗組員の証言もある。鹿屋基地では、第二艦隊の上空援護を巡って第五航空艦隊司令官宇垣纏中将と草鹿龍之介連合艦隊参謀長の間にやりとりがあった。宇垣中将は唐突に決まった作戦に反対しつつ「連携ある作戦で友軍の援護をすることは当然」として、配下の戦闘機隊に対し、第二艦隊掩護命令を出した。第二艦隊は5機から10機の零式艦上戦闘機(零戦)が、午前10時まで上空警戒をしていたと報告。ただし、アメリカ軍の記録によると8時15分から正午すぎの空襲に至るまで、F6Fヘルキャット偵察隊やマーチン・マリナー飛行艇が第二艦隊上空に留まって監視任務を続行している。大和も8時40分にヘルキャット7機を確認したが、日本軍機との間で空戦が起こった記録はない。一方で、矢矧に乗艦した機関将校は第二艦隊上空を通過する特攻機を目撃している。阿部三郎(海軍中尉、五航艦第二〇三空)は、阿部中尉の所属していた戦闘三一一飛行隊を含めて、幾つかの部隊に第二艦隊掩護命令が出たことを記憶している。だが出撃準備中の4月7日午後3時、第五航空艦隊から発進中止命令が下った。阿部中尉の戦後の調査によれば、戦闘三〇三飛行隊から早朝に4機が出撃したが、視界不良のため大和を発見できず帰投した。戦闘三一二飛行隊(笹ノ原基地)からは8機(伊藤康夫中尉)発進して第二艦隊と大和上空を護衛し、三五二空(大村基地)からは零戦隊/甲分隊が午前10時まで第二艦隊上空を護衛していた。美濃部正少佐が指揮する芙蓉部隊(特攻を行わない夜戦部隊)にも第五航空艦隊から大和掩護要請があったが、美濃部少佐は夜間戦闘部隊に制空戦闘は出来ないと断っている。このように宇垣中将の第五航空艦隊が軍組織として上空掩護を行った事は確実だが、混乱と準備不足のために戦闘機部隊を手配しきれず、午前中のみの、少数機による中途半端な掩護で終わってしまった。一方、アメリカ軍の偵察機は日本艦隊を追跡した。8時15分、3機のF6Fヘルキャット索敵隊(ウィリアム・エスツス中尉)が大和を発見した。8時23分、空母エセックスのジャック・ライオンズ少尉隊も第二艦隊に接触し、大和は沖縄へ向かっていると報告した。ミッチャー中将は付近のヘルキャット16機に接触を続けるよう命じる。ミッチャー中将は攻撃隊が飛行する距離が長いことを考慮し、不時着回収機として「空飛ぶ象」と呼ばれたマーチン飛行艇を配置することにした。その他の支援艦艇も、航空攻撃が失敗に終わった場合に備えて日本艦隊阻止のため集結した。8時40分、日本艦隊もヘルキャット隊を発見する。10時、日本艦隊は西に向きを変え撤退するように見せかけたが、11時30分に沖縄本島へ向けて進路を変えた。アメリカ軍はさらにマーチン・マリナー飛行艇2機(VPB-21哨戒飛行隊)を投入した。ディック・シムズ大尉は小型船3隻の船団と、大和を中心とした第二艦隊を発見。シムズ大尉は大和から射撃され、レーダー妨害用の錫箔を捲いて雲に入った。11時14分(アメリカ軍の記録11時37分)にもヘルキャット6機に射撃した。大和の出撃を察知し、沖縄諸島攻略の任に当たっていたアメリカ第5艦隊司令長官のスプルーアンス大将は迎撃を命令、沖縄本島周辺に艦砲射撃任務を遂行中だったモートン・デヨ司令官率いる第3戦艦隊の3隻(アイダホ、ニューメキシコ、テネシー)と第4戦艦隊の3隻(ウェストバージニア、メリーランド、コロラド)、巡洋艦7隻(バーミングハム、モービル、ビロクシー、サンフランシスコ、ミネアポリス、タスカルーザ、ポートランド)、駆逐艦21隻を任務から外して迎撃準備を行わせた。艦隊の進路が不明なため、最終的にミッチャー中将の第58機動部隊による航空攻撃を許可した。実際には、ミッチャーはスプルーアンス大将の命令を受ける前に攻撃隊を発進させている。10時ごろ、奄美群島近海に位置していた空母サン・ジャシント、ベニントン、ホーネット(CV-12)、ベローウッド、エセックス、バターン、バンカーヒル、キャボット、ハンコックからのF6Fヘルキャット戦闘機とF4Uコルセア戦闘機132、SB2Cヘルダイバー爆撃機50、TBF/TBMアベンジャー雷撃機98が発進した。戦闘機はロケット弾を装備するか、250kg爆弾2個を搭載して出撃した。280機はすぐ第二艦隊に向かったが、ハンコックから発進した53機は道に迷った。10時45分、イントレピッド、ラングレー、ヨークタウン(CV-10)から106機が発進した。少なくとも3機が事故で墜落するか、故障で引き返した。この時点で、はじめてミッチャー中将はスプルーアンス大将に対し第二艦隊を攻撃することを通知し、「貴官がやられますか?それともこちらでやりますか?」と報告した。そのスプルーアンス大将は、アメリカ海軍史上最も短い作戦命令「貴官が やつらを やれ」(You Take Them)を伝えた。日本艦隊には第五航空艦隊所属の予備機の零戦20機が直掩として付随したが、九州近海で陸上基地に帰還した。天候は雨雲が1000メートル程度、風速10メートル、視界は8キロ以下であった。大和の主砲を除いて光学照準式の高射指揮装置と時限信管式の対空砲しかない日本艦隊の防空砲火側には極めて不利であり、「攻撃隊にはもってこいの天候」とする意見がある。大和の艦橋にいた森下信衛第二艦隊参謀長も悪天候により対空砲火の効果と威力が低下したと回想している。反面、大和が煙幕を展開すれば簡易型のレーダーを装備(雷撃機と攻撃機の電信席に装備)していても空中衝突の危険が大きく攻撃不能の可能性があったとするアメリカ軍パイロットや、大和主砲方位盤射手村田大尉の意見など評価が分かれる。2時間かけて到着したアメリカ軍の攻撃隊は雲の上で日本艦隊の対空攻撃の射撃を受けずに、攻撃を行うために日本艦隊を取り囲むことができた反面、目標の進路や速度を目視において確認するためには一旦雲の下に下りなければならなかった。第1波の攻撃隊は12時32分に攻撃を開始した。ベニントンのエドモンド・コンラッド大尉は、矢矧、磯風、初霜、冬月が増速し、大和が中央、残る艦が護衛という光景を見た。日本艦隊は速度を24ノット、続いて最大戦速として回避行動を開始し、対空戦闘を始める。この時の駆逐艦配置については、著作によって差異がある。しかし回避行動によって輪形陣はすぐに崩れてしまった。たとえば雷撃機を回避しようと大和が右に転舵したため、輪形陣先頭にいた矢矧は大和の左舷4000-5000mに引き離されている。大和は近距離の敵機に対して24門の高角砲や約150門の機銃等の対空火器を装備していたが、日本軍生還者が「凄まじい」と表現するアメリカ軍機の雷撃・爆撃・銃撃の同時攻撃を阻止するには至らなかった。まず、ベニントンの第82爆撃中隊11機が大和に攻撃を開始した。雷撃機は転覆を狙うため大和の左舷に攻撃を集中したとされるが、特に拘っておらず、機会があり次第、左右同時雷撃を行っている。12時45分、駆逐艦浜風が被弾して航行不能となった。12時46分、矢矧の右舷機関部にベニントン隊の放った魚雷が命中した。これにより機関部員は全滅し、矢矧は航行不能となった。第1波の攻撃で大和には爆弾2発と魚雷推定1本(森下参謀長2-3本、アメリカ軍主張8本)が命中した。左舷への傾斜は右舷への注水で回復したが、爆弾の命中により後部艦橋と後部副砲が破壊され、火災が発生した。また、この攻撃で12時48分に浜風が爆沈した。13時8分には涼月が前部に爆弾の直撃を受け大破、落伍した。さらに、機関の故障で艦隊から落伍していた朝霜も大和以下に対する空襲の開始直前にサンジャシントの飛行隊14機、もしくはバンカーヒルの飛行隊10機に攻撃された。魚雷2本が艦橋右舷下と機械室に命中、大爆発を起こして朝霜は沈没した。最後の電信は12時21分であった。アメリカ軍の攻撃隊は、朝霜をピケット艦と判断している。13時20分から14時15分の間に第2波と第3波の攻撃隊が来襲した。攻撃隊はエセックスのハーモン・アター中佐が指揮している。攻撃は大和に集中した。爆弾は艦上構造物に損害を与え、対空射撃能力が低下した。魚雷はほとんどが左舷に命中していたが、特に意図はなく、大和が左旋回を繰り返していたため左舷を狙いやすかったからだった。アメリカ軍は第2波、第3波攻撃で魚雷命中29本を主張。艦は傾き転覆の危機が迫った。13時25分、通信施設を破壊された大和は、随伴する初霜に通信代行を依頼する。13時33分、右舷の機関室とボイラー室に注水がおこなわれた。この際、機関科兵員に命令が伝わらず水にのまれたと一部の書物には記載されているが、注水作業を瞬時に行うことは不可能であり、退避する時間は十分にあったと能村副長は証言している。右舷の機関の喪失と多量の浸水のため、大和の速度は10ノットに低下した。低速で進む大和は雷撃機の格好の目標となり、航行能力を削ぐために舵や船尾に攻撃は集中した。この間、13時25分には霞が直撃弾2発、至近弾1発を受けて缶室に浸水、航行不能となり落伍。第一波攻撃で航行不能となっていた矢矧にはさらに複数の魚雷と爆弾が命中し、14時5分に沈没した。古村二水戦司令官および第二水雷戦隊司令部移乗のため矢矧に接舷を試みていた磯風も攻撃を受けて機械室に浸水、やがて航行不能となった。14時10-17分、ヨークタウン(CV-10)の雷撃隊による右舷への複数魚雷命中が致命打となり、大和の傾斜は急速に大きくなった。戦闘詳報では魚雷10本・爆弾5発、森下参謀長は魚雷命中15本・爆弾命中数十発、アメリカ軍第58任務部隊は魚雷13-14本・爆弾5発以上、アメリカ軍攻撃隊は合計魚雷30-35本・爆弾38発が命中したと記録している。大和の沈没が避けられないことを知らされ、伊藤中将は作戦の中止を命じた。その一方で森下参謀長によれば、伊藤長官は「駆逐艦冬月は大和に横付けせよ」「大和は沖縄まで到達不能。幕僚は駆逐艦に移乗して沖縄へ先行せよ」と命じ、自分は大和と運命を共にすべく艦橋下の長官控室に降りていったという。有賀幸作艦長(大佐)は退艦を拒否して艦に残った。総員退去命令が出て間もない14時20分、大和は転覆を開始、14時23分、完全に転覆すると大爆発を起こした。この爆発は弾薬庫の誘爆または、機関室の水蒸気爆発によるものと考えられている。大和の沈没地点はであった。アメリカ軍機の撤退と同時に、各艦は脱出者の救助を開始した。駆逐艦冬月の吉田正義大佐(第四一駆逐隊司令)は先任指揮官が自分であると判断、15時52分に連合艦隊司令長官・軍令部総長・海軍大臣にあて「1141より数次にわたり、敵艦上機大編隊の攻撃を受け、大和、矢矧、磯風沈没、浜風、涼月、霞航行不能、その他各艦多少損害あり、冬月、初霜、雪風を以って生存者を救助の後、再起を図らんとす」と発信した。16時39分、第1遊撃部隊指揮官に対し、乗員救助の上佐世保への帰投が命ぜられた(受信は17時50分)。17時20分に初霜に救助された古村司令官は作戦継続の電報を起案していたが、暗号翻訳中に作戦中止命令を受信、特攻作戦の中止に至った。この海戦で日本側は、大和、矢矧、浜風が撃沈され、霞は航行不能となり冬月に処分された。磯風は自力で北方に向かったが航行不能となり、雪風による曳航を試みる。だが初霜からの下令で放棄が決まり、午後10時40分雪風に処分された。また機関故障により単独行動中の朝霜も撃沈され、駆逐隊司令部を含め全員が戦死した。涼月は艦首を失ったが後進で佐世保に帰還したものの、ドック内部で擱座した。被害の少なかった冬月、雪風、初霜の3隻の駆逐艦は大和の生存者280名、矢矧の生存者555名と磯風、浜風、霞の生存者800名以上、1706名(戦闘詳報)を救助したが、推定3,721名がこの戦いで戦死した。また大和沈没後に五航艦の戦闘303飛行隊が坊ノ岬260度100キロ付近の海面でF4Uコルセア戦闘機3機を撃墜したと報告している。アメリカ軍機の多くは日本側からの対空砲火を受け損傷を負い、5機が撃墜され、原因不明の墜落が1機。被弾損傷機が52機で、内5機が経済的修理不能として海上投棄され、実質的損失は12機であった。乗員の内何人かは水上機や潜水艦に救助された。アメリカ軍の戦死行方不明は合計13名であった。14時43分、最後のアメリカ機の編隊が大和の生存者に機銃掃射を浴びせるために出撃した。大戦を通じてアメリカ軍などの連合軍が行ってきた沈没船生存者への機銃掃射はこのときも現出し、古村啓蔵や吉田満をはじめ多くの第二艦隊生存者が、このときアメリカ軍機の機銃掃射を受けたと証言している。航行不能となった磯風の周囲を漂う日本兵(沈没した矢矧の生存者)に対しても、撃墜された味方の敵討ちとしてアメリカ軍爆撃隊が機銃掃射を浴びせた。星亮一はこれらの機銃掃射は計画的な人間狩りであったと批判している。英国人ジャーナリストのラッセル・スパーは坊ノ岬沖海戦について記した著書において、第二次大戦当時のアメリカ人は絶望的な状況の敵国人を殺戮する事に気が咎めることがなく、日本人に対しては、捕虜への虐殺行為や神風特攻の異常な狂信主義の報告があったため、「(当時のアメリカ人は)日本人は人間の出来損ないであり慈悲をかけるのに殆ど値しないと信ずるようになっていた」と指摘している(スパーは「彼ら(日本の特攻兵)はアメリカ人が想像した様な狂信者ではなく、彼らの殆どが充分に考えた上で恐るべき決意に到達した献身的な息子たちだった」と伝えている)。一方で、日本軍艦艇も救助作業中の無抵抗な敵兵に発砲したとする証言が日米両軍に残されている。アメリカ海軍第三十雷撃中隊第二分隊副隊長のディラニー中尉は大和の高角砲に撃墜され、部下2名と共にパラシュートで機から脱出。海面への着水に成功した。ディラニー中尉は救命筏(アメリカ軍パイロットの救命チョッキは空気により膨らみ筏となる構造だった)にしがみ付き約二時間漂流した後、味方のPBM(マーチン飛行艇)2機に発見されたが、この時近くの海上に冬月と初霜がいた。2機の内、スイムス大尉が機長を務めるPBMが対空砲火からディラニー中尉を逸らすため危険を犯し日本艦隊の方向に飛んで行き、もう1機のヤング大尉機は水上滑走しながら着水してディラニー中尉の救助に当たった所、これを見た日本の駆逐艦が砲撃を加えた。第二水雷戦隊戦闘詳報によれば冬月がPBMに向けて発砲したとある。この後、冬月に救助される吉田満も冬月が飛行艇に発砲する光景を目撃しているが、彼はまだ航空攻撃に反撃しているものと思っていた。これに対し、冬月の吉田司令は「救助作業はお互い様じゃないか」との思いから発砲を許さなかったとの証言もある。初霜では酒匂艦長の命令を受けた砲術長が12.7センチ主砲でPBMを数発撃った。この発砲について、酒匂艦長は「飛行艇を追っ払えと命じ、落とせとは一切言わなかった」と述べ、命令を受け発砲した藤井砲術長は、無抵抗な日本兵の生存者には機銃掃射を浴びせる反面、自国のパイロットを救助するアメリカ軍の行動に腹を立てていたと述べている。同じく初霜の松井中尉も「射程距離外であった事はわかっていたが威嚇のため2、3発撃った」と証言している。一方のディラニー中尉の証言には「(駆逐艦は)射撃しながら接近してきた」とあり、ヤング大尉機の搭乗員は、日本の駆逐艦の主砲弾は飛行艇に向かって泳ぐディラニー中尉の200ヤード以内に落ちていたと証言している。ヤング大尉機はディラニー中尉を収容して飛び立ったが、ディラニー中尉の部下2名は発見できなかった。2機のマーチン飛行艇は救助活動を終えると、帰り際、大破炎上して航行不能状態だった涼月に対して機銃掃射を浴びせている。抵抗力を失った敵兵に対する発砲や報復を動機とした攻撃に同調しなかった将兵らの記録も残されている。アメリカ軍機動部隊第九攻撃隊のビル・バワーズ少尉は、同僚のパイロットたちが漂流中の日本兵に機銃掃射を浴びせる行為を野蛮と感じ、「俺はこの攻撃パターンに入らない」と空撃ちした。大和の主砲指揮所で弾着修正手を務めた小林健水兵長も、彼を救助した駆逐艦がアメリカ軍攻撃機の機銃掃射を受けたが、編隊のような纏まった形ではなく、1、2機による散発的なものだったと証言している。小林水兵長の証言の中で機銃掃射を受けたとされる駆逐艦は雪風で(小林水平長の「大和生存者を救助した」、「19時30分以降も長時間戦闘海域で救助活動を続けた」の証言と雪風の行動記録が合致する)、他の大和元乗員も雪風は敵機の攻撃があったため艦を低速で動かしたまま味方の救助を行ったと回想しているが、その雪風はアメリカ軍飛行艇が近くに着水してアメリカ軍パイロットを救助する姿を発見しても、艦長や士官の指揮下、彼らに攻撃を加えることをせず、味方の日本兵の救助のみ行いその場を去った(雪風艦上では上述のマーチン飛行艇による涼月への機銃掃射が目撃され、将兵らを激怒させたが、雪風は報復行為を行っていない)。なお、アメリカ海軍は沖縄での特攻機による艦艇の被害は一切報道せず(レイテ以来「カミカゼ」には完全な報道管制がひかれていた)、大和とその他の艦の撃沈についてのみアメリカ陸軍記念日の司令長官ニミッツ提督の演説として、太平洋の全部隊にむけ放送した。日本軍に対しては、大和撃沈の宣伝ビラをまいている。その後、日本占領後の1945年(昭和20年)12月9日より開始されたラジオ番組『眞相はかうだ』において、GHQは坊ノ岬沖海戦および大和の沈没を『世界最大のわが戦艦大和と武蔵の最後についてお知らせ下さい』という題で放送した。第二水雷戦隊の戦闘詳報は、事前の打ち合わせもなく急遽決定したこの特攻作戦を厳しく批判している。「軍艦大和戦闘詳報」には、「戦況逼迫せる場合は兎に角焦燥感にかられ、計画準備に余裕なきを常とするも、特攻兵器は別として、今後残存駆逐艦等を以てこの種の特攻作戦に成功を期せんが為には慎重に計画を進め、事前の準備を可及的綿密に行うの要あり。思いつき作戦は精鋭部隊(艦船)をもみすみす徒死せしむるに過ぎず」との記載がある。矢矧に乗艦していた機関参謀は、戦後「世に不沈艦なるものなし。事前の準備なくして戦勝非ず」と述懐した。太平洋戦争を通じて大和と関わった宇垣中将は、「戦藻録」で『嗚呼!』と嘆き『全軍の士気を昂揚せんとして反りて悲惨なる結果を招き痛憤復讐の念を抱かしむる外何等得る所無き無暴の挙と云はずとして何ぞや』と記して日本海軍上層部を批判している。大和の沖縄突入は天候や航路の選定、各隊の協力および中央と現地の意志疎通が図られていれば可能だったとみられるが『佐世保回航も突然なら、特攻の指令も突然であり、その間に関連した方策の指示など聞いていない。これでは作戦が成立するはずもなく』(第二水雷戦隊司令官古村啓蔵少将)であった。なお4月9日から11日まで沖縄周辺は低気圧に覆われており、大和が特攻するならこの時期であった。7月3日、小沢連合艦隊司令長官は『沖縄海上特攻艦隊ハ昭和二十年四月初旬、海上特攻隊トシテ沖縄島周辺ノ敵艦隊ニ対シ壮烈無比ノ突入作戦ヲ決行シ帝国海軍ノ伝統ト、我ガ水上部隊ノ精華ヲ遺憾ナク発揮シ、艦隊司令長官ヲ先頭ニ幾多忠勇ノ士、皇国護持ノ大義ニ殉ズ。報国ノ至誠心肝ヲ貫キ忠烈万世ニ燦タリ。仍テ茲ニ其ノ殊勲ヲ認メ全軍ニ布告ス』という感状を授与した。鈴木貫太郎首相は、大和沈没8時間後の親任式でこの情報を聞き、内閣全員が降伏を現実のものとして受け止めたという。これ以降、水上部隊による攻撃作戦は極度の燃料不足のために行われず、長門(4月20日に予備艦となる)を筆頭に伊勢、日向、榛名など残存主力艦は海軍の方針により浮砲台として係留された。その後、アメリカ艦載機による空襲で長門を除き大破着底し、長門も7月末の爆撃後に武装を主砲以外全て陸上に移設しほぼ戦闘能力を失った。坊ノ岬作戦に参加する事も計画された長門と軽巡酒匂は戦後にアメリカ軍に引き渡された後、核実験 (クロスロード作戦)でビキニ環礁において原爆実験により沈没した。『どこに眠る戦艦大和』(NHK 1980年)において、当時大和の沈没位置は不明であったが、磁気探知により海底の巨大な鋼鉄を発見した。しかし、テレビカメラによる探査は天候悪化のため行えなかった。日本軍では、作戦のために第2艦隊からなる第1遊撃部隊が編成され、水上特攻を担当する部隊となった。出撃した部隊は以下の編制であった。参加兵力は計4,329名。平均年齢は27歳であったという。

出典:wikipedia

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