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備(そなえ)は、戦国時代から江戸時代において戦時に編成された部隊。各種足軽(弓・鉄砲・槍)隊、騎馬武者隊、小荷駄隊などで構成され、独立した作戦行動を採れる基本単位を指す。戦国時代以前においては律令制に基づく軍団制を除き、備のような系統だった部隊編成は見られない。それは律令制崩壊以後の日本においては「御恩と奉公」という主従関係に基づいた、繋がりを重視する部隊編成を行わざるをえなかったためである。しかし戦国時代になると領国間の紛争に伴う恒常的な臨戦態勢が必要となり、また足軽といった新たな戦力が加わった結果、戦国大名は軍事行動を行うための軍制整備の一環として、単独での戦闘が可能な備の編成を行う様になった。戦国初期はまだ備の構成も曖昧なものであったが、大名の中央集権化に伴い戦国中期頃から足軽間での兵科の分離や、騎馬武者も含めた各組ごと編成が行われた。さらに江戸時代になると戦時の大規模な動員もなくなった結果、備の定員はほぼ定まり制度として完成の域へと至った。備の別称は様々あるが、備も含み異なる意味合いで重複して用いられることが多い。また本来、備は「部隊」程度の意味で用いられており、本項目における用語の使用も凡例の一つと認識する必要がある。これは備のみならずそれより上位・下位の部隊・役職総てに言える事である。以下に各用語の使用例を記す。備の人員は一般的に300名から800名、本陣備の場合は1500名前後であるが、これらは大名の石高、戦時における戦闘要員、後方要員双方の動員、各備の任務により増減する。因みに石高一万石の領主を大名とする一つの基準は、備を一つでも編成できる事にある。次に、基本的な備の構成を示す(江戸中期)。なお、ここに示す順序・内訳は12万5千石の石高を有する大名、前橋藩酒井雅楽頭家が持つ九つの備の内、本多民部左衛門備の行軍中におけるそれを示す(高木昭作 1990)。行軍時における備の隊列は前述におけるの順番で組まれたものの他にの例もある(後者から弓組を除いた備も存在する)。これは後方の小荷駄を何で(前者は弓組、後者は騎馬隊)護衛するかによって異なるものと考えられる。備の隊列順は概ね戦闘隊形(陣立・陣備・備立)に組みやすい順で組まれるが、細部は編成する各大名によって異なるものであり、これは戦闘隊形においても同様である。戦闘隊形は陣立ともいい、合戦に際して行軍隊形から敵との戦闘に備え、各隊を配置する。備の戦闘隊形は明代の兵書『紀効新書』・『武備志』や、西洋のテルシオなどで確認される高度に統制された軍隊と異なり、厳密な操典はなく、また密集隊形を採らずに各兵科を横隊ごとに並べるもので、その配置も戦況に伴い頻繁に変更を行った。但し、各足軽部隊を前線に、騎馬武者隊を後方に置き、前者で戦線を形成し、それを後者で突破するというのは基本であった様である。これにより備は同時代における明・西洋の戦闘隊形に較べ高い機動力と地形に対する適応力を持ち、複雑な地形での機動や備単位での迂回、行軍隊形から戦闘隊形への即座転換などをこなす事が可能で、宣教師が極めて厳格に操練統率され、我々の軍隊では歯が立たないと評した明軍を文禄・慶長の役で打ち破った。また、備単体では魚鱗や鶴翼の様な陣形はあまり重視されない。これら陣形は基本的に備以上の部隊配置に反映される。江戸時代の軍学書には備単体での陣形の組み方を示したものがあるが、実際に合戦が行われた戦国時代から江戸時代初期には足軽の過半が動員兵で占められており、その様な複雑な陣形を無理に維持する事は機動力を失わせる事になり、現実的ではない。図1は合戦を描いた戦国合戦図屏風より、陣立がある程度確認できる岩国歴史博物館所蔵、『川中島合戦図屏風』の武田信玄本陣備(左図)と福岡市博物館所蔵、『関ヶ原合戦図屏風』の徳川家康本陣備(右図)を、図2は一般的な備(戦闘前)を模式図化したものである。因みに図1の徳川家康本陣備は中央に描かれていた単独の備である酒井左衛門尉備を除外し、家康直属部隊のみを示した。10万石級の大名は備を数個保有し、数十万石の大大名はその数個の備を一手としたものを更に複数、保有する事が可能となる(つまり一手部隊は10万石級大名と同様の戦力になる)。後者の場合、余りにも指揮する兵員数が多くなると全般指揮においてでも一人の将が完全に統率する事は不可能であり、大抵の場合は一手部隊を単独もしくは複数併せたものを独立部隊として行動させている。図3は『武徳編年集成』に記載されている小田原征伐における徳川家康軍団の構成を模式図にしたものである(但し、本陣備については再考の余地あり)。この図の内、先手衆七手・ニノ先手衆七手はそれぞれ一手が(前者の方が有する備の数が多くはあるが)複数の備で構成されており、単一の備よりも柔軟な作戦行動を採る事ができ、一戦場において単独で作戦を遂行する事が可能という意味において後述の特徴も併せて戦略単位といえる部隊である。また一手部隊の内訳は規模の大小の違いはあるものの旗本部隊の構成と大きな違いはない(本陣備は次項で解説する)。一手部隊の兵員数は概ね2000~5000人で構成されるが、これも備と同様に様々な条件により変動する。この時、必要とされる一手部隊に満たない人員しかいない場合は同様の小大名を複数編合する事で一手とし、それ以上の人員を持つ大大名は逆に上述の徳川家康軍団の様に分割された上で、複数の一手部隊として運用される。無論、備単位で作戦行動が行われる事もあるので総てが一手部隊に属する訳ではない。一つの備しか持つ事のできない大名と複数の備を編成できる大名では、特に後者の大名が直率する本陣備においてその構成に大きな違いがある。本陣備はその指揮下に複数の備を持つ事になる。そのため、それら全般指揮を執るためのものと本陣備自体を指揮する二つの指揮系統が必要となる。結果、全般指揮を執る大名(総大将)の代わりに重臣の一部が本陣備の指揮を執ったり(例:図3武者奉行)、本陣備中の騎馬隊組頭が足軽組を(明確なものではないが)指揮下に置く事で備の戦闘指揮官を務める事になる。また、本陣備は他の備と異なりより後方支援的な職種である工兵(金堀衆、黒鍬衆、小普請組)、主計(納戸方、右筆)、調理人(台所方)、医者、僧侶(陣僧)などといったものを含み、更には本陣備のみならずその他の備も視野に収めたより大規模な小荷駄も含まれている(図3では省略しているが家康本陣備には陣場奉行・小屋営作奉行などが存在する)。これらの部隊は小屋懸け組(戦地における宿営地を建築する部隊)の様に独立した隊として編成されたものもあり、多種多様な職種が存在した。また複数の備を編成する場合、本陣備以外の備は重臣が士大将となり指揮を執るが、その備を構成する人員の殆どは彼の家来ではなく重臣と同じ大名の家臣である。彼ら備の構成員は大名の命により寄騎として重臣の指揮下に就いており、決して重臣の家臣(陪臣)になったのではない。これを寄騎同心制といい、重臣に大きな権力を与えずに備を構成・指揮させるのに有効な手段であった。

出典:wikipedia

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