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池上四郎 (大阪市長)

池上 四郎(いけがみ しろう、安政4年4月18日(1857年5月11日) - 昭和4年(1929年)4月4日)は、日本の警察官僚、政治家。第6代大阪市長、第6代朝鮮総督府政務総監。兄に検事・池上三郎、娘婿に内務省官吏石川銀蔵。秋篠宮文仁親王妃紀子は曾孫に当たる。1857年会津藩士池上武輔(250石)の四男として、陸奥国耶麻郡(現・福島県会津若松市)で生まれた。11歳のときに戊辰戦争を経験する。兄の友次郎は、鳥羽・伏見の戦いの正月五日の戦で戦死。父・武輔は井深宅右衛門の第二遊撃隊の組頭として越後小千谷で新政府軍と戦い、負傷する(北越戦争)。会津戦争時に四郎は、兄の三郎と共に会津若松城に篭城した。白虎隊への入隊を強く希望したが、15歳以上の規約のため数えで12歳の四郎は除外された。敵に城を包囲され、一日に約二千五百発の砲弾が撃ち込まれる中で、四郎は年少組の仲間と共に唐人凧をあげて自軍の士気を鼓舞したというエピソードが残っている。開城後は再興を許された斗南藩へ父母に連れられ一家六人で移住し、開拓農民として辛苦の生活を体験する。その厳しい風土での生活において父・武輔は息子の三郎と四郎に「お前達は日新館で安倍井帽山先生や、高津淄山先生に教わったことを基礎として、勉強するのだ。武士の道は刻苦、忍耐と魂の練磨である」と説いたという。その後、四郎は兄の三郎を頼りに上京。横浜正金銀行の柳谷卯三郎の書生となり、苦しい生活の中で勉学に励んだ。1877年、池上は警視局一等巡査として採用され、間もなく警部として石川県に赴任した。その後、富山県などの警察署長、京都府警部などを歴任し、1898年からは千葉県警察部長、兵庫県警察部長を務めた。1900年には大阪府警察部長となり、その後13年間に渡って大阪治安の元締めとして活躍した。その清廉で、自ら現場に立ち責任を果たす働きぶりと冷静な判断力は、多くの市民からの信頼を集めた。しかし、大阪府警部長時代には高崎親章知事の汚職疑惑を放置したことなどを理由に、宮武外骨に批判されている。1913年、市政浄化のため、池上は嘱望されて、肝付兼行の後任として大阪市長に就任した。財政再建を進める一方、都市計画事業や電気・水道事業、さらには大阪港の建設などの都市基盤を整備し、近代都市への脱皮を図った。御堂筋を拡張し大阪のメインストリートとする計画は、池上の市長時代に立案され、続く関一市長時代に実現し、大大阪時代の全盛期を迎えることとなった。また、市庁舎の新築、博物館や図書館などの教育施設や病院の整備など、社会福祉の充実にも注力した。池上は1915年に天王寺動物園を開園させ、1919年に全国初の児童相談所・公共託児所を開設した。1923年には大阪電灯株式会社を買収し、電気供給事業を市営化した。また1923年9月に発生した関東大震災では、いち早く大阪港から支援物資を東京に送り、被災者の救済を行った。池上は3期10年の市長職を退任後の1927年、朝鮮総督府政務総監として、当時日本が植民地政策を推し進めていた朝鮮半島へ赴任した。大土地所有制によって貧困化していた小作農を救済するため、小作法を制定するなどの救済政策を進めた。しかし1929年、池上は任期半ばにして病に倒れ、東京で没した。1935年、池上の功績をたたえ、大阪市民の手によって銅像が建立された。この銅像は太平洋戦争最中の1942年、金属供出により撤去されたが、戦後の1959年6月に市政70周年を記念して再建された。"池上氏"池上家の初代十左衛門高尚は、本姓源氏、信濃国住人池上新之丞高忠の嫡男である。高尚は信州高遠保科家へ御小姓として召しだされ、四郎の父・武輔は会津藩御使番、190石、本四ノ丁内田武八の二男で池上家の婿養子となり、1862年(文久2年)5月7日に家督を相続した。六女の紀子(いとこ)は内閣統計局長となる川嶋孝彦と結婚。その孫が秋篠宮文仁親王妃紀子である。

出典:wikipedia

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